<大食漢 末松>
先に紹介した同期の広瀬栄一駐フィンランド陸軍武官は戦後、ある講演で末松についてふれている。
広瀬がベルリンを訪問する、と西郷中佐などより「フィンランドから欠食児童が来たか」と言われご馳走してもらった。ベルリンも食べ物はあまり豊富ではなかったが、ベルリン在勤者は配給切符を多くもらっていたので、広瀬一人くらいにご馳走するのは問題なかった。そして末松が登場する。
広瀬がベルリンを訪問する、と西郷中佐などより「フィンランドから欠食児童が来たか」と言われご馳走してもらった。ベルリンも食べ物はあまり豊富ではなかったが、ベルリン在勤者は配給切符を多くもらっていたので、広瀬一人くらいにご馳走するのは問題なかった。そして末松が登場する。
「私の同期に末松というのが技術関係でやはり行っていましたが、末松は”グールマン”と言われまして、たくさん食うものですから、広瀬は欠食児童でしょうがないけど、お前(末松の事ー筆者)はダメだと言われてました。同期生ですから一緒によんでもらいたいんですが、末松と一緒はダメだという訳で、私は方々で欠食児童という事でご馳走になった。」
写真から見る末松はふっくらした体型であるが、食べる量も多かったようだ。仲間の間で”グールマン”と呼ばれていたとある。これはおそらくドイツ語の"Gourmand"(大食漢)から来ていよう。おそらく戦時下にはあまり歓迎されない嗜好であった。
<1943年12月23日から翌年2月2日 スイスからの第16信>
これは36枚と非常に長い。手紙は近況報告と言う役目を超え、自分の趣味の歌舞伎の論評を展開したりしている。読む方も一苦労であったかもしれない。
「郵便で出す手紙だから、政治の事は勿論、国内のいろいろの事情などで書けないことが多い。
戦争の真っ最中に芝居でもあるまいが、芝居の事なら、いくら(葉書でなく)郵便で出す手紙でも当たり障りは無かろうから」
「近くスイスから陸軍武官の岡本中将が、旅行してこちらにいらっしゃるらしい。その折、この手紙をお願いできるかもしれない。」とスイス通信のためならどんな位の相手でも、手紙を託そうとしていることが分かる。
「去年の11月の火事で、写真機も、今では灰になってしまった」とあり、その後の写真は確かにもう無いようである。
「実は今、ある人に(手紙の搬送を)頼んである。出すのは2月10日ごろになるかもしれないと思う。
1月29日(土)の夜、寝台車でベルリンを発ち、菊池軍医大佐、花岡兵技中佐と三人で、チロルの山の中に来た。」
1月29日(土)の夜、寝台車でベルリンを発ち、菊池軍医大佐、花岡兵技中佐と三人で、チロルの山の中に来た。」
陸軍武官室では毎年交代で2週間ずつ、スキー休暇を取っている。当時の日本の陸軍では考えられないことであろう。この花岡中佐は別の手紙の伏線となる人物で後述する。
<1944年3月21日 スイスからの第19信及び22信、25信>
それらはスイスの官製葉書に書かれたものである。葉書も官製葉書の方が着きやすいと考えていた。19信では
「昨年の10月末頃の(日本からの)日付の手紙を5つ、6つ受け取った。」と日本からの手紙がほぼ4か月かかって届いた事が書かれている。よくこんなに長い間各国を巡り、無くならないものである。
「昨年の10月末頃の(日本からの)日付の手紙を5つ、6つ受け取った。」と日本からの手紙がほぼ4か月かかって届いた事が書かれている。よくこんなに長い間各国を巡り、無くならないものである。
1944年4月27日 スイスからの第22信では
「今日、日本から送ってきた新聞や雑誌などを受け取った。懐かしい日本の姿のにじみ出ている活字を、食い入るようにして読んだ。
新聞の方は1月21日から31日までの分が一つの封筒に、また2月1日から2月15日までの分が他の一つの封筒に入っていた。雑誌は待ちかねていた”文芸春秋”の2月号。」
「今日、日本から送ってきた新聞や雑誌などを受け取った。懐かしい日本の姿のにじみ出ている活字を、食い入るようにして読んだ。
新聞の方は1月21日から31日までの分が一つの封筒に、また2月1日から2月15日までの分が他の一つの封筒に入っていた。雑誌は待ちかねていた”文芸春秋”の2月号。」
とついに日本から待望の雑誌が届いた事を報告した。ソ連が国際郵便を受け付けるという事は書籍、印刷物も受け付けるという事なのであろう。
1944年7月12日 スイスからの第26信では
「近く満州国の日本人や満人の人たち20人あまりが、シベリアを通って帰ることになった。その中のどなたかにお願いしようと思って、わりに長い手紙を(別に)書いている。」と書きさらに
「今月限りドイツの航空研究所をやめ、陸軍武官室の事務所の方で勤務するようになる予定である。」
と書かれ、これがスイスからの通信の最後となっている。
「近く満州国の日本人や満人の人たち20人あまりが、シベリアを通って帰ることになった。その中のどなたかにお願いしようと思って、わりに長い手紙を(別に)書いている。」と書きさらに
