116番は1921年時点でなく、今も存在しないようだ。117番は1921年は115番から離れて、堀川が海にそそぐあたり。今は新山下町であるが、ここが山手の旧居留地とはイメージしにくい。
 
1895年から1923年までRoyal Naval Depot(英国海軍物流拠点)であったという。
さもありなんという場所だ。
 
メガドンキの建物内に、次の様なパネルが設置された。(2019年6月22日追加)
 
1923年に山手の横の埋め立て地を中心に新山下町が新設された。その際に山手117番は新山下町1番となったようだ。

そして震災後の1927年にはこの地にバンドホテル(Bund Hotel)が建てられた。戦争中はドイツに借り上げられていたようで1943年には43名のドイツ海軍兵が暮らした。

彼らは1942年11月30日のドイツ艦艇の横浜港での大爆発で、帰国の手段を失った。士官はいないようで食料係、水夫、看護師、兵曹という位階がほとんどだ。

新山下町も強制疎開地となり彼らはその後箱根に疎開し、そこでのエピソードはいろいろ残っている。山手2番のブラフホテルが蘭印引き上げの婦女子に当てられたのは紹介したとおりだ。
旧117番あたりの洒落たビルにはイタリアンレストランが入る。そしてこのビルを囲むようにメガドンキが開店準備中。
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2019年11月に開店したメガドンキー。まさにこのような位置でバンドホテルは建っていたと思う。
 
118番は横浜インターナショナルスクール(Early Learning Center)、大韓民国総領事館と続く。今山手町にある唯一の外国領事館。
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119番はワシン坂通りに沿って118番に続く。119番は奥が深くかつて枝番がAとBであったが、今は56まである。
ワシン坂通りでハロゥインのデコレーションをするのは外国人の住まい?
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119番の奥の方にも洒落たい邸宅が多い。外国人の住まい。
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120番は107番の隣。ワシン坂通り側は完全に新しいロータリーで宅地化された。
新築の家として,売り出されているようだ。(120番-47)
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120番には1943年、3人のドイツ人が住んでいる。二人の単身女性は蘭印引き揚げ者か?
ヘルミネ・ブレンデル (無職 女性)
アウグスト・ブレンデル (タイピスト 男性)
リナ・ケーニッヒ   (化学助手 女性)
 
そして山手111番館の所で触れた、アメリカ女性エレブクーア・ラフィンも120番に住んだ。同じ地番で顔を合わせることがあっても、さすがに戦時下はドイツ人とアメリカ人は会話をしなかったであろう。

『横浜ヤンキー』という本によれば、1940年ごろと思われるが、
「ヘルムの父(ドナルド)の友人は、ドイツ人、アルメニア人、オーストラリア人、英国人、ロシア人、アメリカ人とポルトガル人であった。
実際にヘルム家の兄弟にはドイツ国籍、アメリカ国籍、日本国籍を持つ者がいた。ただし皆英語を話した。そして誰も友達の国籍は気にしなかった。」と書く。
アルメニア人とはアプカー一家の事を指していよう。(後述)
 
さらに120番について書くと、1872年から1875年までBritish Leagation(英国仮公使館)が置かれた。
1911年からほぼ一貫してM.ラフィンが住む。ラフィン家が今の111番に移ったのは2に目の子供が生まれた1926年。3女エレブクーアが戦時中、再びここに住んだのは書いたとおりだ。
 
また120番Aは1883年頃、英和女学院(現在の横浜英和学院)であった。
120番BもBluff Archivesでは洋館(ボース邸)として紹介されている。関東大震災で崩壊したようだ。それぞれの実際の位置を確認することは出来るのであろうか?

120番ワシン通りと反対側の家。青が鮮やか。
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終戦直後の120番。詳しくはこちら
 
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