<終戦対策>  
            
一九四四年に入ると欧州戦争の趨勢は、誰の目にも明らかであった。六月に連合軍はフランス西岸のノルマンディーに上陸し、大陸への直接反攻が始まった。八月にはパリが解放される。東部戦線でもドイツ軍は三年前のソ連侵攻のスタート地点まで、押し戻されようとしていた。 

     

スイスでは同年一月末、山田中佐が潜水艦による帰任命令を受け、ドイツに引き揚げた。後任には小島武官が評価した西原市郎大佐が、顧問としてただひとり滞在する。

同年七月二十日にヒトラーの暗殺計画が実行に移された後から、ベルリンの海軍武官室のみならず強気の陸軍側も、さすがにドイツの将来を憂い出す。 

     
まもなくドイツが崩壊して、日本だけが戦争を続けることになるであろう。その際、欧州の武官室の体制を考えると、中立国にそのいくつの機能を移す必要が生じた。

小島武官はドイツの敗戦対策を九月二十九日、東京に打電する。「戦況はドイツにとって不利であり、我々は以下の方針にしたがって行動する必要がある。 
     
ドイツ政府が戦いを続ける間は、我々もそれに従う。しかしドイツが崩壊するような場合、武官室のメンバーは可能な限り中立国(スエーデン、スイス、スペイン等)に移動し、機能を継続させる。またどうしても敵の手に落ちるときは、米英ではなく、ソ連に保護を求める。 

中立国への人員増強に関して、遅れて入国が不可能にならないよう、すでに候補者を選び出した。鍵となる職種の人間で、入国も問題なさそうな人物を、考慮の末に選び出した」(解読電) 
     
このころにはベルリンの海軍武官室がスイスへ派遣するメンバーは決まっていたといえる。そしてその目的は、ドイツが崩壊しても欧州の出先機関として存続し、大東亜戦争に協力することであった。 

     

これに対し東京からは十月八日、ドイツが戦いを続けているのだから、中立国への派遣者の人選は、それを考慮するようという注文が来た。つまり責任者である武官が、出て行くような事はドイツを刺激するのでしないようにとのことである。 

     

こうしてこの時、補佐官で有能な藤村が選ばれたことが推測される。しかしベルリンの武官室がすでに、中立国を舞台に日本の和平工作を考えていたことを証明する史料はない。スイスに藤村を送り出したのは、先にも述べたように欧州における、日本海軍武官室の延命のためであった。 

     

加瀬俊一駐スイス公使が、スイス外務省に海軍関係者三名の増員の話を出したのは、十月五日であった。加瀬は三名の人物に関して
「現在欧州にいて、当面の任務のない軍人である。うち一人は航空関係の専門、他は資材の専門家、最後が一般問題の将校である。スイスが原則同意するなら、すぐに三名の名前を伝える」と語った。ここの一般問題の将校が藤村である事は間違いない。 

     
加瀬公使は、この三名の入国の主な目的は敗戦間近のドイツからの疎開であると理解し、スイス側にもはっきりそう説明した。 

十月十四日、スイス側の検討結果が伝えられる。
「今日の状況を考えると、外交官リストに、武官級が一度に複数名加わることは好ましくない。よって三人の入国は許可するが、一名のみが外交官待遇、他の二名は一般の職員として受け入れる」(スイス公文書館史料)

一人でも多くの邦人を、任国に避難させることを第一に考えていた加瀬は、これに満足してすぐさま 「結果を東京に伝える」と答えた。 

     
このころの藤村について言えば、同年六月ドイツとフィンランドの補佐官を解かれ、フランス専任の補佐官に任ぜられた。しかしベルリン武官室が藤村のベルリン兼務を望んでいたのに加え、間もなくパリも連合軍の手で解放され、フランスには実質的仕事はない。
 
十月十日、再びドイツの補佐官に任ずる照会がなされた。時期的には、スイス派遣の話とぴったり一致する。この時藤村が、候補に上っていた事はここからも確認できよう。
     
三人の入国許可が出てから、最初に入国申請をしたのは、ベルリン海軍武官室理事で電信担当の四方忠雄であった。四方もフランスからベルリンに避難してきた待機組だ。スイス公文書館に残された史料によれば、かれは同年十二月十五日、入国申請を行う。そして翌年二月二十六日には、スイスに入っている。 

     

残り二人の申請は、大分遅れた一九四五年二月六日であった。藤村中佐黒田捨三大佐の名前があった。それから十日も経ない十四日、スイスは二人の入国ビザの発給を連絡してきた。ドイツの崩壊は目前に迫っている。異例の早い対応であった。 

     

