<スイス海軍武官室> 
            
藤村は戦後、自分を元スイス武官と語る。中立で小国、しかも四方を山に囲まれたスイスであるが、日本海軍にとっては開戦前から重要な国であった。  

     

関心は、スイスの優れた軍事産業であった。チューリッヒのエリコン社では高射機関砲を製造しており、ベルンから程近い町ソロトンでは対戦車砲を製造していた。


その他今日”ABB”と、スエーデンの会社と合併して名前を変えたブラウン.ボヴェリ社では船舶用ボイラーを、エッシャービース社はタービンとスクリューをそれぞれ製造していた。海のないスイスではあるが、船舶技術は特に優れたものを持っていた。これらの会社の製品は、戦艦大和にも採用されていたという。 
     
その関係でこの小国には、日本の海軍武官室はないものの、常に海軍技術者が滞在していた。一九四〇年秋以降、だれも駐在しない陸軍とは対照的である。

天羽日記の一九三九年三月一日には
「午後; 海軍艦政本部造船監督官(独)海軍機関中佐山田精二来訪; 部屋に引き込み二時間も四方山の談話」とある。

山田中佐は海軍機関学校出身の、技術系キャリア軍人である。本来はベルリン勤務であるが、同じ年の四月二十九日の天長節にも天羽日記に登場する。このころから頻繁に、スイスを訪問していた。 
     
一九三九年九月一日、ヒトラーがポーランドに押し入り、欧州戦争が勃発すると、中立国スイスの重要性がこれまで以上に増す。西側情報の入手が可能であるからだ。

同月十五日、先述の山田中佐が、またベルリンからやって来る。ハックとほぼ同時期のスイス入りであった。山田は今回、公使館の一室に事務所を構え、長期出張者として滞在を始める。そしてハックとベルリンの交信の間に立った。
 
     
それから二年後、日本も真珠湾を急襲し米英に宣戦する。さらに半年すると、海軍は再びスイスに関して動く。太平洋では緒戦の快進撃が鈍り、ミッドウエーの海戦で大敗を喫したころである。 

     

九四二年六月二十二日、嶋田繁太郎海軍大臣は東郷茂徳外務大臣に対し、スイスに海軍武官室を開設し、ベルリンの武官である横井大佐を兼務させる照会をする。同時にすでに出張中の山田は補佐官として、スイス常駐となるはずであった。

横井は先に紹介したように日本敗戦論者で、日米のパイプの推進者である。その横井がハックの滞在するスイスの武官を兼任すると言うことは、意味深長であった。 

     
しかし自国に海軍を持たないスイスは、海外に海軍武官を派遣していない。よって外国の海軍武官の自国内駐在も認めなかった。相互主義を盾にした。時の徳永太郎代理公使は七月二十日、東郷外相宛の電報で 

     

「二.本官としては当館に海軍武官を設置することは当分望みなきに付、山田中佐を当館付海軍顧問とせられては如何と存す。 

     

三.尚本官交渉の際得たる印象によれば、在独武官を当国兼任武官とすることは、中立国たる当国として歓迎せさる様子窺われたり」と、山田中佐を”公使館付き海軍問題顧問”という肩書きで、外交団の一員に加える妥協案を提案した。日本海軍もすんなりとそれを受け入れ、山田中佐は滞在を続けることが出来た。 

     

しかし横井の枢軸国ドイツとの武官職の兼任は、中立国スイスとしては具合が悪い事であったため、頑として認められなかった。こうして横井の話は立ち消えとなる。 

     

その後一九四四年にも、海軍は武官室を開設しようとする。今度も武官の派遣はスイスから拒絶されるが、イタリア駐在武官であった光延東洋中佐が、”公使館付き海軍問題顧問”として勤務する事は、内諾を得た。

日本海軍は武官室の開設にこだわったというより、中立国スイスの人員の増強が目的であったようだ。もう傀儡政権として存続するだけのイタリアに、海軍武官は必要なかった。

      
光延は兵学校出身で藤村の先輩にあたる。イタリアでは、スパイもどきを使って情報収集などをしていた記録が残っている。しかし入国直前に光延は、イタリアのレジスタンスによって暗殺されてしまう。 

     

横道にそれるが、かれの異動をアメリカは、日本の暗号文の解読によって、正確に捕らえていた。よって暗殺は、スイスに日本海軍の諜報網が強化されることを嫌った、アメリカの策略であるという可能性を筆者は捨て切れない。また光延がこの時スイス入りしていたら、後の藤村の話はなかったかもしれない。 

     

これまで見たように、スイスには戦争中を通じて、日本海軍武官室は開設されなかった。藤村のスイスでの肩書きも、公使館付き海軍問題顧問補佐であった。よって戦後になって本人がスイス駐在武官と語ることは、全く正確さを欠く表現である。

 


