<変則的交流>

七月二十六日、ルーズベルト大統領の在米日本資産凍結令が発令されると、日米間の定期航路が閉鎖された。これで北米経由の渡欧も不可能となる。実質日欧間の行き来は完全に閉ざされた。しかしながら日本が参戦する十二月までの間、幾人かの邦人は、いわゆる抜け道を見出した。

十月一日、ドイツを出発した邦人十三名が上海に着く。シベリアルート杜絶後初の帰国者であった。メンバーは長谷長次代議士他内務省、商務省、大蔵省、外務省の役人であった。かれらはドイツの防空施設を視察し、空襲下の市民の心理状態等を観察した。

近い将来日本にも同様な事態が、発生することを考えてのことであろう。一行はポルトガルからアメリカに渡り、そこから日本への船便が途絶えていたため、代わりに上海行きの船に乗り込んだのだった。

メンバーのうち久我道忠外務書記生、渡辺大蔵書記官の二名は外務省の正式なクーリエ(伝書使)の資格を持ち、機密保持を約束される外交鞄を携行した。伝書使は機密書類の運搬を受け持つ外交官であった。主として入省間もない者が担当する。

残る陸軍武官室電によればかれらは、陸軍の依頼で混合委員会関係資料と暗号、技術関係の秘密書類を日本に運んだ事がわかっている。二人は日欧間の最後の外交クーリエとなる。

九月八日には閣議で、孤立状態の欧州に残る邦人引き揚げと、交代の外交官派遣のため日本から客船が派遣されることが決定される。当時最高速を誇る日本郵船の浅間丸が、その任に就く事になった。

十月上旬横浜を出港し、インドのダーバンを経由し、ポルトガルのリスボン寄港後、アイルランドのゴールドウェイに四十日かかって到着する予定であった。ドイツとは交戦国である英国への寄港は避け、隣のアイルランドを終着地とした。

日本では単身で欧州に留まる外交官の妻子の渡航が認められ、相次いで浅間丸乗船と旅券の申請がなされる。多くの日本国民はドイツの勝利を楽観していたのであろう。

またこの時期、首脳部はほどんど対米英開戦を決めていたにもかかわらず、幾人かの若い外交官が浅間丸で英国に赴任する辞令を受けた。かれらは開戦と共に抑留されるはずであった。しかし結局浅間丸の派遣は中止となる。

当時ベルリンには日本の大使館、陸軍武官室、海軍武官室があったものの、重要書類はおろか交信記録さえも今日残ってはいない。ドイツの敗戦時にすべて処分したからである。日本側にも殆どないため、元史料に当たる事は非常に困難である。

そんな中、東京恵比寿の防衛庁戦史史料室には「在独陸軍武官室史料」の題名で、わずかに保存されているものがある。これらはベルリンの陸軍武官室が、焼却し忘れた書類を進駐してきたアメリカ軍が見つけ、戦後二十年を経て個人の持ち物と勘違いして返却してきたものである。その一つ「独駐在武官電報綴 昭和十六年十二月-十七年九月」は開戦直後の軍関係者の日欧交流を知る貴重な史料である。

そこでは浅間丸の欧州回航中止の知らせに対する、欧州側の反応を見ることが出来る。一九四一年十月二十六日駐独陸軍武官発、参謀本部総務部長宛

「浅間丸回航中止の報により一同帝国の決意を知り大いに壮快を覚えるも、一面依古贔屓なしの長期監禁の引導渡しにより、
梱包せる荷物を開く者、これを見て笑う者、家探しを始める者等悲喜交じり状を呈したるも、長期戦の態勢に腰を落ち着けたり」

ドイツの留学生もこれで引き揚げようとした。かれらは帰国を勧められ、すでに荷物をリスボンに向けて発送していた。大島大使の電報を見てみる。
「浅間丸回航中止、荷物運賃補給の件

当国留学生は前後二度の引き揚げ準備のため相当困難に陥り、所持金を全部消費せるものもあり。ついては一度準備をしたもの(五名)に五百マルク、二度準備をしたもの(十名)に七百五十マルク、給付方取計い相成るべし」

また同年十一月四日付けのドイツ武官発フィンランド武官宛電によれば
「浅間丸の回航中止並南米経由便船も無くなりたるを以って、在欧者に対する帰朝命令は一切発令せられさることなりたる旨(参謀本部の)総務部長より通報ありたり」と十一月時点で日本参謀本部は、日欧間の渡航を完全にあきらめた事が分かる。

しかしながら日本参戦の直前、南米経由で帰国した者が若干名いる。かれらは最後のシベリア鉄道に乗ることが出来ずに、欧州に取り残されていた海軍関係者であった。当時スペインとアルゼンチンの間には、イタリア機によって、週一便の貨物飛行が行われていた。これで南米入りをした。

ついでブラジルを発った東亜丸に乗り込み、日本には日本参戦後の十二月十五日に着く。かれらが最後の欧州からの帰国者であった。「主婦の友」社から欧州出張に出ていた山田わかも、この船を利用している。山田は着物姿で、戦時下のドイツの女性を取材してまわっていた。 

後の駐日ドイツ大使となるスターマーがこの東亜丸に乗るため、ベルリンを発ったのは十一月十四日、マドリッドは十七日発のイタリア機であった。かれは開戦前、最後に日本入りしたドイツ人であった。

