<ブルガリア公使館>
四月二十四日の朝日新聞に今度は
「ローマ大使館の安東義良参事官が、シベリア経由で帰国の途に着いたのに次いで桜井、角田(ローマ)、徳永(ハンガリー)、梅田(ソフィア)、遠城寺九大教授(ウィーン)に旅券査証が下り、更に全購買連部長島秀夫ほか数氏にも査証が下りる見込み。懸案の日本、欧州連絡路再開は、シベリア鉄道を通じて開かれる」と連絡路に関し、期待を込めた記事が出る。
遠城寺宗徳教授は1939年の欧州戦争勃発時に続いて、今回が2度目の戦時下の日本引き揚げであることは特筆に値しよう。
かれらも安東と同じくブルガリアのソ連領事館に通過ビザを申請し取得した。ブルガリアははっきりと枢軸側についていたのだが、他のバルカン諸国とは異なり、ソ連に参戦をして派兵をすることはなく中立を保った。元来親ソ的な国であった。ハンガリーに留学中の徳永康元は、ブルガリアにこうして大戦中もソ連の公使館が開いている情況について、交戦国間に何らかの駆け引きがあったと推測している。
実際にそういうものが存在したかは判明出来ない。しかしドイツも強引に対ソ参戦はさせず、ブルガリアを独ソ戦中の、ソ連領内のドイツの利益保護国に指定している。確かに何か訳が有りそうでもある。
京大考古学研究室より派遣され、ローマに滞在していた角田文衛によれば、この帰国を思い立ったのは日本の逓信省が昨年十二月、欧州から日本向けの手紙が出せる、と発表したのを知ったからであった。(先に述べた四十二年一月二十三日の発表の事と思われるー筆者)
なお角田文衛の回想録「欧州の四季」から帰国手続き行った主体は角田であったことが分かる。角田はブルガリアのソ連公使館が開いていることを知るとローマから早速出掛ける。
「私が単身、冬空をついてソフィアへ赴き、日本公使館を通じソ連公使館に査証を申し込んだのは、バルカンの雪なお深い2月下旬であった。初め、ソフィアの日本公使館では、山路公使、泉書記官以下、ソ連の査証などとても不可能と考えられていたが、私の懇願と熱意にほだされ、”多分無理とは思うが、一応やってみましょう”という訳で、ソ連公使館宛て私達4人の査証を申し込んでくださったのである。」
遠城寺が帰国組に加わった経緯については
「安(益泰)氏は数日後、ウィーンで研究されていた九州帝国大学教授、遠城寺宗徳博士に会われ、私が帰京の手続きのため、ソフィアへ行ってきたことを話された。帰朝の念止み難かった遠城寺教授は、早速ソフィアに電話してソ連の通過査証を依頼されたのである。
そして梅田はビザが下りなかったのではなく、都合により、帰国を取り止めたという。(「欧州の四季」の項、2015年12月30日追加)
また日本人ではないがトルコ人の武官も既に、このルートで日本に赴任していた。「鹿の通れる道は馬でも通れる。郵便が可能ならば人も通れるに違いない」と通過査証の申請を思い立った。
一行が満州里に着いたのは六月五日である。
「ロシア語の出来る人間がいなくては、通ることの出来ないルートである」と、徳永は実感した。
帰国したかれらはその体験をいくつかの雑誌に発表する。開戦後の帰朝者は、最新欧州事情を知るものとして、出版社から引っ張りだこであった。
先の四月二十四日付朝日新聞には「さらに全購買連部長島秀夫他、数氏にも通過ビザが下りる見込み」とある。全購買連は今で言う農協である。そこから派遣されていた島田日出夫は、同盟通信社に雇われ、敗戦をベルリンで迎えている。新聞にある島秀夫はこの島田のことを指していよう。当時日本では各種情報を、暗号による電文で欧州側から入手したため、平文に直したとき、特に名前のような固有名詞にはこうした間違いが多く見られる。
