ドイツ駐在陸軍関係者中、最高位の坂西駐在武官がソ連を通過して帰国する事になった。後任は日本からは派遣出来ずに、補佐官の小松光彦少将があたる事になる。十一月二十九日、ベルリンで坂西中将以下の陸軍関係者の送別会が開かれる。全欧州から陸軍武官が集まった。
トルコの栗原大使からは
「旅行中の食料、その他は当地にては調達不可能」との連絡を受けていたため、帰国者はベルリンで可能な限り、缶詰等を集めた。かれらは翌年一月十二日に満州里に着き、東京駅着は一月十八日であった。ソ連の不退転の敵ドイツとの連携に努めた日本陸軍代表者が、ソ連を経由して帰国した。
坂西は大本営での報告の中で「(ドイツは)弱点はあるが、長期持久戦争に絶えるものと確信する」と希望的観測を述べた。また二月二十六日の朝日新聞は、「独国民の鉄の団結」という見出しで、坂西らの帰国を紹介し、日本国民もこのころドイツからの帰朝者があったことを知る。
同じくビザが下りたハンガリー駐在武官芳仲和太郎は妻と子供を連れ、帰国の途に着く。十二月四日電報で総務部長に宛て
「小官及び家族十二月七日当地発帰朝す。十九日アンカラを出発し、二十三日ソ連国境内に入る予定」と報告し帰国についた。
翌年一月二十五日の大本営における芳仲の報告の調子は、坂西とは若干異なる。ハンガリーから見てと断った上で
「独だけでソ連を破るのは難しい。イタリア外交官の連中は、この戦争は負けと言っている」と語った。
芳仲の長男和夫は当時中学生であった。戦時ソ連通過ルートを体験した最年少者であろう。かれは今日世界でも珍しいララ、アンデルセンの歌うリリィー、マレーンのSP盤を、この時大事に日本に持ち帰ったという逸話が「リリィー.マレーンを聞いたことがありますか?」という書物で紹介されている。
さらに付け加えれば、飯島正義大佐は「武器の携行は絶対に許されないという所、苦心惨憺してベルリンにあった鎌倉時代の刀工備前三郎国宗の名刀を日本に持ち帰った」(戦時下の手紙)
朝日のブルガリア特派員であった前田義徳は、十二月十九日にアンカラを出発する列車の切符を手配した。出発日から二週間前の十二月五日、栗原トルコ大使は谷外相に宛てて電報を送っている。
「前田は十月二十八日ソフィアにおいて、満州国籍ハンガリー人静香と正式に結婚。帰国の切符を手配した十九日迄に(妻の分の)ビザの計らいを」
かれは三年前の十一月、前妻八重を病気で失ったばかりであった。谷外相から折り返し電報が入いる。東京は「今後は出先で勝手に行動をとらないように」と抗議し、前田の妻の素性に不審な点がないか、注意を喚起した。
当時の状況からすれば時間的に相当無理なソ連の通過査証要求であっったが、出発前日の十八日ビザは無事下りた。前田は終戦後まもなく「敗北の記録」というタイトルの回想録を書いている。上下二巻とのことで上巻は一九三九年で終わっている。しかし下巻はどこにも見つからない。終戦直後の混乱期、結局発行されなかったと筆者は想像している。よって今回のソ連縦断については詳しく知ることが出来ない。
もう一人のこの時の欧州からの帰朝者である山岸逓信事務官は、日本に帰ると「ドイツ」という雑誌一九四三年九月、十月号に「最近のドイツ」「ドイツのテレビジョン」をそれぞれ書く。ドイツではテレビが実用化に向かっていた。そして筆者の見つけた限りでは、これらはおそらく当時の雑誌に発表された、最後の欧州体験報告となる。
一方日本からの渡欧者は、先に佐藤大使が十一人の申請者と述べたうち前回の七名と今回の四名で、日本側の希望は取り敢えず満たされた。そのうち中川進官補のビザは十一月二十一日になっても下りないため、中根正巳、魚本藤吉郎、根本博、および前回ビザの発給の遅れた高橋保の四名の官補で、年末に欧州へ赴任する。第二段の欧州赴任者であった。
アメリカによる傍受解読電であるマジックサマリーはこの高橋のソ連報告もとりあげている。こうしたソ連国内の情報はアメリカにとっても貴重なものであった。ソ連は同盟国アメリカ人にも自国内の往来を認めなかったからである。
「一.一般的印象
A.食料不足とインフレの事実はあるものの、ロシア人は強い愛国心が認められ、戦争による不都合も気にかけていない。
B.タシュケントの近郊は、きわめて平和な気配であった。しかしコーカサス地方に近づくにつれ、戦時気分が高まってくる。人々のモラルの高さに印象付けられた。
C.動員は徹底している。よってすべての車掌、駅員、ポーターそして幾人かの機関車の釜炊きは女性である。ノボシビルスクで見かけた唯一の男性は十五六歳の少年である。(後略)」
<満州国邦人の帰国>