ところが同月二十六日、加瀬公使はスイス側に対して、黒田大佐に代えて大阪商船の津山重美の入国を再要請する。大佐レベルから嘱託への変更である。スイスもこの急な変更には面食らったようだ。  

     

津山は開戦後間もなくして海軍武官室で働き出すが、解読電によれば一九四四年十一月二十八日、ベルリン武官室が本国に同人の嘱託採用を正式に具申し、受理されている。(海軍解読電)


スイス入りを目の前にして、ベルリンでは正式に武官室雇いとしたのであろう。藤村の強力な推薦があったであろうことは、想像に難くない。 
     
藤村はスイス入りに際し、どう考えたのであろうかのか?大佐である黒田と、中佐である自分を考えると、一名のみに与えらるはずのスイス国内での外交官の資格は、黒田に与えられるはずであった。これは藤村にとって面白い事ではなかった。 

     

外交官旅券を持たないでの戦時下の活動は、非常に限られたものになる事を、藤村は知っていた。そこで自身の外交官待遇と、有能と判断した津山を同行させることを、要求したのではなかろうか?藤村は自己主張の強い性格の持ち主であった。

スイスの記録では津山に対する入国許可が出たのは3月13日である。黒田から津山に代えたことで20日を失った計算である。この20日は後の工作を考えると、大きな損失ととらえるべきであろう。
 

     
藤村のスイス入国時期について「戦争の末期の一九四五年三月下旬にスイス海軍武官として、ベルリンからスイスのベルンに転任した」と文春にあるが、その後のインタビューには二月末にベルリンを発ったと書かれている。常に日付を前に持っていくのが藤村の回想の特徴である。スイスの公文書館に残る史料ではスイスの税関が 

     

「藤村義一中佐はベルンの外交団に所属するならばいつからか?彼は四月五日、ドイツから乗り込んできた、連結者付きの乗用車を免税でスイスに入れる権利を有するか?」と政府にたずねていて、四月五日に入国したことが判る。 

     

海軍解読電を見て行くと小島武官は、スイスの西原大佐に向け
「津山嘱託のビザは二月二十六日に下りた。藤村のは三月六日の予定である。藤村は津山を伴い三月十五日に車でスイスに向かう予定。国境には十八日到着予定」とまず送っている。藤村の名前がスイスと関連して初めて出てくる。 

            
実際の出発はそれより遅れて三月の末であった。そして西原大佐は四月九日、東京とベルリンの阿部中将、小島武官にあてて
「藤村中佐と津山嘱託は当地に七日着」と連絡した。

藤村のスイス入りは三月下旬ではなく四月上旬のことであった。(一部その後の調査による修正を「和平工作その後」に掲載しました。)

 
イメージ 1

1945年3月12日、ベルリンにて藤村の送別会の時のサイン。(一人上に横書きをしている。)阿部勝男中将のサイン帳より



<西原市郎>
             
スイス入りした藤村は、西原大佐の下で「公使館付き海軍問題顧問補佐官」という長い肩書きであった。後に紹介するが、スイスからの和平勧告の電報の発信者名は、実は藤村ではなく全てがこの西原になっている。

「西原の役割に、もう少し光をあてるべきなのかも知れない」と比較的新しい研究書「終戦工作の記録」にも書かれている。実際はどうなのであろうか? 

     

数少ない当事者の一人である西原も、回想を残している。海軍機関学校三十二期入校五十周年記念会誌「回顧録」に、手書きの手記「戦時中の思い出」が載っている。これは水交会事務局の中村進一郎氏が、見つけ出してくれたものである。これまで紹介されることのなかった西原の回想から、関連部分を紹介する。 

     

「(前略)私は外交官のパスポートを持っていたので、独国内では工作機械の買付けや、技術の連絡或は時には航空関係の仕事で、メッサーシュミット社でジェット戦闘機用のジェットエンジンの製造技術を修得して、これを日本に報告する一方、スイス国内では、工作機械の買付けやエリコン社との間で、二十五ミリ機関銃の購入交渉実現する傍ら、私はまた軍令具第三部々員でもあったので、部下六名を使用して情報の収集や諜報をもやっていた。 

     

スイス国内では”海軍問題に関する日本国大使顧問”という資格で活躍していたが、仕事の大部分は軍令部の仕事で終始した。その間虎の尾を踏む思いをしたことは、一度やや二度ではなかった。(略)  

     

五月初旬突如として、スイス国駐在で欧州地区担当の大統領特設顧問アレン.ダレス氏より、私が平素使っていた亡命ドイツ人ドクター.ハックを通して、私に会見の申入れがあった。 

     

