<モスクワに>

外交官の東郷大使はベルリンでは海軍、陸軍の関係者とうまくいかなかった。当時ベルリンの大使館に勤務した首藤安人商務書記官の東京裁判での宣誓口述によれば、大使着任後間もない1938年3月か4月、小島秀雄海軍武官(日本人学校前の写真に夫人が写っていた)は海軍省へ
「日独協力関係増進を必要とするこの際、ドイツ外務大臣と折り合いの悪い東郷大使を留任することは帝国の採るべき道ではない」と打電する。そこには大島浩陸軍武官との打ち合わせ済みとも書かれていた。

一方東郷大使は1938年5月5日、広田外相に宛てて
「当地の大使館付き(陸海両)武官の行動は長き間の因習ありて、時に常軌を逸することあるも、、、」と書き送り、武官の行動が外交官の目から見て異常な部分があると訴えている。

その結果か東郷大使は滞在10か月でベルリンを去ることになる。本人が戦後書いた「時代の一面」には以下のように記されている。
「ベルリンに戻り10月27日、モスクワに向けて出発。冬のロシアは寂寥なるものがある。モスクワは初めてではないが、道行く人の寂しい顔が目に付いた。」
寂しい光景は誰もが持つ当時のモスクワに対する印象であった。

ここでも正直は東郷を追いかけるように1939年2月8日モスクワに転勤となる。東郷同様に短いベルリン勤務であった。東郷と同じでモスクワ方面への列車の出るベルリンのフリードリッヒシュトラーセ駅からモスクワに向かったのであろう。そしてベルリンの例と合わせて、今回も東郷の意向での正直の異動と考えてよさそうである。

ベルリンを発つときに滞在中良く訪れた市立公園出口で弟正敏と撮ってもらった写真がある。自分らがベルリンを去るのと、出口の上にかかった文字「さようなら」(Auf Wiedersehen)をかけて撮ったのは父正直のウィットであろう。市立公園はベルリンに二つあるようだが、自宅のアパートの位置から考えるとステーグリッツ(Stadtpark Steglitz)か?

イメージ 1
ベルリンを去るにあたって

イメージ 2
正直のモスクワ勤務(二等通訳官)を命ずる辞令。意外とあっさりとしている。日付も実際の赴任日より後である。

<モスクワでの生活>

モスクワではドイツとは違い、大使館の中に館員の住居があり、全体が高い城壁のようなもので囲まれていた。正義ら子供たちだけで外出することもできないし、必ず大人の人と一緒に出かけていた。

実際ソ連政府による日本大使館への妨害も激しかった。大使館の門前にはソ連の民兵、秘密警察が立ち、日本人の出入りをチェックした。さらには大使館の城壁には鉄条網が張り巡らされた。

辻一家の赴任一年前の1938年2月22日の読売新聞によれば、
「大使館の壁より高い、頑丈な鉄条網を張り巡らし、不法にも高圧電流を流してしまった。」とある。時の重光葵大使が抗議すると
「外交官保護に万全を期したもので、文明国の常識である」との返事であった。

1940年1月の外務省の記録では25名の外交官がモスクワの大使館に勤務している。ドイツ、英国とほぼ同数である。大使館のとして地位は高かった。当時の写真を見ると外交官の夫人かなりいた。しかし民間人はシャーナリスト位であったろう。よって子供の数が少なかったためか、モスクワには日本人学校はなかった。教師のなり手がなかったためかもしれない。しかし正義は学校には行かずに済み、遊び主体の生活が送れることを子供心に喜んだ。

当時モスクワの日本大使館で参事官であった西春彦は、小学校がなかったためか家庭教師として赤松俊子を日本から連れてきて、特に子供に絵を教えさせていたという。家庭教師を連れてくることは、上級外交官の給料では可能であったのであろう。赤松は後には丸木俊の名前で画家として活躍する。

そのせいか戦後出版された西春彦の「回想の日本外交」には長女喜代子の描いたデッサンが2点紹介されている。「大使館の窓から見た当時のモスクワ風景」と「シベリア鉄道食堂車内の風景」であるが、後者はイラスト調でユーモラスな書き方である。またシベリア鉄道内での写真撮影は許されなかったので、貴重な資料ともいえる。

また東郷大使は家庭教師の代わりではないが、日本から和田さんという仕立屋を連れて来ていた。ベルリンでは出番は少なかったが、良いパーティー用の服の手に入らないモスクワでは大活躍であったという。「必要な人材は日本から連れてくる」が原則の時代であった。

まだ15歳であった“東郷いせ”は社交界にデビューし、学校とは縁がなくなる。そして最初の夏はモスクワ川で泳いだり、郊外の別荘(ダーチャ)で過ごしたりして過ごしたという。

東郷大使公邸には雇人は6、7人で内訳はバトラー(執事)が一人、日本人と西洋人の料理人が一人ずつ他という陣容であった。自分も外交官と結婚し、戦後は外国勤務を体験する“東郷いせ”は常に10から20人位を切り盛りしたので、それと比べると非常にさびしい陣容であった。

食料はすべてスエーデンの会社から輸入したものを使用し、大使館でパーティーを開く際に足りない食材があるとアメリカ、イタリアなどの大使館と連絡をとって、例えばホウレンソウすらも融通し合った。

第五部以上