<手記の原典>
 
文春の手記の公表以前に、筆者が見つけただけで二度、藤村はスイスでの工作について、語っている。
 
まず一九四八年一月八日、冒頭に触れた高木少将は藤村から聞き取りを行っていて、その時のメモが高木惣吉文書として残っている。この事実はまだ研究者の間でも知られていないようだ。
 
メモには「東京尾関宅にて」と記されている。文春記事の二年前である。A四版に六枚くらいの量である。今日日本で表記されるダレスがデュレスとなっているのは、ドイツ語読みのためであろう。興味深い部分を拾い上げると
 
一.ジョン.フォスター.デュレス
当時は大統領特派使節  ベルン基地  欧州に二年(一九四三年から)ばかり居た人  特特電報で通信していた。機関を持ち本人はY(飛行機のこと―筆者)で旅行していた。
 
一九四五年二、三月頃北部伊太利交戦中のケッセルリング独将軍と直接交渉、単独和平を成立させた。結果は伊が救われた。一九四五年六月にスイスで公表された。四月頃は未だ秘密で、然しはっきりこれを知っていた。相手として不信の人物ではなかった。
 
二.日本側は藤村武官のみであった。
スイスに在った兵科将校は居なかった。陸軍岡本少将、中風にかかってチューリッヒにて治療中、代わりに少将が一人、大佐二人居た。
公使加瀬俊一、無能の人物。責任の分散を恐れる事甚だしかった。本土決戦を主張する大本営の意向に反する仕事をすることは、表面的には問題が深刻重大であるため、他の人に話させたかった。
日本側に相談した人がある。朝日の笠信太郎、大阪商船東京支店次長津山重美
 
三.場所.時
四月の三日か、四日にスイスに着いた。「デュレス」という人物はスイスに入ってから目標にしていた。
四.東京に話さなかったこと
A 日本側より申し入れた事
B 絶対に秘密を保つこと
C 条件三つ
 陛下そのまま; デュレスの答えイエス
 商船隊を残す事; イエス
 台湾朝鮮そのまま; 台湾イエス、
 朝鮮は; 米英ではどうにもならぬ
媒介者はドイツ人であった。(ハックのことー筆者)大島(ドイツ大使)は散々これを使っておいて、かれが危険なときは少しも援助しなかった。
海軍の直買のエージェントとしたため非常な恩を被った。大人物、機密取り引きしない。機密情報も求めなかった。
横井武官より米側と連絡しとく様に頼んだ。デュレスという人物を指示したのもかれであった。
 
経過
 
一九四五年四月初旬から準備、デュラスと話し始めたのは四月下旬。四月二十日過ぎ、直接デュレスに媒介者が会って申し込む。先方も電報二通ワシントンに送る。一週間以内に返事。藤村と話してよろしい。
五月十五日(東京に第一電を)発電。十日間苦心作業した。向うには次々に電報が来て、再三催促を受けた。東京から返事が来ぬ。二十五通から三十通打ったと思う。
 
五月二十五、六日頃と思う。東京から返電(六月十五、六日と書かれた箇所に線が引かれ、五月二十五と直されているー筆者)。陸海軍離反策と思う。 デュレスの方にはこの返電のことは言えず、東京から返事がきてるが、研究を勧めるという意味を伝えた。
 
五月二十四、五日の頃先方の話; 大使級を派遣するなら輸送は一切引き受けると申越した。
 
七月二十日過ぎ、東京から第二電
”大体その案に乗ってみたい。外務省に移したからこれと協力するように”と。これをそのまま受けて外務出先機関と協力する事にした。
公使はよく調べると返事をしたと思う。気をもんでいる間に原子爆弾、ソ連参戦となるために、効果なきことになった。(以上高木惣吉文書より)
 
ここで藤村は大きな誤解をしていることに気がつく。冒頭のジョン.フォスター.デュレスは、スイスに滞在したアレン.ダレスの五歳年上の実兄である。この時点でも藤村は自分の交渉相手を正しく認識していなかったのであろうか?
 
内容に戻ると、聞き取りは一般への公表を意識したものでないので、大方において本音を出しているといえよう。和平交渉への取り組みを見ると、ダレス側への申し入れは、四月二十日過ぎで文春と同じである。しかし第一電の日付が、文春の五月八日ではなく、十五日となっている。
 
東京から返電について六月十五、六日と書いた後に箇所に五月二十五、六日頃と直されているのも意味深長である。
 
東京からの第二電を受けたのは終戦間際の七月二十日と、文春より一ヶ月後である。後に書くがこの七月二十日という日付は事実である。結論を先回りすると、この時点では全体の日付はかなり正しかった。
 
高木は戦時中も、日本側で藤村の電報に実際に接した数少ない一人であったから、藤村もそのかれに向かって、いい加減な話は出来なかったのかもしれない。
 
交渉の経過については文春とほとんど変わらない。ただし、三つの和平提案のうち二つをダレスがイエスと答えたなど、その内容の検証は必要である。いずれにせよすでに藤村の中では、文春手記の粗筋はできていた。
さらに「(開戦直後から)横井武官より(ハックに対しスイスで)米側と連絡しとく様に頼んだ」と戦時中の日米間のパイプについて、藤村はこの時から証言している。これは検証していく必要がある。
 