<横井の帰国> 
            
アメリカとのパイプを容認したベルリンの横井武官は、一九四三年に入ると帰国命令が出て、潜水艦での危険な航海の末、日本に帰り着く。同年末の事であった。東京の軍令部が大島大使の苦情を受け、帰国させたのかもしれない。

高木惣吉少将のメモによれば、横井は帰国した日本で、欧州戦争について悲観的見通しを述べた。 
     
「ドイツから帰朝した横井少将の話を聞くと、開戦前長くて三ヶ月でソ連を片つけると公言していた独ソ宣戦も、意外にソ連の抵抗が強く、陸軍側や大島大使らの見積もりのように短期に片付くまい。対英上陸作戦も、やはり独海軍の慎重論が当っていて、ゲーリングや陸軍側が予想したように簡単にゆかなかった状況を詳しく聞いた」(私観太平洋戦争) 

     

ここにもあるように横井の、ドイツ一辺倒の大島大使とは一線を画する戦争認識は、疑いない。しかし何度か取り上げた日米のパイプの存在について、横井は海軍の良識派といわれる高木に対しても一切報告していない。 

     

九十年代に入ってこの問題について詳しく調べた大木毅氏によれば、その存在を否定できない主たる根拠は酒井直衛らの証言である。酒井は
「横井はハックを通じた連絡について東京に報告、この関係を維持すべきかと繰り返し問い合わせたのに対し、海軍省は常に賛成の意を表明してきた」と証言している。(「二十年のあゆみ」) 

     
これが事実とすれば東京への問い合わせは、武官室の暗号文で行われたに違いない。その裏付けを取るべく筆者は米国公文書館に残る、五千本を超える、日本海軍武官の暗号電全てに目を通してきた。確かにアメリカは、ベルリン武官室のすべての発信電報を捉えたたわけではない。しかしかなりの部分を包括している。そこには酒井の話を裏付ける、乃至は少しでも関連を想起させるような交信は一切ない。 

     

つまり「繰り返し報告してきた」という証拠はどこにもないのである。よって筆者は、先の酒井の証言も、架空に作り上げた話という見解である。
ただしアメリカが、戦時中の日米間の交渉について触れている解読文を、今日にいたるも一切公表していないとしたら別であるが。

 


<小島海軍武官>
             
横井の後任の海軍武官として、やはり潜水艦で、終局に近づきつつあるベルリンに向かったのは、でに紹介した小島秀雄少将であった。親独派である、前の武官時代にはハックをナチスから救い出した。小島は藤村工作に関し、戦後「水交」という旧海軍関係者の会報誌に文章を残している。

「去る(一九七五年ー筆者)十二月十八日の午後七時半から九時にかけて、日本テレビが太平洋戦争秘話「緊急暗号電、祖国和平せよ」という題目で、藤村中佐(兵五十五期)のダレス機関との接触の話を、大森実の書いた原作で、仲代達矢と伊丹十三に、スイスで芝居をさせて放送した。 
     
当時私が藤村中佐の上司であった関係で、いろいろの人から質問を受けた。私自身は、日独協会の”クリスマスの夕”と重なったため、遺憾ながらこのテレビを見ていないのであるが、新聞の記事とテレビを見た人の話から、内容の想像がつくので、脚本と本当の話には違いがあることを、本誌上を通じて、皆様に資することにした。 

     

当時、スイスには、西原市郎機関大佐が私の配下の艦政本部監督官としてチューリッヒに常駐していて、同氏を通じて私の旧知のドクトル.ウィルヘルム.ハックというドイツ人が品物を届けたり手紙をくれたりしていた。(中略)


そのハックから二十年の三月か四月頃頻りに私にスイスに来るようにといってきたので、何か理由があると思い、スイス政府に入国のビザを要求したが一向に返事がない 
     
ドイツ外務省の友人に頼んでベルリンのドイツ大使から内情を訊いたところ、英国のBBC放送が小島海軍少将が潜水艦でドイツへ潜入したという放送をしたこともあり、スイス当局は高官の入国を気味悪く思って、これを拒否していることが判った。 

     

若い人を派遣するのであれば、問題はないようであるということなので、昭和二十年三月中旬、一番若い補佐官であった藤村中佐を入国させてドクトル.ハックとの連絡をとらせることにした。 

     

スイス側では、スイスには海軍がないから、公使館付海軍武官としては認められないが、公使館顧問として入国は認めるという話で、その資格で入国させた。したがって藤村中佐がスイス在勤日本海軍武官と自ら名乗っているのは、話を面白くさせるためにやっていることであろうが、本来の資格は在独大使館付武官補佐官でスイスに出張中ということになる。(中略) 

     

昭和二十年十二月初旬には日本に送還された。その後間もなく、私は米内大将を訪ねて藤村中佐から電報が来ましたかと訪ねたところ

”電報は来たが彼がどうしてスイスにいるのか、ダレス機関に連絡したといっているが、事情がよく判らない。若い補佐官がアメリカの情報機関に利用されているのではないかという疑念があった。