日本が擁立していた満州国も独立国としての建前上か、独伊等いくつかの枢軸国と外交関係をもち、外交官を送っていた。実際にはその外交官の大部分は、日本人であった。そして中には身分の怪しい人物も、幾人か含まれていた。
そしてベルリンでは「星機関」を組織して、日本陸軍武官室とは別に対ソ諜報活動を展開した。ドイツでの秋草の活動については、記録が何も残っていないため、神秘的に語られている。
しかし筆者の見つけた先の交信録によれば、活動範囲は意外と狭かったようである。特に独ソ戦が始まってからは、ドイツでは対ソ諜報活動は不可能であった。一九四一年九月十日、坂西駐独武官は参謀本部次長に次の様に宛てている。
「貴電第七一四号に関し左の如く意見を具申す。
一.蘇情報機関星機関の名称を廃止統合し、在独武官室当然の業務として遂行する事は同意す。(後略)」
この時点でソ連の情報収集の仕事は陸軍武官室と統合され、星機関の独自の活動は終ったと考えてよい。
また満州国は独立国としての立場上、ソ連のビザ交渉も、日本人とは別枠で行われた。そして一九四二年五月、満州国側はドイツで活動の場がほとんどなくなった星野一郎こと秋草、満州国公使館嘱託秦正宣、安住誠吉の通過査証取得の交渉に入る。
秦も星野同様、陸軍中野学校の出身である。一九四二年三月十六日ドイツの陸軍武官室は次の様に総務部長に打電している。
「秦中尉は現在外交官の身分(プレスアタッシュ)を以って独国宣伝省、外務省等と密接なる関係に在り。
これを突如陸軍関係に移すは独側に対し、一種の不信行為となり且帝国将来のため、その地下組織の企図をも暴露し、又今後満州国公使館員に対しても徒に疑心を抱かしむる不利あるに付き、右の実情を考慮の上、再考相成度」
このように陸軍は満州国外交官という身分をも利用して、諜報関係者を欧州に送り出していた。「地下組織」という言葉が出てきたりして、かなり明確に、当時の満州国官吏の実情を語っている。
七月二十四日、東郷外相は梅津美治郎満州国大使に
「(ソ連より)満州側帰朝者四名(星野、秦、安住、山田)の査証発給方指令在り」と連絡する。その後星野らの満州帰国は同年十一月末のことであった。十二月一日参謀本部次長から駐独武官に一通の電報が打たれている。
「秋草大佐は貴電五四四号に依る鉄道記事を携行しあらず。西畑の満鉄本社宛鉄道関係報告書と同一のものか?」
外交官の携行品は、ソ連官憲にも検査されなかったので、ある程度の機密書類が、かれらによって欧州から運ばれた。
また一九四三年三月には久しぶりに、満州国側の交渉で、満州中銀のベルリン駐在員若林某に通過ビザが下りたが、同行出来る邦人は一人もいなかった。前年の十一月の以来、欧州からの帰朝者は全くない状況であった。
<戦時交換船>
開戦翌年の一九四二年は「戦時交換船」によっても欧州へ日本人が赴いた。交換船とは日米開戦間もない一九四一年十二月十七日、アメリカがスイスを経由して、日本政府に対し、お互い敵国に残った同胞を同数交換する提案を、申し入れた事に端を発する。日本側もこの提案を原則了解し、詳細を詰めていく中、日本側が交換する外交官のうち幾人かを、欧州中立国へ直接転勤させることを提案した。
つまりアメリカ、中南米の国々で抑留中の外交官の内幾人かを、そのまま欧州に赴任させようというのである。先に記したように、大島大使が欧州外交官増強のために、これを東京に提案したのは翌年一月末のことである。
一方アメリカは、当初日本側の提案を見送ることを希望した。しかし他に外交官増強の手段の限られた日本は再考を促し、結局アメリカも同意する。こうして日本側は十六人の外交官、家族合わせて二十三名が交換地アフリカ東岸のロレンソ.マルケス(現モザンビークの首都マプート)から欧州に向かうことが決まった。
日本人の引揚者を乗せたスエーデン籍のグリップス、ホルム号がニューヨークを出港したのは一九四二年六月十八日であった。そして南米でも引き揚げ者を乗せ、ロレンソ.マルケスに着いたのは七月二十日である。日本からグルー駐日大使らを乗せた浅間丸とコンテ.ベルデ号が到着し、抑留者相互の交換が行われた。そして欧州赴任者を残し、二隻の日本船は七月二十六日、日本へ出港する。
八月五日、駐日スイス公使より西外務次官に対し、アメリカ政府がロレンソ.マルケスの十六名に安導券(セーフコンダクト)を発行したと連絡がはいる。ここからリスボンに向かう日本人外交官にとって、ポルトガル船は途中アフリカの英領に立ち寄るため、その際の安全が保証される必要があった。安導状を持った日本人外交官十六人と、同数のアメリカ人を乗せたムジニョ号が無事リスボンに着いたのは、九月七日であった。
