<序>
 
 自分のホームページで欧州の邦人の記録を紹介していると、嬉しい事に貴重な情報を寄せてくれる方がいらっしゃる。最近、ロケット戦闘機「秋水」の調査・研究をされ、本も出版されている、柴田一哉さんより、ベルリンに駐在した吉川春夫技術中佐の資料をお借りすることが出来た。
 
そこには一枚の客船の食事メニューカードがあった。格式ばったレストランでテーブルに置かれる、コース料理の内容を紹介するものである。印刷されたドイツの名門船会社"Hamburg-AmerikaLine"の社名の印刷の右横には
昭和19年(1944年)3月29日 於キール 吉川晴夫と手書きで書かれている。
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メニューの表紙
 
この食事会の翌日3月30日、吉川は同僚の根木雄一郎技術大佐、江見哲四郎海軍大佐そしてスイス駐在の山田精二技術大佐と共に、ドイツから日本海軍に寄贈された潜水艦、日本名「呂501」に乗り込み、日本に向かう。4人それぞれ機密兵器の設計図等を所持していたが、吉川はドイツ空軍の誇るターボジェット機の設計資料を携えていた。
 
日独を行き来する潜水艦の被害も年ごとに増していたので、吉川と同じ資料を半月後の4月16日に、フランスロリアン軍港を出港した伊号第29潜水艦に乗り込んだ巌谷英一技術中佐も携行した。いかに危険な航海であったが想像できる。
 
 呂501号はドイツの潜水艦であったが、日本に向かった際は乗組員も日本から潜水艦でやって来て、ドイツで訓練を受けた日本海軍の軍人であった。彼らの習熟ぶりはドイツ側も賞賛するところであった。しかし同年5月13日、アフリカ大陸西岸で米護衛駆逐艦の攻撃を受け、沈没し全員戦死を遂げた。
 
このドイツ最後の夜の食事会のメニューの裏面に吉川は、乗船前の思いを書き留め、同席したベルリン駐在の樽谷由吉大尉に残した。不測の事態を予想しての行動であったろう。また最後の晩餐の合間であり、書くのに多くの時間も割けなかったと推測される。
 
本編ではこのメニューに書かれた最後のメッセージを現代文に改め、そこから読み取れる本人の思い、当時のドイツ邦人の事情などを読み解いて行くものである。また他の記録に残る吉川のドイツでの足取りも紹介する。
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書き込みのされた食事メニュー(ドイツ語) 赤字の番号に添って後半で詳細に説明。
 
 
<吉川春夫>
 
生い立ちを短く紹介すると、吉川春夫は明治39年(1906年)2月4日京都に生まれる。1929年に東京帝国大学工学部機械工学科卒業後、ただちに海軍造兵中尉となる。当時の東京帝国大学(今の東大)は、日本の「富国強兵」策と強くかかわっていた。優秀な学生は、海軍技術士官を前提に選抜され、卒業後は造船、造機、造兵の3部門に配属され、ただちに中尉に任官された。吉川はその中に選ばれた一名であった。
 
1939年4月、補海軍航空本部出仕兼造兵監督官を任ぜられドイツへ出張(駐在)を命ぜられる。5月に日本郵船の照国丸で欧州に向かった。
 
1941年7月、ドイツの駐在技術者の協会である「技術院」の名簿では第7(航空機)部門に名前が載り、部門責任者であった。専門は航空発動機と書かれている。
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ドイツ技術院名簿より
 
第一部以上 
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