<邦人リスト>

欧州戦争七年目の一九四五年に入ると、ドイツは西でも東でも、かつて戦争を始めた地点まで押し戻された。戦場はドイツ領内となった訳である。帰国の出来なかった邦人も、身近にせまるベルリン陥落に備えなければならなかった。
 
ベルリンの日本大使館、武官室、報道機関では敗戦対策として幾人かのスタッフを隣接する中立国スイス、スエーデンに送った。しかし両国は限られた数の入国ビザしか発給しない。またスペイン、ポルトガルへの唯一の連絡法であった航空路も閉鎖された。

それでも日本とソ連の間には依然、松岡外相によって締結された中立条約が存在していた。よって欧州の日本人は、アメリカ軍なら抑留されるが、ソ連軍によって救出されれば、故国に無事送り返されるはずであった。

そこで二月、ベルリン総領事館では残っていた邦人すべてに対し、ロシア語で書かれた身分証と保護を依頼する文書を渡した。ロシア兵が進出してきた場合、日本人であることを説明し、保護と無事な帰国を求める護身証であった。

そしてこの頃には邦人は殆どがベルリンの市内を離れ、郊外に避難していた。かれらの名前と、おのおのの避難場所が記載されたリストが作成された。そのリストはベルリンから日本の外務省に連絡され、さらにモスクワの日本大使館に送られた。そして最後は佐藤大使によってソ連側に渡され、邦人の保護が依頼された。

この要請もソ連側に快く受け入れられ、ソ連は全軍にさっそく邦人保護の指令を発した。ここでは中央で決まったことの伝達速度は速かった。この時作成された邦人リストによれば、最後までドイツに残った邦人は、次の様に分類された。

まず職業別に見ると
大使館関係 ー一0九名
総領事館関係ー三十八名
陸軍関係 ー六十一名
海軍関係 ー四十七名
その他の官雇ー十名
銀行、会社関係ー一一六名
新聞社、通信社ー三十七名
その他 ー一二四名
計 ー五四二名
と合計五百四十二名中、外交官、軍人関係者が半数を占めている。

次いで地域的に見ると
ベルリン総領事館内 四八九名
ウィーン総領事館内 三五名
ハンブルク総領事館内 十八名
と圧倒的にベルリン地区に集中している。

ただしこのリストに名前のある邦人のうち約二十名は、実際は入国ビザを得てスイス、スエーデンにすでに避難している。

またリストのベルリン地区邦人の中には、ドイツ軍の占領地から一年以内に引き揚げてきたばかりの人々が、二百名ほど交じっていた。フランス、イタリアからの避難者のみでなく、遠くアフリカのモロッコに駐在していた邦人もいた。

イタリアからの引き揚げ邦人三十五名は、ドレスデン近郊に、またフランス、ベルギーからの二十八名は北ドイツ、メクレンブルクのいくつかの村に分散した。

大人数を抱える三菱商事の関係者は、三十四名まとまってベルリン東方ズコーに疎開した。しかし三月、ズコーの家屋はドイツ軍に徴用されたため、全員ベルリン西方八十キロのリンデの荘園に落ち着いた。

さらにベルリンの北方九十キロの地点には、大使館通商部嘱託を中心とするグループがいた。かれらはその後、付近の小村クレヒレンドルフの古城に避難する。
 
この他の民間の在独邦人は二月中旬、ベルリン西方七十五キロのベルチッヒ地区に分散避難した。かれらは、最後はそこから程近い所に孤立して立つマールスドルフ城に、集結することになっていた。

大使館関係者はベルリン西方のモルヒョウの別荘にまとまって避難していたが、二月、三月と二回に分かれ、殆どが南独に向った。ドイツ側が南ドイツの保養地バード.ガスタインに枢軸、中立国外交官用に避難所を用意した。かれらは全員、外交官パスポートを所持するから、アメリカ軍が来ても大丈夫であろうと、ベルリンに残る邦人は羨望も込めて噂した。

また民間人では大使に可愛がられていたバイオリにストの諏訪根自子のみが、南独行に加わった。彼女の職業は例のリストによれば、大島大使夫人豊私設秘書となっている。

大島大使自身は四月十三日、大使館員、陸軍、海軍関係者それぞれ数名と共に南独のバード.ガスタインに避難した。以降は十数名の若手の外交官が、ベルリンの大使館の地下壕に残留し、ロシア占領軍との折衝にあたることになった。もともと居留民の保護の責任を負う総領事館関係者もベルリンに残り、各地に散らばる在留邦人の保護にあたることになった。

陸軍関係者数十名は一九四五年早々から南に避難し、後にガスタインに合流した。海軍関係者は小艦艇を予め手配しておき、最後の瞬間にスエーデンに逃げ込んだ。



<集団帰朝実現>

四月に入るとソ連軍のベルリン総攻撃が始まる。大島が常に訴えていた在留邦人の集団帰朝が実現するのは、それによってドイツが崩壊してからであった。

四月十四日、ソ連軍の最後のベルリン総攻撃が始まった。同じ日にベルチッヒの在留邦人に対して、マールスドルフ城に集結するよう指令が出た。城には様々な社会の日本人が百四十名ほど集まった。外交官、商社員、留学生等の他にサーカス団員、柔道師範など、当時の日本人が海外で活躍する事の出来た、ほとんどの分野にわたっていた。ここでは自治会が組まれ、皆が平等な自給自足の合宿生活が営まれた。城には電気も電話も通じなかった。