また日本からも開戦間際に欧州入りした外交官夫婦がいる。スイスに赴任する徳永太郎三等書記官とその妻下枝は、十月十五日横浜を出港する龍田丸で、アメリカに向かう。同船のアメリカ航海は、堆積する貨物一掃のため、日米の話合いにより実現した、三隻の内の一隻であった。

徳永夫妻はハワイからアメリカ船に乗換えサンフランシスコ入りし、大陸を鉄道でまたいだ。ようやくニューヨークから船でポルトガルに向かったのは、十一月末のことであった。アメリカ船上の夫妻は、日米が戦争を始めればすぐさま抑留されることを覚悟していた。

無事欧州大陸に着き、リスボンを発ってバルセロナの駅を下りたとき、人々が彼らに新聞を差し出した。読めとばかりだが、何が書いてあるのかわからない。ホテルで読んでもらい日本の参戦を知った。スイス着任は十二月十二日であった。外交官も命懸けの赴任をした。



<日本参戦、欧亜交通路再開への試み>


ワシントンでの日本大使館とハル国務長官との間での和平の模索は成功しなかった。日本の爆撃機が真珠湾を襲ったのは十二月八日であった。そして欧州にそのニュースが伝わったのは、時差の関係で十二月七日の夜半の事であった。

ドイツの日本大使館にとっても前もって全く連絡のない、突然の知らせであった。館員は英国のBBCの放送で第一報を知った。間もなくして奇襲作戦成功のニュースが本国から伝わってきて、ベルリンの日本大使館では祝杯があげられる。横井忠雄海軍武官は海軍を代表し
「これで日本海軍は天下無敵になった」と周囲に自慢気に語った。

日本に続いてドイツとイタリアは、すぐさまアメリカに宣戦した。欧州戦争は世界大戦へと発展した。南米諸国はこの時、ほとんどが連合国寄りを明確にする。

そして日本開戦間もなく、枢軸諸国に断交を通告してくる。これによって南米経由を含む、あらゆる日本と欧州の交通路が遮断された。日本と独伊は同盟国でありながら、直接会合する事が出来なかった。

十二月十三日、大島大使は日本参戦後初めてヒトラーと会見する。事前に参戦の情報を同盟国に出していなかったことで、大島は心酔するドイツ指導者の前で、恐縮するばかりであった。そんな大島に対しヒトラーは

「日本はああするより他なかった。ドイツも同様な手段をとったに違いない。」と慰めたという。その際に大島は、今後の日独交通路についてこうヒトラーに語っている。

「われわれは日欧間の交通路再開のため、いろいろな方法を検討しています。人員輸送に関していえば、潜水艦の使用によって達成できるでしょう」

さしあたっての問題は、欧州に駐在する外交官をどう増強するかであった。年が明けた一九四二年一月十七日、大島大使は途絶した欧亜交通路に関して、東郷外務大臣に意見を具申する。開戦後まだ一ヶ月しか経ってはいない。

「在欧外交陣容の整備補填に関する件

(前略)欧州に在りて其の情勢に通じた多数練達の外交官を、育成し置くことも考慮せざるべからず。然るに欧亜交通開設の時期は予知し難く、或は相当長期に亘り現在滞欧の人員に依るの外なきやも計り難きのみならず、戦時の過労なる勤務其の他に依り、人員の欠損をも考慮するの要あり」

続けてこの孤立した情況に対応する方策として大島は、三つの提案を行う。まずは在欧の新聞記者、商社員、留学生から優秀な人物を在外公館に勤務させる。次には日英、日米間の外交官交換交渉で、在英米の大使館員を欧州に異動させる。

最後はウィーン、ケーニッヒスベルク、ブリュッセルの領事館を閉鎖し、そこの人員をベルリン等戦略上重要な大使館に、配置替えするというものであった。さらに必要となる外交官について、大島は欧州内の民間人から補充するか、敵国から引き揚げる外交官を欧州入りさせることを考えたものの、日本からの補充は考えもつかなかった。

大島の電報から二日後の一月十九日、トルコの栗原正大使も同じく「在欧外交陣容強化の件」と題して東京に意見を具申する。

「ドイツ発大臣宛題七十二号稟請の次第は、本使に於ても至極同感にて、成るべく速やかにこれが実現方希望す。(栗原大使は大島大使に近い考えの枢軸派と言われた人物であるー筆者)

尚ソ連トルコ国境は今以って閉鎖せられ居らず。少なくとも原則的には、コーカサス鉄道に依るトルコ入国可能のこととなり居り。

且ソ連としても、ドイツの春期攻勢等危険切迫せざる限り、無下に我が方査証を拒絶することもなかるべきやに思考せらるるに付、旅行上種々困難はあるべきも念の為、今一応在ソ連大使館より御確かめの上、他の一般情勢にして之を許すならば、尚試みに欧州への赴任者数名を出発せしめ、其の実績を見て在欧職員の充実の一助とせられては如何と思考す」

ソ連とトルコの国境の閉鎖されていないことを知る栗原大使は、欧州外交官増強のため、ソ連、中立国トルコを経由した、欧州赴任を提案する。ドイツとの戦いに苦しむソ連は、日本に対し無下に旅券の発給を拒絶することもないであろうという読みがあった。そして大島の提案した交換船の外交官、この栗原のトルコ経由、どちらもまもなく実現することになる。

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