<ソ連横断旅行>
一行のソ連入りは三月十日であった。ソ連との国境に至る途中でメンバーの一人木内参事官は発病し、入ソを見送った。極寒のシベリアから中央アジアを横断し、無事トルコに着くと四月九日、谷外相に宛ててソ連通過に関する報告を送る
「ソ連側の態度
一.座席二十及び貨車一両の約束に対し満州里クラスノウォドスク間及びバクー、レニナカン間とも事実上、貨客車各一両直通の扱いを為し、車室又特に二人詰め一等九室を割き便宜を計りたり。荷物の扱いも丁寧にて何ら事故無し。
二.満州里"ク"間は尾行者二人宛て(約五回交替)"バ""レ"間は鉄道職員を装える者一人同車せるが少数の例外を除き態度慇懃にて、進んで荷物積み替えの手伝いまで為したる者あり。尤も乗換え地に於いては一行は常に車室又はホテルに於いて軟禁状態に置かれた」
かれらも交替でソ連官憲の目を盗んで、国内の情勢を頭に刻み込んだ。アメリカが援助した、DC-三型飛行機、トラックが途中で何度となくかれらの目にとまった。
一.ソ連の鉄道輸送
ニ.ソ連鉄道沿線の軍事情報
三.鉄道沿線の建築事情
に分かれており、膨大な電報となった。この電報もアメリカは解読している。それによってアメリカはソ連に向けた自国の援助が、実際に役立っていることを確認したという。
連絡使の四名はトルコからベルリンに向かう。途中のブルガリアの首都ブカレストでは、甲谷中佐が表向きの任国であるがゆえに、山路公使等と共に同国参謀本部外国武官掛を訪問する。一応着任の挨拶である。しかし席上同行の立石方亮駐トルコ武官より
「甲谷大佐はアンカラ到着と同時に参謀本部よりの電報に接し、一日も速やかに在独、伊陸軍武官との打ち合わせのため伯林及び羅馬に赴き、右旅行後正式にソフィアに着任するべきを命ぜられたるを以って、取り敢えず本日直ちに出発せしむることとせるに付、了承あり度」と一方的に告げ、甲谷もベルリンへの旅を続けた。
ルーマニアを経由し使節団がベルリンに着いたのは四月十三日であった。岡本は歓迎会に続いて、日本から預かってきた家族からの便りを、駐在者に配った。
一向に交じっていたトルコ赴任の三人の外交官は、アラビア語習得のための留学生であった。トルコ入りするや否やイスタンブールで研修に入るが時局柄、勉学だけというのには後ろめたさがあったようである。かれらは栗原大使に相談する。
「三留学生より、当地には適当なるアラビア語教授殆ど居住しておらず、現在程度の勉学は任官するも続行し得べき見込みに付、時局柄任官の上、館務に服し度き希望ある旨申出たる所、右は尤もの儀と認めらるるのみならず、在欧公使館書記生払拭の際にも鑑み、同人等の希望を容れること適当と存ぜられるに付、何分の詮議相成度」
<集団帰朝>
ソ連通過のビザ交渉に関して日本側は、常に不満を持っていた。一九四二年十二月十一日にはビザ交渉に疲れた佐藤大使から谷正之外相に、長い依頼電が入る。
速やかに人的交通を確保する要あるも、現在は僅かにソ連邦と困難なる交渉を経て、我が方要求通過査証の一小分を満足せしめ居るに過ぎず。而もそれすら重要人物の往復に至りては、ソ連邦が果して承諾するべきや甚だ疑問なり。(中略)
戦時の今日、彼の都合の良き範囲内においてのみ、我方に満足を与える以上には出て難く、到底我が方戦時の必要を充たすを得ざる現状にあり。独ソ関の成行き等でいつ停止せらるるやも計り難き。(中略)
ついてはかなりの犠牲を犯しても、飛行機、潜水艦等に依るドイツとの直接交通路の開設に勤められたし」
飛行機潜水艦等による交通路というのは、勿論簡単にはいかない。しかし日本参戦後一年経って佐藤は、もはや通過ビザはソ連側が必要とする範囲内でしか日本側が得られない、不安定なものであることを実感していた。そしてもし航空路が開設されれば、佐藤はこのわずらわしいビザ交渉から、解放されるはずであった。
また当時欧州に暮らす邦人は、予想に反し余り充実した日々を送っていない。一九四三年三月十六日大島大使は、谷正之外相に向けてドイツの邦人の情況について説明し、意見具申をする。
「在独邦人集団帰朝に関する件
目下当地在住の陸海外蔵四省関係を除く邦人は約二百名に近き所、商社関係者は殆ど仕事なく、また他官庁出張者其の他多くの技術専門者も旅行の制限、其の他の生活上の不便より、現在充分の研究を遂げ得ざる情況にて、多くは空しく日を過ごし居れりと言いて不可ならず。(中略)
