<序>
1939年9月1日、ドイツがポーランドに対し戦争を開始してから欧州の戦争は拡大し続け、1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に対し進攻する。
戦争の拡大と共に日欧間の交通手段はどんどん狭まり同年12月8日、日本が米英に参戦する事で、日本人の渡航手段は完全に閉ざされた。そして戦時下の例外的渡航者に関しては筆者の「戦時日欧横断記」で詳しく取り上げた。
一方日本開戦後の郵便物の往来に関しては、理論的には可能であったが、実質は不可能というのが筆者のこれまでの見解であった。
それが戦時下にドイツに駐在した末松茂久少佐のご遺族の元に残る、数多くの郵便物を見せていただくことによって、ほとんど国際郵便が機能していた事を筆者は初めて確信した。そして残る手紙類には当時のベルリンの日本人社会の様子が、ところどころにちりばめられており、非常に貴重な史料である。
本編では残された書簡類から、戦時下のベルリンの日本人社会を考察するとともに、末松少佐の“考案した“日欧間の通信方法について見ていくものである。なお文中、末松の手紙の文章は括弧で引用し、それに筆者が解説を加えるという形式で書き進める。また文章も適宜、現代文に変えた。紹介する写真、葉書は断りのない限りすべて末松が日本に送ったものである。
1939年9月1日、ドイツがポーランドに対し戦争を開始してから欧州の戦争は拡大し続け、1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に対し進攻する。
戦争の拡大と共に日欧間の交通手段はどんどん狭まり同年12月8日、日本が米英に参戦する事で、日本人の渡航手段は完全に閉ざされた。そして戦時下の例外的渡航者に関しては筆者の「戦時日欧横断記」で詳しく取り上げた。
一方日本開戦後の郵便物の往来に関しては、理論的には可能であったが、実質は不可能というのが筆者のこれまでの見解であった。
それが戦時下にドイツに駐在した末松茂久少佐のご遺族の元に残る、数多くの郵便物を見せていただくことによって、ほとんど国際郵便が機能していた事を筆者は初めて確信した。そして残る手紙類には当時のベルリンの日本人社会の様子が、ところどころにちりばめられており、非常に貴重な史料である。
本編では残された書簡類から、戦時下のベルリンの日本人社会を考察するとともに、末松少佐の“考案した“日欧間の通信方法について見ていくものである。なお文中、末松の手紙の文章は括弧で引用し、それに筆者が解説を加えるという形式で書き進める。また文章も適宜、現代文に変えた。紹介する写真、葉書は断りのない限りすべて末松が日本に送ったものである。

戦時中スイスから届いた葉書。スイス、ベルンの消印あり。
<ベルリンへ>
1910年生まれの末松は1923年、麻布中学に入学するが、翌年陸軍幼年学校に進み、その後陸軍士官学校、砲兵学校、東京帝国大学物理学科を経て1938年、陸軍航空研究所に配属される。技術将校であった。
1941年、ドイツ駐在を命ぜられる。シベリア鉄道でベルリンに向かう途中の5月11日、満州里で葉書を留守宅に送る。最初の郵便である。
「満州里までたどり着いた。一週間前に東京にいたかと思うと、なんだか夢のようだ。明け12日、元気でシベリア鉄道に乗り込む。安心してくれ。」
日付は不明であるがベルリン到着早々にまた手紙を書いた。自分の乗車してきたシベリア鉄道に関し
「3度の飯は豪華なロシア料理、アイスクリームが1人前2円30銭、シャワー使用料は1回3円」と紹介した。
このシャワー使用料3円は、日本での初任給が80円くらいの時代であるが、手厚い旅費9000円を支給された末松には、全く問題のない価格であったろう。
1936年、ベルリンンオリンピックに出場するためシベリア鉄道に乗車した前畑秀子ら女子水泳選手は、高かったためシャワーは使わず、ベルリンで選手村に入るやいなや、「練習」と称してプールに入ったというエピソードがある。
そしてベルリン到着後
「夜はベルリンの先輩、とりわけ久(ひさし)さんが、時々どこかに連れて行ってくれるが、久さんは任務上ドイツ人との交際が多いから、決して毎晩という訳ではない。」
西久駐独武官補佐官の妻文子(ふみこ)は、末松の実の妹であった。武官補佐官は外交官待遇であり、日独提携強化で忙しい毎日を送っていた。手紙にはしばしば”久さん”として登場する。
ところがベルリン到着から間もなくの6月22日、ドイツとソ連が戦争状態となり、シベリア鉄道経由の手紙も出せなくなる。
翌23日朝日新聞には「欧州向け郵便物は?」の見出しで
「ポルトガル経由が残された唯一の道です。(米ないしは南米経由になることで)多くなる差し押さえの覚悟が必要」と郵政省のコメントが紹介された。
末松はこの独ソ開戦時期について次のように書く。
「7月22日 今日になって急にクーリエ便が出ると聞き、慌てて一筆を書く。軍人のクーリエの方は海軍が一人帰るとかの他は全部当地に足止め、その代り日本から誰もやって来ない。」
この頃、重要書類などはクーリエ(外交伝書使)と呼ばれる人間が、直接日欧間を運搬した。シベリア鉄道が使えなくなり、そのクーリエの往来も途絶えたのだ。ドイツに取り残された海軍の伝書使が日本に帰ると聞き、末松は手紙を託したのであった。この伝書使は幾人かの帰国者同様、ポルトガルから南米に渡って、開戦前の日本に戻ったと思われる。
<ベルリンの様子>
次に残る1941年11月23日の日付の手紙は、400字詰め原稿用紙26枚と非常に長いものである。宛名は常に妻澄子であった。そして「皆に回覧してくれ」と書かれた。帰国者によって運ばれたものと思われるが、運搬者、経路は不明である。
「到着以来 家からの手紙合計4通、受け取った。10日前に受け取ったのは8月13日付けである。
共に封筒の表記の指定通り、アメリカをはるばる回ってきたものらしく、封筒はヨレヨレになっていた。」と到着に3か月を要したものの、アメリカ経由で末松の元に郵便が届いていることが分かる。そして今後の郵便事情のさらなる困難を予測して、家族に色々指示が出始める。
「手紙には忘れずに日付を入れる事。最近数か月にいつ、どういう手紙を書いたか触れると、どれを入手して、どれを入手しなかったかが知ることが出来て都合が良い。」
「手紙は(クーリエ)便あるごとに書いたが、(独ソ)開戦以来、これが2回目である。今度の手紙は検閲の心配はないが、紛失の恐れは多分にあるとのこと。」
とこの手紙もクーリエによって運ばれるものであることが分かる。外交特権に守られた外交伝書使が運ぶので、途中で荷物を開けられ検閲の恐れはないのであろうが、なぜ紛失の恐れがあるのかは不明である。
「電話も時にはかけることにする。この方も土曜日は平日の半額で、一通話の料金はそう高い事はないが、すぐに数通話になってしまうので、割に高くつく。」
電話、電報は戦時下も通じていたが、高い料金から個人が利用する事は殆どなかった。一通話とはこの場合ある時間を指している。一分ぐらいの事であろうか。電話はつい長くなってしまうようだ。
「内地との交通途絶の為、日本ならば夜遅くまで働かねばならない中堅どころが、皆やもめ暮らしで、適当に働き、適当に遊んでいる図は勿体なくもあり、微笑ましくも感じられる光景である。その中にあって西(久武官補佐官)のごときは職務柄、相当忙しい日々を送っている。」
日独連携強化のため、日本から派遣された駐在員は官民を含め多かったが、両国間の連絡が途絶え、物資の交流が不可能なため、仕事もそう多くないのが実情であった。例えば日本郵船の駐在員は、日本から船が来なくなったので、仕事は完全になくなった。そのため多くの優秀な日本人がその持てる力を発揮できないまま、ドイツに暮らしていたのは実に皮肉であった。
「少佐の軍服はさる10月靖国神社大祭当日と明治節の2回、日本大使館で行われた遥拝式に用いたきりで、その他は一切背広で通している。」
8月1日に少佐に昇進した末松は、軍人でありながら、ドイツではほとんど背広で通したというのは本人の主義なのか興味深い。