五月二日、ヒトラーの戦死(実際は自殺ー筆者)とベルリン陥落の知らせが城にも入った。三日、ソ連軍は近郊のベルチッヒに入った。ソ連軍の進駐に備え、城の門にロシア語で帝国総領事館の門標を掲げ、屋上と門に日の丸の国旗を掲げた。日本が必至に維持してきた日ソ中立条約が役に立つ時が来た。

婦女子は万が一に備え三階の一室に隠れた。翌四日午前七時、城に五名のソ連兵が現れた。ロシア語の得意な横井喜三郎が「この城は日本総領事館で在留邦人の避難所である」と説明すると、ソ連兵は二人を歩哨に残し退去した。やがて一個小隊の兵士がやって来て、それから絶えず邦人の保護にあたった。ベルリンではドイツ人に対し、強奪の限りをつくしたソ連兵であったが、日本人には恨みはなかった。

五月十三日、日本人会によって園遊会が企画された。そしてソ連兵も招待した。
「日ソの民謡の交歓があり、ソ連兵も自国の民謡が日本人の音楽家のバイオリンで演奏されるのを、目を細めて聞き入っていた」と当時の滞在者の日記に記されている。

十八日早朝、ベルリンよりソ連国境警備師団長が来て、本日中に全員ベルリンに発ちそこからモスクワ経由で帰国させると伝えた。軍の命令であるから従うほかなく、一行は四時、トラック四台に分乗してベルリンのリヒテンベルク駅向かう。同駅に着くと、そのまま近くの民家に二泊する。そこにはベルリンの大使館の地下壕に篭城していた大使館員のほか、スイス、スエーデンといった他の中立国の人々もいた。みな知恵を出して、戦禍を逃れたのであった。

二十日、百五十二名にふくれた邦人は、ベルリンを出発する。途中の鉄道は何ヶ所も寸断されていた。二十五日朝九時、ようやくモスクワに着く。モスクワでは一行は、駅を出ることすら許されなかった。代表十数名のみが日本大使館が赴いた。

佐藤大使は残留希望者に対して、一刻も早い帰国を厳しい口調で伝えた。ソ連はすでに日本との中立条約の非延長を伝えてきて、大使館内は殺気立っていた。それでも病気、身重等でどうしようもない九名がモスクワに留まり、列車は午後四時東に向って出発した。シベリア鉄道を経て満州国境に着いたのは、六月三日であった。ついに実現した集団帰朝は、無事全員を日本に送り届けることができた。

民間人はハルピンで世話をする宮川総領事に、ソ連の印象を次の様に語った。日本の関心は当時、ドイツ崩壊後ソ連が日本に参戦してくるかであった。
「秩序立ちて輸送の世話を為せる赤軍当局は、あくまで懇切の態度を示したる由なるも、将兵中には"日本はファッショ国なり、今に我等も日本討伐に赴くべし"とか"東京で又会わん"とかの言辞を弄し、或は"日本軍は装備に於いて到底蘇軍に敵わざるべし"と公言する者の少なかりし」

ソ連の軍人は日本に対し、かつてない自信を持っていた。さらに軽視出来ない出来事として、途中に車中に居合わせた一将校は、ある邦人女性を見初めた。そしてかれは自分の首の鎖を、件の女性にプレゼントし
「貴女を東京にて探し出す」と語ったという。既に正式に命令が出ていたのかは分からない。一般ソ連兵は教育のためか、強気の対日感を抱いていたようだ。またこれらの情報に接しても国内ではソ連の対日参戦は、殆ど有り得ないとされた。

他の避難所の邦人も同様に、皆無事に帰国する。どこでもロシア語で作成した保護援助の依頼状が大いに役立った。一部には意思でベルリンに残った邦人もいた。
また南に避難した大島大使ら百八十余名は
アメリカに送られた。軍人は何度かの取り調べを受けた。かれらは終戦の年の十二月六日、アメリカ船で浦賀に着く。

スイス、スエーデン、スペイン、ポルトガル、トルコ等に駐在した邦人三百二十一名は翌年三月二十六日、浦賀に帰り着く。さらにスイスに残った新聞記者ら十六名が四十七年十二月日本に向かう。

以上のように、多くの被害者が出た欧州においても邦人は、引き揚げに際しては一人も犠牲者が出ることなく全員が日本、満州に引き揚げることが出来た。そして欧州に日本人は、現地人と結婚したものを除き、実質一人もいなくなった。



<終章>

ソ連を経由する邦人の日欧渡航の歴史は終った。これまで見てきたように、潜水艦、飛行機などあらゆる手段が考え出された日欧交流であったが、最も安全で大規模に行われたのがこのシベリアルートであった。しかしながら戦時中から、大きく取上げられることはない不思議な交通路であった。