<GHQの調査> 

藤村の回想はさらに発展をする。占領軍として敗戦時から日本を統治していたマッカーサー司令部では、歴史課を中心に”日本の降伏努力”というテーマで調査を行った。
 
嘱託として委託を受けた元海軍大佐の大井篤は、一九五〇年の十月二十四日と二十六日、藤村の事務所を訪れた。スイスからの電報の話は、関係者の間ではすでに知られていたようだ。
 
藤村は話す内容を、前もって市販の原稿用紙七十九枚にきれいに清書した上で、大井を迎えた。そしてそれを自分で読みながら、アメリカ側との和平工作の経緯を説明したという。これは今日英文に訳されて、国会図書館の憲政資料室にマイクロ化されて残されている。文春にない特筆点を挙げると以下のようだ。
 
ベルンに移ったのは三月二十一日のこと。四月二十三日公使館内の海軍事務所にハック博士を呼んで、ダレス機関との交渉開始を依頼した。偶然そこに西原技術武官も同席した。
 
ハックは早速その内容を銀行家ホワイト氏と、ダレスの秘書ゲルベニエッツに告げるが、
 「その時、その席には日本問題の主任であるダレス機関の要人(特に名を秘す)も同席せられた」という文春の書き方に対し、ここではこの要人の名前をブルームと明記している。
 
またダレス機関の返事を待つのを四名と証言した。藤村、笠、津山、ハックであろう。あとは電報の日付、打った電報の数等藤村手記と全く同じである。 記録の最後には、註が付されている。

「スイスにおけるダレス機関との和平交渉に関する史料、つまりこれに関する交換された電報や、その他の書類はすべて、藤村と津山がスイスを去る一九四六年一月、上田常光駐スイス二等書記官の目の前で焼却された。よってこの証言は、藤村と津山が持ち帰ったメモによるものである」
 
とりあえず、聞いた話を書き記すという姿勢である。藤村の話の内容について、聴取者である大井が、いささか疑念を抱いた節がうかがわれる。
藤村はこの時用意した原稿を、二、三箇所修正した後、長年親しくしていた野村證券社長奥村網雄氏を介して、自ら文芸春秋社に渡したという。こうして有名な「痛恨!ダレス、、」が世の中に出ることになった。
 

 
 <証言> 

これまでに紹介したような藤村自身の回想に加え、数少ない当事者も証言している。そこにはいわゆる眉つばのものも多い。
 
典型的な例を挙げると、前章で触れたダレス機関の日本担当として、藤村らが接触したとされるポール.チャールズ.ブルームがいる。

ブルームは戦後、なんと日本に来て藤村の興した会社で共に働くことになる。当然藤村寄りとなることが想像される。
「将来に備えて早めに九一式海軍暗号機械および暗号に必要な人員を派遣した。海軍の暗号は特殊なもので、当時、世界でもっとも完備したものと信ぜられていたし、機密保持上最良の武器として、在伯林海軍首脳部の要求によって潜水艦で日本より運んでもらったものであった」という藤村の証言を援護するように、ブルームは「昭和史の天皇」の中で
 
「当時、われわれはヨーロッパの日本大、公使館と外務省を往復する暗号電報は全部解読し、その日のうちに読んでいた。ただ、今のうちの、社長の使っていた九七式のものだけは、ついに解読できなかった」と語る。
 
一見説得力のあるアメリカ側の当事者の発言であるるが、よく調べると内容は全く事実ではないことがわかる。冒頭に述べたように海軍の暗号も、全てアメリカの手で解読されている。しかしその日のうちではなく、数日を要した。また解読されたものはごく限られた範囲に回覧され、決してスイスのダレス機関までは来なかった。
 
事実と照らし合わせると、ブルームという人物は、ダレス機関に所属していたことは他の資料からも確認できるが、本当に日本問題の主任であったのかさえ、疑わしくなってくる。

藤村の創作、もしくは脚色に、当時の関係者が口を合わせている。これが、事実の究明を難しくしている理由の一つである。
 
こうした状況におかれた藤村の手記に対し、最初に疑念を抱いたのは研究界であった。学習院大学の本橋正教授は、文春記事が出てから七年後の一九五八年、学術論文「太平洋戦争終結論」を書いた。
 
そしてその中で「藤村が文春誌上に発表したものは、和平具申の日本打電の日付が全体として、一ヶ月ほど繰り上がっているのではないか?」と提起した。例えば六月六日電で
 
「東京がモスコーを通じて和平工作をしている状況を指摘し、、」と藤村が触れる内容は
「日本政府がモスコーを通じて和平工作に乗り出すことを決定したのが、六月十八日、二十二日であり(中略) 駐ソ大使にこの特使派遣を、ソヴィエト政府に申し入れるように東郷が訓電したのが七月十二日」
と、七月中旬以前には、スイスにいる藤村が、知るはずのない事実が述べられていると考えた。しかしまだ証拠に乏しい。そこで
 
「かかる点に、大方の御教示をいただければ幸いである」と、将来の研究者に結論をゆだねた。論を先回りすると藤村が六月に、モスクワを通じての交渉について触れていることは、不自然ではない。これは後に説明する。
 
手記の日付け繰り上げ問題は、後に本橋自身によって別の角度から証明されるが、藤村の手記の誠実度を計る良き尺度の一つだ。
 
第二部以上 
 

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