そして島田には見通しと異なりビザは下りなかった。朝日新聞では「懸案の日欧連絡はシベリアルートによって再開」と書かれたものの、先の四人でソ連経由の帰朝は一端途絶える。
この間のモスクワでの査証交渉に関し、五月二日付けで佐藤駐ソ大使は東郷外相宛てて、以下の電報を送る。
「欧州赴任者に関する件
欧州行我が方外交官の査証を本使より督促せる際、ヴィシンスキーは蘇側にも本使の斡旋を求めたき日満側査証ありと言えるにつき、本使において考究すべき旨述べおきたる所、後刻領事部より
一、帰国すべき前京城総領事チジョフ
二、ブイコフ
三、香港より帰国の途次、目下上海に在るソ連邦人十名
四、在香港ソ連邦人船員五十一名
に対する査証を通報越せり。
(中略)
多数の査証あればこそ、蘇側はこれが解決を促進する為、過般安東参事官及び在欧邦人四名に対し案外簡単に査証を発給せるものと思考せらる」(棒線筆者)
この時はソ連側の帰国希望者は、日本側より多かった。また戦争の行方もまだ不透明な時期であった。それが開戦直後、ソ連が安東参事官他数名の邦人への通過ビザの発給に応じた背景であった。
四月二十四日の朝日新聞に今度は
「ローマ大使館の安東義良参事官が、シベリア経由で帰国の途に着いたのに次いで桜井、角田(ローマ)、徳永(ハンガリー)、梅田(ソフィア)、遠城寺九大教授(ウィーン)に旅券査証が下り、更に全購買連部長島秀夫ほか数氏にも査証が下りる見込み。懸案の日本、欧州連絡路再開は、シベリア鉄道を通じて開かれる」と連絡路に関し、期待を込めた記事が出る。
遠城寺宗徳教授は1939年の欧州戦争勃発時に続いて、今回が2度目の戦時下の日本引き揚げであることは特筆に値しよう。
かれらも安東と同じくブルガリアのソ連領事館に通過ビザを申請し取得した。ブルガリアははっきりと枢軸側についていたのだが、他のバルカン諸国とは異なり、ソ連に参戦をして派兵をすることはなく中立を保った。元来親ソ的な国であった。ハンガリーに留学中の徳永康元は、ブルガリアにこうして大戦中もソ連の公使館が開いている情況について、交戦国間に何らかの駆け引きがあったと推測している。
実際にそういうものが存在したかは判明出来ない。しかしドイツも強引に対ソ参戦はさせず、ブルガリアを独ソ戦中の、ソ連領内のドイツの利益保護国に指定している。確かに何か訳が有りそうでもある。
徳永を含む四人が帰国の途に着くのは、五月上旬である。ただし新聞に報道された五名のうち、梅田は帰国を見送る。ビザは下りなかったようである。四名はまず、ブルガリアの首都ソフィアに集まる。そこでソ連横断旅行の必需品を買い集めた。山路章ブルガリア公使もたくさんの缶詰の差し入れをした。日本に向けソフィアを旅立ったのは五月九日であった。コースは市河公使と同じである。
京大考古学研究室より派遣され、ローマに滞在していた角田文衛によれば、この帰国を思い立ったのは日本の逓信省が昨年十二月、欧州から日本向けの手紙が出せる、と発表したのを知ったからであった。(先に述べた四十二年一月二十三日の発表の事と思われるー筆者)
なお角田文衛の回想録「欧州の四季」から帰国手続き行った主体は角田であったことが分かる。角田はブルガリアのソ連公使館が開いていることを知るとローマから早速出掛ける。
「私が単身、冬空をついてソフィアへ赴き、日本公使館を通じソ連公使館に査証を申し込んだのは、バルカンの雪なお深い2月下旬であった。初め、ソフィアの日本公使館では、山路公使、泉書記官以下、ソ連の査証などとても不可能と考えられていたが、私の懇願と熱意にほだされ、”多分無理とは思うが、一応やってみましょう”という訳で、ソ連公使館宛て私達4人の査証を申し込んでくださったのである。」