会ってみると対日戦継続の無意味である事、さらに継続すれば、終局に於いて日本が窮地に追い込まれた状態になると思われるから、早めに和平について、その糸口を見出すために、君と話し合いをしたいと話した。 

     

そして私の面前で、大統領宛の許可申請電文を認め、私に対しても同様の手続きをするよう熱望した。次回の面接は約二週間後に行われたが、彼は大統領のOKを取付けた事を説明し当方は?と問い合わせた。最近米国側の都市爆撃が熾烈なので、回答が遅れているものと思うと答えた。(実は謀略かと考え実行してなかった) 

     

先方が余りにも真剣なので、かかる重大問題を話し合うのに一海軍大佐の私を相手とするのは何故か、との問いに対して
1.日本の外務省は力がない。
2.日本の陸軍は話し合っても分からない
3.日本の海軍ならば分かってもらえると思う。但し交渉相手としては君では不満である、との答えであった。

      
自後七月十日頃までに十数回に渡って会談し、その都度広い視野に立って次官、次長に詳細報したが何等応答はなかった。会談の結論としては

1.ソ連介入の和平交渉には極めて警戒的であった。
2.勝った負けたの立場でなく、対等の資格で交渉を進めたい
3.東京より大臣級の海軍将校将官をスイスに派遣する事
註ー東京より自国機で沖縄迄来る。それ以後は米国のB24機でスイスまで送り届ける。
4.スイスはソ連とは外交関係がないから、最適の地であり交渉の場所は(南スイスのー筆者註)ルガノとする。
5.交渉中の秘密保持については自信がある。
(対独秘密交渉を前後百八回に渡ってルガノでやった例を引いた) 

     
私はソ連介入や、仲介の交渉は極めて危険である事を報告すると共に、スイス政府を仲介者とする事の有利性を合わせて報告した。
  超えて七月中旬初めて次官、次長より次の指示があった。すなわち
“今日までの君の情報は全部外務大臣にも通報した。よって以後は矢面に立たず側面より協力せよ”(略)」 
     
非常に困惑させる回想である。藤村の”ふ”の字も登場しないで、全て自分が行った事になっている。

前半の
「仕事の大部分は軍令部の仕事で終始した。その間虎の尾を踏む思いをしたことは、一度やや二度ではなかった」という箇所であるが、解読電によればかなり裏付けられる。 
     
一九四四年五月十七日、軍令部第三課にあてて「I情報」と題して「現在アメリカでは四ヶ所の工場でB二九を製造している」等と報告している。

      

また藤村手記にはない和平工作の逸話が、いくつか具体的に紹介されている。西原の面前で、ダレスは大統領に交渉を始める許可申請を書いたという話や、南スイスのルガノを交渉の場として提案するなどである。藤村も、文春発表からしばらく経って、ダレスと直接会った話を書いている。さらに調べる必要がありそうだ。 

     

しかしこの手記の最大の問題点は、文末に「和平交渉に関する裏話はその詳細を、昭和三十五年頃文芸春秋に載せた事がある」と書かれているものの、記事はどこにも発見出来ないことだ。おそらく藤村の文春記事のことを指しているのであろう。細部は具体的でかなり正確であったが、西原は藤村の行為を、自分のと混同してしまっていると考えて間違いない。


 


<スイスの情勢>
             
ドイツが崩壊するのは、藤村がスイス入りして一ヶ月後の、一九四五年五月七日のことである。欧州の戦争が終わったことで、欧米のマスコミは対日戦の終結について、多くの憶測記事を書く。これらの内容はスイスを中心とする中立国に駐在する同盟通信社の特派員によって、本国に紹介された。 

     

当然国民の目には触れないが、それらを目にした高木少将は、いくつか書き残している。

「和平流説」 同盟チューリヒ支局 一九四五 五 一二  ロイター、ワシントン電
「米国外交界では十一日に、日本の和平申し入れの噂が話題に上った。有力な筋では過去数週間中に日本のある筋が、斯かる探りを入れたものと見ているが、、、」

十三日「サンデータイムズ紙」
「日本が既にルーズベルトの死去する以前にモスクワを通じ、米国に対し、また恐らく英国に対しても和平工作を開始したことが

現在判明している」
また十八日にはインドのニューデリー放送が、「日本がソ連を仲介とした和平交渉を申し入れたが、連合国は無条件降伏でなければ受諾できずと拒否した」と報じた。
 
スイスで当然これらを耳にした藤村が、文春で六月六日電で
「東京がモスコーを通じて和平工作をしている状況を指摘し、、」と述べたことは、不自然とは言えない。冒頭部で紹介した本橋氏の、日付に関する根拠は、やや的を外れている。

第五部以上