ドイツが敗戦を迎えた一九四五年の五月から、スイス公使館と日本外務省の間での外交交信録を、「マジックサマリー」は連日のように取り上げる。ドイツからの発信はなくなり、アメリカ側が中立国に駐在する日本人の和平への動きに、関心を持ち始めた証拠である。
「自分は日本が、まだチャンスのある間に終戦に持ち込むことを希望する。ベルンのドイツ公使も、もしドイツの苦い経験が日本に生かされるなら、幸せであると語っている」と日本の終戦に触れた。
神田はその話を、さっそくベルンの加瀬公使に伝えた。すると加瀬は、コメントも添えずに、そのまま東京に打電した。
日本は三番目の道を取り、すみやかにイギリスとアメリカと交渉に入り、受け入れられるような条件を獲得すべきである」と提言した。
「日本の早い終戦を希望する」と締めくくった。これも東京に送られた。
なお加瀬の電報の送られた五月八日は、ドイツの崩壊した日であると同時に、藤村が文春において明解に、第一電を東京に打ったと主張する日である。 公使館から一連の和平勧告電が送られた直後の五月十二日
「加瀬公使は自身では和平を主張しないものの、そうした主旨の第三者の意見を、東京に次々と送り続けている」と、アメリカの解読グループは首脳部に報告した。
「公使加瀬俊一、無能の人物。本土決戦を主張する大本営の意向に反する仕事をすることは、表面的には問題が深刻重大であるため、他の人に話させたかった」と語った内容に近い。アメリカ側の分析の鋭さを証明すると同時に、藤村はそんな「慎重な」加瀬公使に苛立っていたようだ。
「和平の方策として好ましいのは、ロシアに仲介を委ねることである」と、長文の具申電を東京に送った。後に藤村がソ連を仲介とする和平工作を警告するのは、この加瀬電に対する対抗心からかもしれない。
加瀬を中心としたスイス駐在外交官は、和平に向けて大きく動き出した。しかしこうした電報に対して、日本からは良いとも悪いとも何も言ってこなかった。送り側はこれを、政府の受動的肯定の印と解釈し、具申電の頻度を増してゆく。
「ドイツの小島武官との交信は五月五日から不能」と本国に伝えた。ようやく藤村は上官から解放され、独自に行動出来るようになったと言える。
そして同月十六日軍令部第三課にあてて、駐ドイツ武官室消滅後の情報体制についての報告を送る。
二.敵と中立国の一般情報のスパイ行為はフランスの親ロシア、反英米的人物によって行われており、今後拡大するであろう。
三.アメリカ大統領の特使であるダレスと当地のスターリンの特別代理組織がここスイスで全欧州の活動に関わっている。
後の交渉相手であるダレスの名前も登場するが、それは敵側の情報を入手する可能性のある組織としてである。そして藤村はダレスの組織内の反米英的外国人から情報を入手予定と書いている。ハックをこうした目的のために利用出来ると当初は考えていたのかもしれない。藤村がダレス機関の構成員であるハックに接触した動機は、文春の内容とは大分違うのかもしれない。
これは解読したアメリカにとっては、関心を呼ぶ内容ではなかったようだ。よって重要な電報のみを取りまとめた「マジックサマリー」には取り上げられない。
「六月五日、ベルンの海軍顧問である西原大佐は日本に、OSSのアレン.ダレス長官がスイスにおいて日本とアメリカの間で話し合いを持つこと、そしてそのために東京から極秘で提督を送るよう提案してきたと報告した。
三部構成の報告書のうち第二部のみ入手したが、内容は以下のようである」とコメントがあり、そこには西原大佐の名前が登場する。第二部は以下のようである。
「ダレスはルーズベルト大統領の特使であり、今はトルーマンに仕え、かれの政治活動はスイスを本拠に全欧州に及ぶ。
五月二十三日と二十五日、ダレスは確実なる第三者を通じて藤村中佐に極秘に提案をし、同時にかれは二通の至急電をワシントンに送った。
B.スイスとロシアの間には外交関係がないので、ロシアの監視がない。よってスイスは他のどこの中立国より、日米の対話にふさわしい場所である。
ダレスは常にワシントン、特にトルーマン、ステッティニウス、グルーと緊密な関係にあり、ワシントンもかれの意見に常に重きを置いている。
この発電者は西原となっているが、文中には「ダレス側より実際の提案を受けたのは藤村中佐」と表現されている。文春の内容とも照合して、これが藤村の第一電であるといって間違いない。それはつまり六月五日のことであった。沖縄では、米軍はすでに首里地区を占領している。
はっきりと「ダレス機関が接触してきたのは五月二十三日と二十五日であった」と報告している。よって藤村は手記において、日付をちょうど一ヶ月繰り上げ、四月二十三日としたことは明白である。本橋教授の推理は正しかった。
また「ダレス機関が第三者を通じて、藤村中佐に極秘に提案をしてきた」とある。これに関しては、一九六八年に出版された「昭和史の天皇」で藤村自身、日本への第一電を打つ際
「戦争の最中に上司の命令もなく、勝手に和平交渉をするなどということは、軍律でいえば銃殺ものだ。そこでみんなで考えて話を逆にして、ダレスの方からハックを通じて和平を申し入れて来た、ということにして東京に第一電を打つことにした」と、東京に対して、事実と異なる報告をした事を認めている。ただし事実の歪曲は、これだけにはとどまらない。
続いて六月十三日、マジックサマリーは欠けていた藤村第一電の第一部と第三部を紹介する。
暗号化された原稿は、スイスの郵便局に持ち込まれ、送られた。おそらく長文ゆえに、第一電は三回に分けて、日本に送られたのであろう。興味深いのはアメリカ側の暗号解読者はこの時点ですでに
さて新たに解読された第一部で藤村は
「一.アメリカの指導者の間でも、海軍を除き、日本の無条件降伏を望 まなくなっている
二.アメリカはロシアのアジアへの進出を恐れている」と報告した。
「ヤルタ会議においてロシアは、ある時期に対日参戦することに同意した。それは八月下旬であろう」とも書いた。 ここでの”ある情報筋”とはハック以外に考えられない。
ヤルタ会議での密約は戦後初めて明らかになった話で、公表された時、日本では大きな反響を巻き起こした。それを藤村は戦時中にすでに、報告していた。アメリカの指導者層は、この箇所を読んで相当肝を冷やしたはずである。しかし受け取った日本海軍には、これも重大視した形跡はない。首をかしげざるをえない、情報音痴だ。