遠城寺が帰国組に加わった経緯については
「安(益泰)氏は数日後、ウィーンで研究されていた九州帝国大学教授、遠城寺宗徳博士に会われ、私が帰京の手続きのため、ソフィアへ行ってきたことを話された。帰朝の念止み難かった遠城寺教授は、早速ソフィアに電話してソ連の通過査証を依頼されたのである。
そして梅田はビザが下りなかったのではなく、都合により、帰国を取り止めたという。(「欧州の四季」の項、2015年12月30日追加)
また日本人ではないがトルコ人の武官も既に、このルートで日本に赴任していた。「鹿の通れる道は馬でも通れる。郵便が可能ならば人も通れるに違いない」と通過査証の申請を思い立った。
一行が満州里に着いたのは六月五日である。
「ロシア語の出来る人間がいなくては、通ることの出来ないルートである」と、徳永は実感した。
帰国したかれらはその体験をいくつかの雑誌に発表する。開戦後の帰朝者は、最新欧州事情を知るものとして、出版社から引っ張りだこであった。
先の四月二十四日付朝日新聞には「さらに全購買連部長島秀夫他、数氏にも通過ビザが下りる見込み」とある。全購買連は今で言う農協である。そこから派遣されていた島田日出夫は、同盟通信社に雇われ、敗戦をベルリンで迎えている。新聞にある島秀夫はこの島田のことを指していよう。当時日本では各種情報を、暗号による電文で欧州側から入手したため、平文に直したとき、特に名前のような固有名詞にはこうした間違いが多く見られる。
そして島田には見通しと異なりビザは下りなかった。朝日新聞では「懸案の日欧連絡はシベリアルートによって再開」と書かれたものの、先の四人でソ連経由の帰朝は一端途絶える。
この間のモスクワでの査証交渉に関し、五月二日付けで佐藤駐ソ大使は東郷外相宛てて、以下の電報を送る。
「欧州赴任者に関する件
欧州行我が方外交官の査証を本使より督促せる際、ヴィシンスキーは蘇側にも本使の斡旋を求めたき日満側査証ありと言えるにつき、本使において考究すべき旨述べおきたる所、後刻領事部より
一、帰国すべき前京城総領事チジョフ
二、ブイコフ
三、香港より帰国の途次、目下上海に在るソ連邦人十名
四、在香港ソ連邦人船員五十一名
に対する査証を通報越せり。
(中略)
多数の査証あればこそ、蘇側はこれが解決を促進する為、過般安東参事官及び在欧邦人四名に対し案外簡単に査証を発給せるものと思考せらる」(棒線筆者)
この時はソ連側の帰国希望者は、日本側より多かった。また戦争の行方もまだ不透明な時期であった。それが開戦直後、ソ連が安東参事官他数名の邦人への通過ビザの発給に応じた背景であった。
<軍人の帰国 一>
一九四二年五月二十一日の朝日新聞の片隅に「(トルコの)アンカラ大使館の加賀、園田の両氏も二十一日アンカラ発帰朝」という記事が出ている。欧亜の接点にある国トルコからも帰朝者があった訳であるが、この二人については謎の部分が多い。
かれらは外交官でありながら、一九四二年二月一日付け外務省職員名簿のトルコ公使館員の欄には、名前が出ていない。加賀は本名加藤、園田は同じく緒方の変名で、特殊任務に就いていた陸軍軍人であるからだ。当時は海外で諜報活動をする幾人かの軍人に対し、外交官の肩書きが与えられた。その際は変名を用いた。外務省はこのような軍部の要求を断れなかった。
二人の伝書使は欧州滞在中、独ソ戦が始まり帰国が出来なくなる。直後の六月三十日陸軍電によると軍の命令で緒方(園田)、加藤(加賀)両大尉は間もなくベルリンからトルコに派遣される。
