<マジックサマリー>

アメリカは情報収集力に長けた国である。開戦前から日本の外交暗号文書の解読には力を入れてきた。しかし日本は一九三九年からパープルという新しい暗号機を用い始める。

それから十八ヶ月かけてアメリカはパープルの基本原理と構造を解明し、翌年八月解読に成功する。真珠湾攻撃の一年以上も前であった。こうしてルーズベルト大統領は、日本海軍の真珠湾攻撃も事前に知り得たのである。

日本参戦後、暗号担当者は日々の解読文書から、重要なものを取り出し「マジックサマリー」と題して、限られた指導者層に配布した。適切なコメントが添えられ、読後焼却であった。

そして今日、一部分を除いて公開されている。当事国日本とドイツにはこうした書類がほとんど残っていないため、日欧間の交信を時系列で捉える事のできる貴重な史料である。

日欧間の交流についてもマジックサマリーは、たびたび触れている。アメリカも関心を持って邦人の動きを追った。一九四二年十月三日のレポートはこう始まっている。

「アンカラ発;九月二十三日、栗原大使は東京にソ連に関する軍事及び一般的観察報告を送った。それは最近日本からロシアを経由して欧州に渡った外交官によって集められたものである。レポートにはロシアとトルコの国境地帯には、兵力の増強は認めらられないと記している。

註;レポートの作成者である邦人はトランスシベリア鉄道を、チタを経由しノボシビルスクまで利用した。ノボシビルスクからは中央東アジア鉄道を南西に向かう。

そしてアルマータ、タシュケント、サマルカンド、ブクハラを経由し、カスピ海岸のクラスノドブスクに着く。ここでカスピ海を横断し、バクーに着く。そこからチフリス、レニナカンを経由しトルコ国境に着くのである。

以前七月二十二日のサマリーでは日本の外交官は欧州から日本に帰国するに際し、バクーから北上し、ボルガ川に添ってスターリングラードを経てクイビシェフに着く。

そこからトランスシベリア鉄道で東に向かった。八月十三日付けの東京の公文書によればその時点ですでに日本人は、ボルガルートではなく、中央アジアルートを利用していることが分かる」

ここに登場する欧州に向かう外交官とは先述の開戦後初の渡欧者、渡辺理事官他一行を指している。このようにアメリカは戦時中、邦人の日欧間の移動、そしてかれらの報告でソ連国内の情勢を、正確に掴んでいた。



<連合国側の交流>

一九四十二年は欧州大陸とアメリカ大陸の間の大西洋で、連合国の輸送船とそれを阻止しようとする独潜の間で、過酷な戦闘が行われた年である。日独の指導者は危険を冒して会合する事はなかったが、イギリスのチャーチル首相は精力的に海外に出掛けた。かれの回顧録「第二次世界大戦」からその様子を見て見る。

日本参戦直後、チャーチルはまずアメリカ行きを決意する。一九四一年十二月十二日、新たに竣成したデューク.オブ.ヨーク号に乗り込む。船はアイルランドの南を通り、ドイツのUボート基地から四百マイルの地点を通過する。安全が保障された航海ではない。

案の定ドイツのUボートが接近してきた。護衛の駆逐艦を残して、首相らVIPの乗り込むヨーク号は、最大速力で問題海域を単独で走り抜けた。最後は航空機に乗換え二十二日夕刻、ワシントンの空港に着く。

そして十二月二十六日、チャーチルはアメリカの議会で演説を行う。アメリカ世論に訴えると共に、大西洋が連合国側の支配下にある事を、身を持って世界に証明した。

帰国に着いたのは翌年一月十二日であった。チャーチルのアメリカ滞在を知ってか、帰路には二十隻以上のUボートが展開中であった。一行はバミューダ諸島まで空路をとった。

そこからは往路と同じデューク.オブ.ヨーク号で帰国の予定であった。しかし冒険心に富むチャーチルはそこまで飛んできたボーイング飛行艇の操縦士に
「バミューダからイギリスへ飛ぶのはどうかね?燃料は十分積めるかね?」とたずねる。答えは
「もちろん飛べます」であった。宰相はためらわずに空路を選んだ。