またこうした動きに細心の注意を払った日本であったが、その交信文によって全てがアメリカの知る所であった。アメリカは地球の裏側にいながら、日本の外交軍事情報を全て抑えていたのである。その気になれば、潜水艦等で強行突破しようとするものは、全て妨害することができた。唯一こうした攻撃からも安全であったのが、ソ連の通過ルートであった。

貴重な通過査証で日本に帰った軍人、外交官は一人としてドイツの苦境、遠くない崩壊を然るべき場所で発言しなかった。当時の日本とはそういう発言を許さない雰囲気を国全体が持っていたのだろう。勿論それにもかかわらず、真実を伝えなかった物の責任も無しでは済まされまい。

一方欧州に残った外交官の交信録を見ると、かなり率直にドイツの苦戦を伝えているものがある。しかしそれらを日本において、真剣に取り上げたという跡は見られない。

確かに戦時中の日独の交流について語る史料はほとんど残されていない。しかしこうしてアメリカの史料などから再現しても、実際にほとんど何もなかったというのが戦時中の日独関係といえよう。数少ない人間による日独交流の試みは、その中でも幕間の人情劇とでも呼ぶのがふさわしいのかもしれない。

最後に本書で取り上げたのを中心に戦時中に日欧間を行き来した邦人のリストを添えておく。
欧州より日本
一九四二年
一.安東義良 駐伊参事官
二.桜井三郎 駐伊内務省事務官
三.徳永康元 日ハンガリー交換留学生
四.角田文衛 日伊交換留学生 京大考古学研究室より
五.遠城寺宗徳 九大教授 ウィーンで結核予防の研究
六.丸才司 司法省
七.関口保 蒙古政府顧問、ドイツ出張中帰国不可能に
八.芳賀檀
九.橘
十.伊藤香象 満鉄ベルリン事務所長
十一.高田正 司法省
十二.西ヶ谷徹
十三.園田忠 外交伝書使 トルコより帰国
十四.谷照夫 書記生 本名谷林勝主計少佐
十五.藤塚止戎夫 陸軍少将 ルーマニア陸軍武官 妻りゅう同伴
十六.坂西一良 陸軍中将 ドイツ陸軍武官
十七.芳仲和太郎 陸軍少将 ハンガリー陸軍武官
    妻千壽 長男和夫同伴
十八.西郷従吾 陸軍中佐 ドイツ
十九.山本敏 陸軍大佐 ドイツ 謀略担当
二十.飯島正義 陸軍大佐 ドイツ
二十二.中村昌三 陸軍中佐 ドイツ
二十三.館野基史 陸軍中佐 ドイツ
二十四.榊原主計 陸軍中佐 ドイツ、イタリア兼務
二十五.山岸重孝 逓信事務官 ドイツ陸軍武官室勤務
二十六.前田義徳 朝日新聞トルコ駐在員
ハンガリー人妻同伴

一九四三年
二十七.大久保利隆 ハンガリー公使
二十八.牛場信彦 駐独一等書記官
二十九.道正正 駐ブルガリア通訳官
三十. 佐貫亦男 日本楽器 ドイツ
三十一.川村知 古河電工 ドイツ
三十二.松尾敏彦 古河電工 ドイツ
一九四四年
三十三. 堀切善衛兵 前駐伊大使
三十四. 柳井庄五郎 堀切従者

日本から欧州
一九四二年
一. 小林高四郎 官補 トルコ
二. 渡辺真治 理事官 バチカン
三. 都倉栄二 書記生 ドイツ
四.河原田健雄 書記生 ドイツ
五.竹内伍一 書記生 ドイツ
六.村山七郎 理事官 ドイツ
七.高橋保 官補 ドイツ
八.魚本藤吉郎 官補 ポルトガル
九.根本博 官補 ポルトガル
十.中根正巳 官補 ドイツ

一九四三年
一.日高信六郎 駐伊大使
二.木内良胤 駐伊参事官
三.寺岡洪平 駐伊三等書記官、後にハンガリー代理公使
四.野口芳雄 通訳官(ブルガリア)
五.柳澤嘉寛 日高従者
六.平田雅二 駐伊理事官
七.菅良 通訳官
八.犬丸秀雄 文部事務官
九.中村春太郎 丸善社員
十.多田利雄 書記生(トルコ)
十一.新村徳也 書記生(トルコ)
十二.岡忠 書記生(トルコ)
十三.永田大二郎 三等書記官(スイス)
十四.中川進 三等書記官(ドイツ)
十五.岡本清福 陸軍少将 遣欧使節
十六.与謝野秀 一等書記官 遣欧使節
十七.甲谷悦雄 陸軍中佐 遣欧使節
十八.小野田捨次郎 海軍大佐 遣欧使節
十九.土屋準 二等書記官(スエーデン)
二十.武川基 官補(スイス)
二一.田辺宗夫 三等書記官(トルコ)

満州国邦人、フィンランドとの国交断絶による相互の交換、アフガニスタンへの赴任等は省略した。