この際以上邦人にして帰朝を希望するものを、一括集団として帰還せしむる為、積極的方法を講ずる事は、以上の事中に依り必要なるのみならず、在留民保護の責務を有する責務を有する外務官憲として、当然の措置と存ぜらる(後略)」(棒線筆者)
選ばれた欧州駐在者が、空しく日々を過ごしているというのは皮肉な話である。
しかしこの集団帰国希望に対して、外務省からは極めて現実的な回答が届く。五月三日付けで発信者である外相は重光葵に代わっている。
「御来示の趣、御尤もにして此の種邦人の帰国に関しては当方としても腐心して居る次第なるが、既に外務省員、陸海軍人の査証すら在蘇大使館を通じ事務的、政治的に凡ゆる方法を盡して交渉せるも、甚だ不満足なる結果を得居る現状に於いては、遺憾乍ら如何に先方を説くも、二百名以上の邦人を此の際急速に帰国せしむることは見込みなく、従而査証に関する対蘇交渉は、陸海外関係者等極めて限られたる範囲に限局せざるを得ざる次第(後略)」
文部省派遣留学生でフィンランドに暮らしていた桑木努は、この年の一月留学期限が切れるため、ベルリンを訪問し、帰国のためシベリア通過のビザ申請を行う。その時の日記には
「これが遂に可能性のまま永遠に喪われるのか、ライプニッツのいう共可能性(ママー筆者)のひとつが現実性となって実現するのか、そこに働く適合の原理は如何、などと考えると、全知全能の神の存在を信じたくなり、ライプニッツの弁神論もウソじゃないと思われてくる」
そして当時邦人の間では以下のような会話が交わされていた。
「いったいいつ頃、日本に帰れるんでしょうな」
「トルコからコーカサスを抜け、シベリア経由の国際列車で帰ることは、理論的には可能でも、ソ連の査証がいつ下りるかが問題ですね」
「妻子を国に残して、この遠いヨーロッパくんだりにただ一人、いつ帰れるやらあてもなし、この島流しのおれかいな、、、」
<その他の交流>
開戦一年目の一九四二年、他の方法でも日欧の交流が行われた。まずはドイツの海上封鎖突破船である。ドイツは日本が参戦した後も、自国の輸送船をアフリカ大陸の南端を経由して強引にアジアに派遣した。南方の資源が欲しかったからである。これは敵の攻撃を覚悟の上の航海であった。
当初は制海権が比較的枢軸側に有利であったため、十隻以上がドイツ、占領下のフランスから日本の南方勢力圏に到達した。日本ではこれらの勇敢な連絡船を柳船と呼んだ。柳のようにしなやかに、敵をかわしながら航海をするからであろうか?
柳船は日本の希望するドイツの特殊兵器、精密機械、鋼材などを運んできた。日本に赴任する技術者も乗り込んできた。そしてこれらの柳船は生ゴム、錫、モリブデンなどを積み込んで欧州に向かった。(逆柳船)しかしかれらが帰途につく頃には情況も変わり、イギリス空軍が優秀なレーダーを備え大西洋上で待ち受けていた。そしてドイツまで戻ったのは三隻のみという。
この柳船は日本人を輸送しなかったものの、その内の一隻は上記の物資の他に、日本からの便りも運んで戻ってきた。一九四二年四月十七日ドイツの小松光雄武官補は参謀本部に礼を述べる。
「お手紙拝領。家族よりの手紙も一年ぶりに受取り武官外一同御好配感謝しあり。今後とも(柳船のー筆者)便あり次第、秘密ならざる(公用)書類、宣伝資料(写真は独側も奪い合いなり)、新聞雑誌等(月遅れにて結構)送付ありたし。一同内地の事情に飢えあり。尚柳船は撃沈せられし例もあることなれば、各船に同様の品物分配積載せられたし」
危険の大きい柳船に対し、日本海軍は大型潜水艦のドイツ派遣を計画した。大型潜水艦でアフリカの南端を経由し、ヨーロッパに着く考えであった。その第一弾として伊号第三十潜水艦が幾多の危機を乗り越え一九四二年八月六日、フランスのロリアン軍港にたどり着いた。
ドイツ軍の首脳部も潜水艦による日独連絡路の開通を喜び、遠藤忍中佐艦長は、ヒトラーの招待を受けクロス勲章を授与される。ただしこの潜水艦は乗組員のみで、いわゆる欧州への赴任者は運んでこなかった。また陸軍武官室がこの派遣に冷ややかであったのは、先の電文に見た通りである。
そして海軍はこれらの潜水艦で、海軍関係者を往来させた。ドイツ、フランス駐在海軍武官なども乗員に交じって長い航海を経験した。ソ連の通過査証は、海軍はプライドもあってかほとんど利用しない。大戦中を通じての潜水艦による交流については吉村昭の「深海の使者」に詳しくい。