小島武官の命で派遣されて、ハックという男との連絡を命ぜられていたという事情さえも、当人の電報には何等言及されていないので、話の筋道が全く判らなかった”といわれた。 

     
豊田軍令部総長には、その後、海軍省の階段で、ばったり出会ったが、同大将は私に「藤村は君が派遣していたのだったということだね。それが判っていれば考え方もあったが、彼の電報だけでは、そんな事情は全然判らなかった」といわれた。(後略)

 

まず目に付くのは、小島の文章の底流にあるかつての部下藤村に対する激しい反感である。共に和平交渉に務めた仲間とは思えない。藤村の話は事実とは異なる、と番組も見ないで結論づけている。
肩書きを含め、事情を正確に書かない藤村に対し、小島のみならずベルリンの関係者は強い抵抗感を持ったようだ。 

     
ただし当時は、ドイツ崩壊一年前に着任した小島の、滞独四年の藤村に対する信頼は厚かった。横井の時代と異なり、隣国の視察に際して常に藤村を伴っているからである。六月に藤村がドイツの補佐官を解かれ、フランス補佐官となると阿部中将と連名で東京に対して 

     

「軍令部五六四号に関して 東京が藤村を主としてフランス補佐官にしたい事は理解できる。しかしながら先の欧州武官会議において、藤村はフランス補佐官を専任ではなく、兼務するというのが合意されている」とドイツとの兼任を要求し、認めさせている。 

     

このように小島にとって藤村は頼もしい存在であった。つまり小島の藤村への反感は戦後のことで、おそらくは藤村が文春に手記を発表してからの事であった。

 
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小島武官がベルリンの小学生加藤眞一郎さんのサイン帳に書いたサイン。

またハックとの繋がりは小島も書いているが、アメリカとの連絡路までは触れていない。ハックからの連合国側の情報は、横井同様入手したのであろう。 
     
そしてそのハックがベルリンに情報を送るときは、山田の後任の駐スイス西原市郎大佐を介していたとが確認できる。小島は西原を高く評価しているようでもある。 

            

しかしハックが最初に小島にスイスに来るようにといった話など、かれも藤村同様、大分自己を誇張して回想を書いている。この問題で先述の大木氏はBBCに対し「本当に小島武官に関する放送があったか?」まで問い合わせをした。

筆者の調べた限りでは
「一九四五年二月十日 九五三号 次長宛て
いくつかの報告では,スイス政府筋の対日感,特に海軍に対しては最近良くない。(例えば小島武官、池田主計他は八ヶ月前にビザを申請したが、まだ下りない)」(海軍解読電)

と確かに着任直後に小島はスイス入国を希望している。時期からすると視察であろう。
ただしこれにはハックの誘いがあったのかもしれない。


(小島は西原機関中佐と戦後も書いているが、海軍の機関科は一九四二年11月に廃止され、兵科に統合されたあので、それ以降は機関中佐佐という呼称はなくなり中佐と呼ぶのが正しいということを、筆者もある人から教えられた)。


      
また後にも紹介する一九四四年九月の海軍解読電で東京は
「ドイツが戦いを続ける間は、(武官は)その協力を全力で行うべし」と、ドイツの武官がスイスに転任するなどとんでもないと釘をさしている。小島のスイス赴任は、元から検討の遡上に上るはずのものではなかった。
             
他方藤村が、スイスに向かったのは東京経由の辞令による赴任ではなくて、小島の判断による出張であるという説明も疑問が残る。確かに藤村のスイス転任の正式な辞令は出ていない。

しかしこれもアメリカに残る解読電から、訂正の必要がある。一九四五年四月十二日、阿部中将は海軍次官、軍令部次長に向け
「藤村中佐と津山嘱託は四月六日スイス到着。この日を以って当地の任務を解除した。スイス勤務の辞令の発令を請」と東京に明確に打っている。阿部は日本の指令にしたがって、スイスにベルリンの武官室の機能を移していると報告したのであった。これに対し東京が反応した形跡がない。阿部中将ベルリン脱出直前のことであった。 

            

それにもかかわらず小島は、日本が藤村のスイス派遣を全く知らなかった事が、工作失敗の最大の理由としている。日本の海軍首脳の「この時どうして藤村がスイスにいるのか判らなかった」という発言まで紹介している。全て疑わしいといわざるをえない。まともに藤村の電報を取り上げなかった首脳部の、後になっての言い訳であろう。 

            

実際に日本から辞令が発令されなかった経緯は不明である。アメリカには傍受された電報も、本国には届かなかったか、終戦間際のごたごたの中、一中佐のスイス転任の辞令など正式に発令する余裕がなかったのであろうか?

 
第四部以上