「今月限りドイツの航空研究所をやめ、陸軍武官室の事務所の方で勤務するようになる予定である。」
と書かれ、これがスイスからの通信の最後となっている。
これ以降の手紙が残っていないのは欧州の戦局によると考えられる。スイスからの郵便は陸路ウィーンからトルコに向かうが、その間にソ連軍が進出して交通路が分断されてしまったからだ。9月5日、ソ連はブルガリアに宣戦する。
<旅行者が運んだ手紙 1943年>
末松はこれまで見てきたスイスからの手紙の他に、日本への旅行者にも渡したことはすでに述べた。それは1943年8月4日に始まり、1944年7月17日までで便箋に番号が振られ、63番から166番まで104枚が今残っている。欠けた番号がないので、その間手紙を託された旅行者は、確実に日本の留守宅まで届けてくれたことが分かる。
それら手紙の中から、スイス通信に出ていないものを紹介する。時期は少し戻り、1943年8月4日からである。
「また近く便があるかもしれないとのこと、聞き込んだので、大急ぎで筆をとる。
去年の冬、航空の飯島大佐が日本にお帰りになって、(自分が)航空技術の方面の駐在官に任命されるのではないかと思っていた。しかし、この方は今になっても、何の音沙汰がない所を見ると、当分そうなりそうにもないらしい。」
久さんのように外交官待遇になるのではと言う、末松の期待は満たされなかった。
去年の冬、航空の飯島大佐が日本にお帰りになって、(自分が)航空技術の方面の駐在官に任命されるのではないかと思っていた。しかし、この方は今になっても、何の音沙汰がない所を見ると、当分そうなりそうにもないらしい。」
久さんのように外交官待遇になるのではと言う、末松の期待は満たされなかった。
「研究所は17時にはキチンと引ける。夕食はベルリンの旧市街に戻って、日本飯のレストランに行くか、うちで久さんと一緒に食べるつもり。」
戦時下でも残業はしないドイツの研究所に一人出向の形の末松は、17時以降は自由に時間が使えた。その時間で家族に手紙を書いたのであろう。
戦時下でも残業はしないドイツの研究所に一人出向の形の末松は、17時以降は自由に時間が使えた。その時間で家族に手紙を書いたのであろう。
「1943年10月29日、日本へ帰る人たちのベルリン出発は大体、来月の10日ごろになるらしい。この手紙はそれらの人たちの中の、誰かに頼むつもりである。
8月ごろまでに書き上げた分は、もう役所の方へ頼んでしまった。ことによるともう手元に届いているのではないかと思う。つまり89ページまでは頼んでしまった後で、今はここにはない。」
役所とは大使館、もしくは陸軍武官室の事であろう。11月にベルリンを発つ内田書記官らの前に89ページまでを渡したとすれば、10月5日にフランスの軍港を出て日本に向かった伊号第八潜水艦で運ばれたのであろうか。
「11月3日、ベルリンの日本人たちは(明治節の式典で)大使館に12時に集まった。生まれてはじめていただいた勲五等の勲章をつけた。君が代一回(番?)をピアノに和して歌う。厳かな式が終わる。
その後別室に移って立食の昼食である。材料は足りないが、それでもどうにか、いろいろな日本食が出来ている。五目飯と白米の塩漬けが一番うまかった。」
大使館の日本食も材料不足のためか、寿司、ソバのようなかつての常連メニューが見当たらない。またピアノを弾いたのは女優で声楽家の田中路子であろうか?
「11月9日 夕食は旧市街まで食いに出る。たいがいは日本料理店だ。」と戦況が悪化してきた中でも、まだ日本食料理店が営業していることが分かる。
「12月27日 この手紙は郵便で出すのではない。来年の1月ごろ、ベルリンで締め切りになる。郵便でなく、手紙がどうやって日本までいくのかはよく知らない。
ともかく、このことについては決して人に喋ってはならないことになっている。一方スイスから出す方のも、いつ何時ついでがあることやら分からないから、これも暇ひまに書いておこうと思っている。」
ともかく、このことについては決して人に喋ってはならないことになっている。一方スイスから出す方のも、いつ何時ついでがあることやら分からないから、これも暇ひまに書いておこうと思っている。」
搬送方法について決して喋ってはいけないというので一番に考えられるのが、潜水艦である。日独間の潜水艦の往来は極秘事項であった。知れれば制海権を持つ連合国の攻撃の的となってしまうからだ。時期的に合うのは1944年4月16日夕刻、フランスのロリアン軍港を出発した伊号第29号潜水艦である。
この潜水艦にはベルリンに駐在していた、花岡実業陸軍中佐が同乗して帰国するが、末松と花岡は、スイス通信第16信に書いたように1944年の冬、一緒にスキーに出かけた。そして
「実は今、ある人に(手紙の搬送を)頼んである。出すのは2月10日ごろになるかもしれないと思う。」と思わせぶりに書いている。運んだのは花岡中佐で間違いなかろう。
「実は今、ある人に(手紙の搬送を)頼んである。出すのは2月10日ごろになるかもしれないと思う。」と思わせぶりに書いている。運んだのは花岡中佐で間違いなかろう。
第五部以上