一年後の一九四二年三月三十一日、参謀本部は外務省とは協議済みとして、ドイツ陸軍武官室に対し「谷林、加藤、緒方の三少佐のビザを、トルコ大使館を通じて取付けるよう」指令を出した。陸軍はかれらの本名で交信に使用していた。
ここで新たに登場する谷林主計少佐は、実は先に述べた谷照夫書記生と同一人物である。(名前は本名を少しいじっただけの例が多かったー筆者)かれはソ連大使館員として勤務中にバルカン諸国を訪問しているときに、独ソ戦が始まり、止むを得ずドイツ大使館に避難した。そしてベルリン勤務となるや、クーリエとして陸軍の暗号書をベルリンからブルガリア、トルコに運ぶ任務に就く。
この東京からの三名のビザ申請要請に対し、ベルリンの陸軍武官室は四月一日、中村昌三中佐、北条円了軍医中佐、林太平大佐三名のドイツ駐在期間の終了者も申請に加えるよう要請した。しかし
「(谷林ら)三少佐は特殊の事情に基づく欧州滞在者にして、在独の将校多数と共に査証を請求するときはソ連側の遅延主義により取得し得ざる畏れが大」と東京が拒絶する。
日本参謀本部がソ連を経由してまず帰国させたかったのが、この変名で伝書使業務に従事していた三名であった。本来の外交官ではないかれらは戦争が始まり、日欧間のクーリエとして働けない以上、欧州にいる意味はなかったのであろう。
五月五日付けの東郷外相宛ての栗原トルコ電によると
「既に査証許可済みの園田、加賀両名と共に谷書記生谷書記生も八日、君府(アンカラ)に到着したる所、軍部側の命令もあるにて、出来る限り三名一緒に出発すべく当地待機のこととなれり。
谷については当地大使館に六日、二回目の督促をなしたるが、同大使館にては心許なきに付、貴官に於いても督促を」
三名のうち加賀は帰国出来なかった。トルコで病に倒れたからだ。そのままスイスに向かい療養生活を送る。加賀の帰国交渉は回復した一九四四年に入って再開される。
ビザの発給の遅れていた谷照夫は、七月四日ようやくアンカラを出発した。藤塚止戈夫ルーマニア駐在陸軍武官藤塚俊夫とその妻リヨウ(現地人?ー筆者)、さらに外務省より第一次帰朝者とされた丸才司が一緒であった。藤塚のビザ取得経緯についての記録は、これまでの所見つからない。ブルガリア公使館への申請であろう。一ヶ月後の八月五日の朝日新聞ではどう言う事情か、日付を伏せ字にして「一行が下関に着く」と紹介される。
同じく七月(おそらく上旬)栗原大使より大島大使に、トルコでのソ連査証の扱いについての報告が入る。
「ソ連は中央の指示に従い、なるべく小出しに査証を与え、日本人を絶えずソ連領内を通過させておく魂胆とも考えられる。
既に申請済みの者二十名に達し、これらが全部出発し得るには二、三ヶ月を見込む必要あり。藤塚少将一行八名は三組に分かれ各週に出発」
ここにもソ連政府のビザ発給遅延の姿正がうかがわれる。本当にソ連が、絶えず日本人をソ連領内に通過中にしたとすれば、少しでも日本のソ連参戦の抑制を狙っての事であろうか?まだソ連はドイツとの戦争には楽観を許さないものがあった。栗原大使の推測はあながち否定できない。
かれらの帰国後間もない九月十三日には、ドイツ軍はボルガ川の要衝スターリングラードの市内に突入する。邦人もソ連通過は、中央アジアルートしか通れなくなった。
一九四二年五月二十一日の朝日新聞の片隅に「(トルコの)アンカラ大使館の加賀、園田の両氏も二十一日アンカラ発帰朝」という記事が出ている。欧亜の接点にある国トルコからも帰朝者があった訳であるが、この二人については謎の部分が多い。
かれらは外交官でありながら、一九四二年二月一日付け外務省職員名簿のトルコ公使館員の欄には、名前が出ていない。加賀は本名加藤、園田は同じく緒方の変名で、特殊任務に就いていた陸軍軍人であるからだ。当時は海外で諜報活動をする幾人かの軍人に対し、外交官の肩書きが与えられた。その際は変名を用いた。外務省はこのような軍部の要求を断れなかった。
