<藤村義一> 
            
証言の検証に先立ち、本編の主役である藤村中佐の経歴を見てみる。軍人を紹介する場合に、しばしば引用される「日本陸海軍の制度、組織、人事」によれば、藤村は明治四十年二月二十四日(一九0七年)生まれである。一九二七年三月海軍兵学校を卒業、一九三八年十二月、超エリートコースである海軍大学に、甲種三十七期生として進む。 

     

二年後の一九四〇年四月二十四日に卒業するが、成績は三十人中二番目という優秀さであったという。同年五月、ドイツ駐在を命じられた。(秋という藤村の回想もある)藤村三十三歳の時である。欧州では第二次世界大戦が始まってから、すでに半年が経過していた。

      

藤村に関する数少ない日本側一次史料の一つに、この年十月二十六日、及川古志郎海軍大臣から松岡洋右外務大臣に宛てた書簡がある。六本木の外務省外交史料館に残っている。ドイツの新旧海軍武官補佐官の交替に関して


免; 海軍少佐; 室井捨治
令; 海軍少佐; 藤村義一 
     
と海軍大学を卒業したばかりの藤村だが、もう補佐官に推挙される。
ベルリンでの任期を終え、帰国する室井少佐の後任である。とすれば藤村が現地に赴任後、六ヶ月して補佐官に任命されたというよりは、欧州に向かったのも一九四〇年の後半のほうが事実でないかと思われる。 
     
続いて翌年一九四一年の八月十五日、フィンランドの武官補佐官の兼務となる。ただしあくまでも兼務であって、本人は以降もベルリンに留まっている。 

     

同年十二月八日、日本が米英に宣戦布告すると、日独伊軍事協定が締結され、戦争を三国共同で遂行する目的で、日独混合委員会がベルリンに設立される。藤村は委員会の「一般情報交換」部門の海軍責任者に任ぜられ、ドイツ国務省情報部、海軍省副官部と連絡にあたることになる。(野村直邦「潜艦U511号の運命」)  

     

一般情報担当となる事で、武官内で最も、連合国に関する各種情報に接していた一人であったのは事実であろう。横井忠雄、小島秀雄、二代のベルリン駐在武官が同盟国を視察する際、藤村は常に行動を共にしている。武官の信頼も高かったようだ。 

     

藤村は文春に「私は一九四三年在独時代から(中略)日米直接和平の交渉をするならば、欧州ではスイスに在るダレス機関以外に確実な方法はなかろうと考えていた」と語るが、ダレスの名前はすでにその年には、時のスイス公使阪本瑞男(さかもとたまお)には知られている。同年八月三十日 

     

「イギリスのプロパガンダ活動は活発ではない。一方アメリカは大規模に欧州全体で展開している。その責任者はアレン.ダレス、かれは大臣の特別助手で、バルカン半島や中欧に太いパイプを持ち、費用は湯水のように使っている」とダレスを中心としたOSSの動きを東京に報告している。(解読電より) 

     

よってドイツの藤村がこの組織について、耳にしていたとしても、不思議な事ではない。しかし「そのころから日米交渉の相手に考えていた」との回想は、疑わしい。  

     

他方こうした事実を報告されていたにもかかわらず、終戦間際にダレスの名前を海軍から聞いたとき、外務省では誰も知らなかったという。阪本の電報が全く軽視されていた証である。 

     

また当時フィンランドに留学中であった中央大学名誉教授の桑木努は、藤村が同国に出張してきたときのことを自著に記している。十一月九日「公使官邸にて阿部勝雄中将と藤村輔佐官を囲んで小野打武官と都倉官補と食事」
桑木氏は最近筆者に対しても、大変まじめな人であったと直接証言した。 

     
一九四四年六月五日、フィンランド兼務を解かれ今度はフランス兼務になり、日本から派遣される潜水艦の受け入れを担当する。
こうして見てくると情報に通じた藤村が、陥落が近いベルリンの武官室の機能を一部移管する目的で、スイス派遣者に選ばれたことは自然であり、理解できる。
 


<ベルリン海軍武官室
             
「第二次大戦中ベルリンにいた日本海軍の首脳部は、戦争勃発の当初から、ひそかに、いつかは必ず来るであろう終戦に備えて日米直接和解の途を準備していたのである」と藤村の書く、駐ベルリン日本海軍武官室についてここで見てみる。  

