1921年当時、97番のアメリカ山公園から坂道を上がっていくと、右手は外人墓地、左手は98番99番と続くが、今は97番と98番の間に少し100番が入り込んでいる。
98番は崖の上のこの邸宅のみ?

99番は1921年はアメリカ病院(United States Hospital)であった。この時イギリス病院(115番)ドイツ病院(40,41番)とそれぞれに病院を持っていたのは居留地時代の名残?
99番には現在横浜地方気象台がある。1927年にアメリカ病院の跡地に建った。

庁舎は横浜市有形文化財に指定されている。

戦時中、山手の住民が山手も空襲の標的となると恐れたのは、この地方気象台がある故だったという話を当時の人から聞いた。気象情報は戦時下では敵味方とも、作戦上非常に重要な情報であったからだ。
戦争中の山手について、空襲で大きな被害を被ったという記述と、それほど大きな被害を受けなかったという記述がみられる。
同じ状況でも人によって解釈が異なると思うが、『大空襲 5月29日』という本によれば実際アメリカ軍は横浜空襲に先立ち、焼夷弾攻勢地帯第一号、第二号を作成したが、その地図では、中区周辺は外国人の多い、山手町のみが除かれていたという。
そして実際に空襲の後には、中区は山手と根岸の一部を除き焦土と化したという。山手に落ちた爆弾は本来の目標をそれたものであったようだ。そして他の地域に比べるとやはり被害は軽微であった。
また前庭にある煉瓦造りの井戸遺構。山手に水道が引かれる前、明治10年から20年代にかけて掘られた井戸であろうとの事。

山手の各所に残るブラフ積みであるが、この地方気象台の壁にはその分かりやすい構造物としての展示がある。長方形の石を長い面と短い面を交互に見える部分に持ってくる積み上げ方だ。

その先にはブラフ99ガーデンがあり、山手本通りに到達する。