ドイツ駐在技術者の集まりである「技術院」の当時の名簿によれば、末松には次の記述がある。
専門課目:物理
主業務: 航空発動機並びにその振動
従部門: 工業政策
「今年の7月25日には、下宿のオバサンが、自分の誕生日を祝ってくれた。お菓子を焼いてくれ、その周りには赤白のロウソクを31本立てる。これに火をともした光景はちょっと見事なものであった。」
日本ではまだ、誕生日に年の数だけのロウソクをともすという習慣はなかったようだ。

同封された写真より。当時の暗いレンズにもかかわらず、よく撮れている。
「そしてドイツの国内旅行と国外旅行を2回ずつやった。買い物も相当やった。(中略)金は足りている。生来の酒嫌いだから、その分だけいくらずつでも余るであろう。
高級な写真機、ライカとスーパーシクスという2つを買った。今手元に約千本の煙草の予備がある。ドイツではこの煙草買いが苦労の種。」
駐在員として高額な給料をもらえたためか、生活は不自由しなかった。そして先の仕事が多くない事実と、酒嫌いから末松は、自由時間を仲間との酒宴に費やさず、家族に宛てた手紙を書くことに割いたと思われる。またドイツではもう物不足が始まっていた。煙草はその本来の目的の他、物々交換の必需品でもあった。
「来年の1月10日から3月10日まで武官室であるスキー場に部屋を借り切ってある。あまりスキーでもないが、健康増進のため、少しやって、少しうまくなっておこうと思う。」
日照時間の少ないドイツの冬、主として結核対策か、陸軍武官室では毎冬スキー場に交代で行った。

942年1月 右より吉川技術中佐、中村主計中佐、末松、事務員カール・ナツツロシア人とドイツ人の混血。大谷少将。(この写真は「大戦中在独陸軍関係者の回想」と言う冊子にも紹介されているが、末松が提供したようだ)
「日本から持ってきた食料品はお茶と、梶原さんからもらった栗きんとん以外ほとんど使い果たした。」と日本食の在庫の報告も怠らない。
次いで先に4回と書いた旅行について、さらに詳しく書かれている。
「第一回目はわずか2日でライン地方。第二回目はミュンヘン、南ドイツ、旧オーストリア地方約2週間、第三回目はスロバキア、ハンガリー、ルーマニア地方、第四回目はスエーデン、フィンランド地方」
これらの旅行はいずれも私的旅行であったようだ。休暇も取りやすかったのであろう。

普通の夜景の写真だが次のコメントが付いている。「ブダペストの夜 ヨーロッパでもここは灯火管制をやっていない。 生き返った様な気持ちになる。」 (戦時下ドイツの夜は真っ暗であった。)
末松は余暇にはコントラクトブリッジと碁を好んでやった。
「陸軍武官室では碁打ちの数は多いが、揃いも揃ってへぼ揃い。毎月1回、陸軍以外からも人を呼んで碁会を開く。」

「左坂西中将(武官)10級、右石塚少佐12級、中央五目並べをしているのは岩田(元将校)一緒にハンガリーに旅行した。」(写真裏の解説より)
第一部以上