     

今日なじみの薄い「武官室」は、終戦まで存在した大使館から独立した、情報収集を主任務とする軍の出先機関である。その長が武官である。陸軍海軍それぞれが、主要国に開設していた。 

     

最重要同盟国であるドイツには、日本海軍は陸軍同様、独自に大きな組織を抱えていた。武官一人、藤村を含む補佐官若干名のほかに艦政本部士官、航空本部技術士官、電波技術士官、書記官などがおり、総勢三十名近くであった。大使館にも匹敵する規模である。 

     

終戦時の駐独海軍武官であった小島秀雄少将は、戦前にも同職についている。かれは親独派で、枢軸的思想が強かった。一九三八年、反枢軸の東郷茂徳(とうごうしげのり)大使を追い出すべく、大島浩陸軍武官(後の大使)が画策した際には、それに協力した。 

     

小島が日本の軍令部に
「リッベントロップ外相は東郷大使と話をしなくなり、大使の存在が浮いている」と報告したことが、東郷更迭の決定打となった。
 

     
三年後の日本参戦当時には、日独軍事同盟の繋がりで、海軍武官室勤務者のほかに、日独伊混合委員会の軍事委員として、海軍の高級将校が駐在することとなる。野村直邦中将、阿部勝雄少将の二人である。
      
イメージ 1
1942年9月24日、ブルガリアソフィアにて。 日本人は右より山路章公使、野村直邦中将、阿部勝雄中将、松原明夫駐トルコ海軍武官、渓口泰麿中佐である。
 
そして大佐である横井忠雄が、海軍武官であった。その横井については誰もが口をそろえて「思想が反枢軸的で、それを公言していた人物」と証言する。 

     

同盟通信のベルリン特派員であった江尻進は自著「ベルリン特電」に書いている。時期は対米参戦直後の一九四一年十二月、

「数日後、新築早々のティアガルテン通りの日本大使館で、大島大使主宰の戦勝祝賀会が催された。


横井大佐は開口一番“今は勝った勝ったと、このように浮かれているが、日本はこの戦争で負ける”と自信のある口調で断言する。 
     
真珠湾やマレー半島攻撃で、日本軍の輝かしい戦果が大々的に報道されている最中のことである。我々も軍人らしからぬ、あまりの“放言”にムッとして、反論したら、自信たっぷりに、こう説明する。 

     

“来独する直前に、大本営の陸海軍参謀の一団が、一週間にわたって合宿し、日米戦争を仮定する図上演習を試みた。その結論は戦争を半年くらいで終結できれば、一応顔の立つ結末で、戦争を終えることができる。しかし戦争がそれ以上長引くことになれば、日本敗北の結論である。

 
これはいかんというので、スタッフを一新し二度同じ演習を繰り返してみたが、出てくる敗戦の結論は、変りなかった”」
ドイツ一辺倒の大使館、陸軍武官室とは一線を画していたのが、横井を長とするこのころの海軍武官室であった。

さらに横井は日本参戦後、スイスへ亡命中のドイツ人ハック博士をして、連合国側の情報を武官室に送らせたという。先に紹介したように、藤村は戦後間もなく高木少将に

「横井武官より米側と連絡しとく様に頼んだ」と証言し、以降もこの主張は一貫している。
後述するがハックはこの時アメリカ側の機関のためにも、働いていた。

 


<ドクター.ハック>
             
藤村とダレス機関の間で仲介の労を務めたのがすでに名前が登場したフリードリッヒ.ハックという亡命ドイツ人であった。

日本参戦後間もなく、ベルリンの武官室に書き送った書簡で
「日本はなんて馬鹿なことをした。後は戦争の終わりに備えて、自分がスイスにおいて連合国とのパイプを維持しておこう」と提案した、と藤村は書いている。

一九二十年代より航空機のブローカーとして、ベルリンの日本海軍武官室と関係のあったフリードリッヒ.ハックは、一九三七年七月初めに「男色罪」の名目で、ナチスに逮捕される。きっかけはナチス党内の、かれの政敵の密告によるものであったらしい。 
     
