日欧間の交流についてもマジックサマリーは、たびたび触れている。アメリカも関心を持って邦人の動きを追った。一九四二年十月三日のレポートはこう始まっている。
「アンカラ発;九月二十三日、栗原大使は東京にソ連に関する軍事及び一般的観察報告を送った。それは最近日本からロシアを経由して欧州に渡った外交官によって集められたものである。レポートにはロシアとトルコの国境地帯には、兵力の増強は認めらられないと記している。
<連合国側の交流>
一九四十二年は欧州大陸とアメリカ大陸の間の大西洋で、連合国の輸送船とそれを阻止しようとする独潜の間で、過酷な戦闘が行われた年である。日独の指導者は危険を冒して会合する事はなかったが、イギリスのチャーチル首相は精力的に海外に出掛けた。かれの回顧録「第二次世界大戦」からその様子を見て見る。
日本参戦直後、チャーチルはまずアメリカ行きを決意する。一九四一年十二月十二日、新たに竣成したデューク.オブ.ヨーク号に乗り込む。船はアイルランドの南を通り、ドイツのUボート基地から四百マイルの地点を通過する。安全が保障された航海ではない。
「もちろん飛べます」であった。宰相はためらわずに空路を選んだ。
ついで六月、翌一九四三年までの作戦を決定するため、チャーチルは再びワシントンに向かう。今度も空路で二十九時間の旅であった。船旅は時間がかかりすぎた。葉巻を絶やさない大物は、飛行中熟睡していたという。
八月、今度はエジプトのカイロに向かう。ジブラルタルから戦線を避け、中央アフリカを横断してカイロに到着する予定であった。空路でも五、六日かかるはずであった。経験豊かなアメリカの大尉が、ジブラルタルからカイロまで直線で飛行する事を提案し、その場で採用された。
八月三日午後六時、かれらはジブラルタルを飛び立つ。砂漠戦に参加中のドイツ機を避けて迂回飛行をした。離陸後間もなくは武装護衛機四機を伴って、スペイン、ヴィッシーフランス上空を通過した。これは両国に対する中立侵犯であった。不時着でもしたら、国際紛争になる事は明らかであった。
<軍人の帰国 二>
外務省に一本化された通過査証申請だが、軍人へは優先的に割り当てられた。一九四二年七月六日、陸軍参謀本部は外務省と協議の上、第一回軍人帰朝者として五名の欧州滞在者に、トルコ大使館を通じての査証の申請を命じた。
芳仲和太郎ハンガリー駐在陸軍武官、ドイツの飯島正義大佐、西郷従吾中佐、イタリアの館野基史中佐、ブルガリアの榊原主計中佐である。
このうち西郷は武官室勤務ではなく、大使付属という特殊な立場であったため、辞令に先立ち大島大使の承認が必要であった。大島は
「西郷の在独を必要とするも、枢軸側の政治、軍司、経済等諸般の事情を的確に把握した同人の内地での勤務は、戦争遂行上の最重要事項と認める。
重要書類をも携行し得る旅行経路の選定せらるる様希望ありて、中佐の帰朝は小官も同意見」と語り、西郷の帰朝に同意した。
同月十一日、ドイツの陸軍武官室より第二回帰朝者の確定を督促する電報が入る。その中ではドイツ軍の攻勢でバクー進出があれば、ドイツ軍の猛爆下の帰国になると警告した。そして実際にドイツ軍は、バクーまであと数百キロの地点へと迫っていた。
八月二十八日、武官室より参謀本部に強い調子の電信が届く。
「海軍は朝香丸及び今回の潜水艦の例に有るように、自己の必要に際してのみこれを実施。これは御承知の通り海軍の海軍に有らず。長期にわたって潜水艦の派遣を実施されたし。
また日米英の外交官等の交換輸送では、相当数の外務省関係者、近く欧州に派遣せらるる由なり。困難有るは推測さるるも、軍人の輸送法にも手配有りたし」と陸軍軍人のソ連経由の帰朝を強く促した。そして日本を離れたドイツでも、日本の陸軍と海軍は仲がよくなかったことがこの電報からわかる。
これらの恐喝めいた電報が効いたのか、同じ二十八日には、参謀本部よりさっそく第二回帰朝者の氏名が送られた。ドイツからは坂西一郎駐独武官、山本敏大佐、林太平大佐、中村昌三中佐、石塚武夫少佐、イタリアからは大川幹雄中佐が選ばれた。
十月二十七日、ソ連の領事部長は日本側の申請者三十九人に対して「四十三名のソ連船員に査証を発給するなら、坂西、芳仲(家族二名)両少将、山本、飯島両大佐、中村、館野、榊原、西郷各中佐、山岸事務官、前田朝日特派員(以上十二名欧州より)並びに中根、魚本、根岸(根本の間違えー筆者)及び高橋に対し、査証を発給する用意がある」と伝えた。十二人中、十名が陸軍関係者であった。