二人の伝書使は欧州滞在中、独ソ戦が始まり帰国が出来なくなる。直後の六月三十日陸軍電によると軍の命令で緒方(園田)、加藤(加賀)両大尉は間もなくベルリンからトルコに派遣される。
一年後の一九四二年三月三十一日、参謀本部は外務省とは協議済みとして、ドイツ陸軍武官室に対し「谷林、加藤、緒方の三少佐のビザを、トルコ大使館を通じて取付けるよう」指令を出した。陸軍はかれらの本名で交信に使用していた。
ここで新たに登場する谷林主計少佐は、実は先に述べた谷照夫書記生と同一人物である。(名前は本名を少しいじっただけの例が多かったー筆者)かれはソ連大使館員として勤務中にバルカン諸国を訪問しているときに、独ソ戦が始まり、止むを得ずドイツ大使館に避難した。そしてベルリン勤務となるや、クーリエとして陸軍の暗号書をベルリンからブルガリア、トルコに運ぶ任務に就く。
この東京からの三名のビザ申請要請に対し、ベルリンの陸軍武官室は四月一日、中村昌三中佐、北条円了軍医中佐、林太平大佐三名のドイツ駐在期間の終了者も申請に加えるよう要請した。しかし
「(谷林ら)三少佐は特殊の事情に基づく欧州滞在者にして、在独の将校多数と共に査証を請求するときはソ連側の遅延主義により取得し得ざる畏れが大」と東京が拒絶する。
日本参謀本部がソ連を経由してまず帰国させたかったのが、この変名で伝書使業務に従事していた三名であった。本来の外交官ではないかれらは戦争が始まり、日欧間のクーリエとして働けない以上、欧州にいる意味はなかったのであろう。
五月五日付けの東郷外相宛ての栗原トルコ電によると
「既に査証許可済みの園田、加賀両名と共に谷書記生谷書記生も八日、君府(アンカラ)に到着したる所、軍部側の命令もあるにて、出来る限り三名一緒に出発すべく当地待機のこととなれり。
谷については当地大使館に六日、二回目の督促をなしたるが、同大使館にては心許なきに付、貴官に於いても督促を」
三名のうち加賀は帰国出来なかった。トルコで病に倒れたからだ。そのままスイスに向かい療養生活を送る。加賀の帰国交渉は回復した一九四四年に入って再開される。
ビザの発給の遅れていた谷照夫は、七月四日ようやくアンカラを出発した。藤塚止戈夫ルーマニア駐在陸軍武官藤塚俊夫とその妻リヨウ(現地人?ー筆者)、さらに外務省より第一次帰朝者とされた丸才司が一緒であった。藤塚のビザ取得経緯についての記録は、これまでの所見つからない。ブルガリア公使館への申請であろう。一ヶ月後の八月五日の朝日新聞ではどう言う事情か、日付を伏せ字にして「一行が下関に着く」と紹介される。
同じく七月(おそらく上旬)栗原大使より大島大使に、トルコでのソ連査証の扱いについての報告が入る。
「ソ連は中央の指示に従い、なるべく小出しに査証を与え、日本人を絶えずソ連領内を通過させておく魂胆とも考えられる。
既に申請済みの者二十名に達し、これらが全部出発し得るには二、三ヶ月を見込む必要あり。藤塚少将一行八名は三組に分かれ各週に出発」
ここにもソ連政府のビザ発給遅延の姿正がうかがわれる。本当にソ連が、絶えず日本人をソ連領内に通過中にしたとすれば、少しでも日本のソ連参戦の抑制を狙っての事であろうか?まだソ連はドイツとの戦争には楽観を許さないものがあった。栗原大使の推測はあながち否定できない。
かれらの帰国後間もない九月十三日には、ドイツ軍はボルガ川の要衝スターリングラードの市内に突入する。邦人もソ連通過は、中央アジアルートしか通れなくなった。
第五部以上