そんなハックを、日独の友好関係を利用して釈放させたのは、時の海軍駐在武官小島秀雄であった。釈放後は、ひそかにオーストリアから山越えでスイスに入り、さらに日本へと向かった。

来日したハックだが、今度はかねてより対立関係にあったユンカース社系の人物で、ライヒ航空産業連名日本代表のカウマンに逐われて、パリに去る。 
     
欧州戦争勃発直前の一九三九年八月十四日、パリを発ったハックは、八月二十五日にスイスに入り、最大都市チューリッヒ、クーアハウス通り六五番地の超高級な「グランドホテル.ドルダー」に居を構える。

このホテルを拠点として、戦争を逃れてきた富裕な商人を装いつつ、日本海軍のために働くことになる。ある時期からは、アメリカの情報機関のためにもである。 
     
欧州が風雲急を告げるこの時、駐スイス日本公使は、かつて本省勤務時に、いわゆる「天羽声明」を出し世間を騒がせた天羽英二であった。かれは以前に比べて、悠々閑々とした公使生活の中で、克明な日記を残している。一九三九年二月十四日の欄はこうである。 

     

「井上(海軍)の”チューリッヒ”用談の件
  井上  Dr.Hack(独人)、酒井等とBliss(Credit Suisse)Junod(機械業組合書記長)と談話。”Credit Suisse(スイスの大手銀行ー筆者)”は政府が保証するか全部担保に限り組合に融通する由(後略)」 

     
イタリア転出直前の同年十一月六日にも
「朝  山田海軍中佐紹介独逸人ハック来訪」と登場している。  かれはスイス入り前後から、たびたび公使館に出入していた。 
     
ハックと並んで天羽の日記に名前のある酒井(直衛)は、ベルリン海軍武官室の嘱託である。日本から派遣された上級将校ではなく、いわゆる現地雇いである。しかしながら在独二十年でドイツ語が堪能、武官室内での影響力も大きい。藤村の和平工作にもしばしば名前が出てくる。酒井は確かにハックとこの頃から、行動をともにしていた。しかし戦時中に藤村とハックが、スイスで何度か会ったという証言を裏付ける史料は、見つからない。

ベルリンの野村中将は一九四二年春、フランス、スペイン、ポルトガル訪問の帰途スイスに寄ってハックに会っている。

「日本はすでに戦争目的を達成したのだから、交渉による和平に向けて努力すべきだ」と説いたという。(潜艦U五一一号の運命)こうした事実から判断してハックが今次戦争で、開戦初期から日本の早期停戦を勧告していたことは間違いない。

それに留まらず先に紹介した酒井は

「一九四三年には、ベルンからチューリッヒへ向かう列車の一等車の車室内で、ハックによって、アメリカ戦略事務局(OSS)の欧州総局長アレン.ダレスの秘書ゲヴァーニッツに引き合わされた。この会談において日本海軍はアメリカとの連絡を維持するという事が確認されたのであった」(二十年の歩み)


とスパイ映画のような内容の証言をするが、これは疑わしい内容だ。
実際に日米は戦時中にもかかわらず、このように双方向に情報、意見を交換していたのであろうか?

日本側にはそれを裏付ける史料はない。史料がよく保存されるアメリカ側からも、こうした事実は見付からない。よって結論は否であるが後に詳しく述べる。 
     
しかし一九三九年九月十日から一九四四年十月二十一日の間に、ハックは二十四通の報告書を、ベルリンの日本海軍武官室に送ったことが、ドイツ側の研究で明らかになっている。ハックがスイスで高級ホテルに住み続けることができたのは、経済的にも謎である。ベルリンの武官室にこうした報告書を書く見返りに、資金を援助してもらっていたのかもしれない。 

     

ハックが、戦争中のある時点からアメリカのOSSと接触を持ったことも、事実である。ハックを介して日米が繋がったと言える。内容は知ることは出来ないがハックの報告書には、こうしてアメリカ側から入手した情報が含まれていたであろう。これが誇張されて、酒井のアメリカ側と直接コンタクトしたという証言になったものと思われる。

 
ハックは第一次世界大戦時、青島で日本軍の捕虜となり、1918年3月に習志野俘虜収容所に収容される。

(筆者撮影)
 
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