ついで六月、翌一九四三年までの作戦を決定するため、チャーチルは再びワシントンに向かう。今度も空路で二十九時間の旅であった。船旅は時間がかかりすぎた。葉巻を絶やさない大物は、飛行中熟睡していたという。

八月、今度はエジプトのカイロに向かう。ジブラルタルから戦線を避け、中央アフリカを横断してカイロに到着する予定であった。空路でも五、六日かかるはずであった。経験豊かなアメリカの大尉が、ジブラルタルからカイロまで直線で飛行する事を提案し、その場で採用された。

八月三日午後六時、かれらはジブラルタルを飛び立つ。砂漠戦に参加中のドイツ機を避けて迂回飛行をした。離陸後間もなくは武装護衛機四機を伴って、スペイン、ヴィッシーフランス上空を通過した。これは両国に対する中立侵犯であった。不時着でもしたら、国際紛争になる事は明らかであった。

カイロからチャーチルはそのままモスクワに向って飛び立つ。八月十日であった。日本人の追い出されたイランを経由し、翌十一日空路ソ連入りをする、邦人が苦労して通過したカスピ海、バクーの町は、上空からおぼろげに見下ろせた。

スターリングラードの戦場を避けクイビシェフを経由して、夕刻モスクワに到着する。ドイツ軍を一手に引き受けるスターリンは、一刻も早い連合軍の大陸反撃作戦を要請した。

この後チャーチルは空路来た道を引き返す。モスクワまでの道は連合国側にとっても楽ではなかった。しかし英国の宰相は、自身でその道を歩んだ。日独首脳には到底出来ないことであった。



<軍人の帰国 >

外務省に一本化された通過査証申請だが、軍人へは優先的に割り当てられた。一九四二年七月六日、陸軍参謀本部は外務省と協議の上、第一回軍人帰朝者として五名の欧州滞在者に、トルコ大使館を通じての査証の申請を命じた。

芳仲和太郎ハンガリー駐在陸軍武官、ドイツの飯島正義大佐、西郷従吾中佐、イタリアの館野基史中佐、ブルガリアの榊原主計中佐である。

このうち西郷は武官室勤務ではなく、大使付属という特殊な立場であったため、辞令に先立ち大島大使の承認が必要であった。大島は
「西郷の在独を必要とするも、枢軸側の政治、軍司、経済等諸般の事情を的確に把握した同人の内地での勤務は、戦争遂行上の最重要事項と認める。
重要書類をも携行し得る旅行経路の選定せらるる様希望ありて、中佐の帰朝は小官も同意見」と語り、西郷の帰朝に同意した。

同月十一日、ドイツの陸軍武官室より第二回帰朝者の確定を督促する電報が入る。その中ではドイツ軍の攻勢でバクー進出があれば、ドイツ軍の猛爆下の帰国になると警告した。そして実際にドイツ軍は、バクーまであと数百キロの地点へと迫っていた。

八月二十八日、武官室より参謀本部に強い調子の電信が届く。
「海軍は朝香丸及び今回の潜水艦の例に有るように、自己の必要に際してのみこれを実施。これは御承知の通り海軍の海軍に有らず。長期にわたって潜水艦の派遣を実施されたし。

また日米英の外交官等の交換輸送では、相当数の外務省関係者、近く欧州に派遣せらるる由なり。困難有るは推測さるるも、軍人の輸送法にも手配有りたし」と陸軍軍人のソ連経由の帰朝を強く促した。そして日本を離れたドイツでも、日本の陸軍と海軍は仲がよくなかったことがこの電報からわかる。

これらの恐喝めいた電報が効いたのか、同じ二十八日には、参謀本部よりさっそく第二回帰朝者の氏名が送られた。ドイツからは坂西一郎駐独武官、山本敏大佐、林太平大佐、中村昌三中佐、石塚武夫少佐、イタリアからは大川幹雄中佐が選ばれた。

十月二十七日、ソ連の領事部長は日本側の申請者三十九人に対して「四十三名のソ連船員に査証を発給するなら、坂西、芳仲(家族二名)両少将、山本、飯島両大佐、中村、館野、榊原、西郷各中佐、山岸事務官、前田朝日特派員(以上十二名欧州より)並びに中根、魚本、根岸(根本の間違えー筆者)及び高橋に対し、査証を発給する用意がある」と伝えた。十二人中、十名が陸軍関係者であった。


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