本来ならニューヨーク、リスボン間は十日間のコースであったが、今回は三ヶ月を要した。しかもその間に夏を二回、冬を一回経験した。
アメリカからの引き揚げ者である森島守人元ニューヨーク総領事は、東京より欧州出張を懇請されていた。そしてリスボン入りした後、リスボン公使を命ぜられる。外務省は最初から、そう考えていた。またアメリカとの約束上、赴任者は全員中立国へ向かうはずであったが、リスボンに着くと何人かは、本当の目的地を知らされた。ワシントンに勤務していた藤山楢一と、サンフランシスコの夏目八郎夫妻の場合は、ドイツだった。かれらがベルリンに着いたのは十月七日であった。
さらに日本の公使館へ赴任する中立国スイスの武官もこの交換船を使った。かれは日本側の要請で、パリの官邸から転落死した加藤外松前フランス大使の遺骨をロレンソ.マルケスまで運んできた上で、日本に向かう船に乗り込んだ。
もう一つの日独の交流をあげると、陸軍中野学校を出た中野一郎は、交換船に船員として日本より乗り込んだ。そしてロレンソ.マルケスで同地のドイツ領事と情報交換を行ったのち、日本に引き揚げたという。重要な戦略拠点となった同島だが日本人が一人もいないため、日本は領事館の開設が出来なかった。
日本とっては航行の安全を保証された、またとない航海とあって、様々な目的に使われたのであった。
一ヶ月後には日英でも同様の交換が実現する。今回も交換地はロレンソ.マルケスであった。今度はさらに七名の日本人外交官が、当地より欧州に向かう船に乗り込む。その内の五名は英領に残された日本外交官であったが、二名は日本から直接、引き揚げる英国人に混じってロレンソ.マルケスに向かい、欧州に赴任した。
外務省欧亜局長であった阪本端男がその内のひとりだ。八月十二日、スイス公使として赴任のため、東京駅を特急「かもめ」で旅立つ。そしてすでに八月十日、横浜を出港していた交換船鎌倉丸に、神戸でスイスの外交官らと共に乗り込んだ。スイスの外交官は中立国人として、日英民間人の交換が正しく行われるかを監視する任務を負っていた。
もう一名の日本乗船者は企画院の小野孝太郎書記官であった。ポルトガル勤務を命ぜられたのだが、諜報関係の任務に就く予定であった。千葉公使からは「ロ」港立寄りに際し、機会を利用し十分カンピニ、イタリア領事と「マ」情報その他の打ち合わせを持つよう要請があった。マ情報とは主にロレンソ.マルケスを行き来する連合国側の船舶の情報であった。
交換船による赴任も厳しいものであった。スイス公使として赴任した阪本は一九四四年七月肺病のため死亡する。またアメリカから交換船で来た者のうち、ポルトガル公使館に勤務となった安藤竜一官補と他一名が同様に病に倒れた。
<P作戦>
外務省外交史料館に残る当時の史料はわずかで整理もよくないものの、「大東亜戦争関係一件 館長符号扱来電扱」というファイルがある。在外公館からの機密電を項目わけすることなく、雑駁に綴じたものだ。何故か戦争初年度のもののみ残っている。
そこにフランスの三谷隆信大使が一九四二年六月三日に送った一枚の電報「P路線建設の件」とがある。
「貴電第一七三号に関し
その後調査の結果、在仏在庫品は小売店等に散在し居る等の事情あり、目下引き揚げ困難なる趣にて安藤の意見に依るも、動かし得る在庫品はせいぜい見本程度の金額にて本件工作の実施には不十分なる趣に付、差当り五十万円程(「トランク」五個乃至六個程)のものを三、四回に分配至急輸送法御配慮ありたし。尚安藤は御木本の使用人なり」
真珠はリスボンから敵国英国に密輸され、そこで販売されるはずであった。危険はあるもののうまく行けば、以後繰り返し行う予定であった。そしてその売り上げで、リスボンでも手に入らない軍事関係の雑誌等をまず購入しようとした。
しかし真珠は届かなかった。途中で消えてしまったのである。暗号電から計画を知ったアメリカが、警告の意味を込めてとった行為であった。スペインは本当の中身を日本側より知り憤り、須磨駐スペイン公使が「こうしたことを日本政府は二度と起こさない」と弁明しなければならなかった。
さらに翌年五月十八日、須磨公使は一時帰国中のカルデナス駐米スペイン大使と会見する。カルデナスは何とアメリカ国務省が、最近例の真珠をワシントンのスペイン大使館に届けたと語った。その際国務省はいやみたっぷりであったという。
大使は須磨公使に向かって、半信半疑にささやくように
アメリカは暗号解読が危険にさらされる覚悟で今回の行動に出た。それに対し、何を根拠に重光外相が日本の暗号が解読されているはずがないと判断したのかは、明らかではない。それほど自分らのシステムを盲信していた。