<ドイツへ>
1938年4月5日、この時外務書記生であった正直は、ベルリンの日本大使館勤務を命じられる。日本とドイツの間では日独防共協定が締結され、さらにその強化が声高になり日独関係が重要になってきたころである。
今回の赴任に際し両親は、静子の妹で三女の宮原澄子に同行をお願いした。正義他三人の子供の面倒を見てもらうためであった。ここも先述の杉原千畝と似ている。杉原も1937年9月15日、ヘルシンキ公使館勤務として赴任する際に妻幸子、子供三人に加え、幸子のすぐ下の妹も日本から同行させている。
「パーティーなどの外交官の付き合いは夫婦同伴が常識。何かと外に出ることの多い夫婦に代わって子供たちの世話を見るため」と著書に記されている。現地で教育係を雇うよりは、日本語教育のためにも日本人が良いと考えたのであろう。

1938年(昭和13年)5月5日発行の正義の公用パスポート。7歳の子供にもパスポートは発行された。ドイツへの赴任に際してはイタリア、スイス、オーストリア経由となっている。
父、母、正敏、正行は横浜から日本郵船の「靖国丸」に乗船し、自分と澄子叔母(母の妹)は門司港から乗船した。門司港では接岸できないので小さな艀船で靖国丸に近づき、高くて急な桟橋を抱かれて乗船したことを覚えている。一等船客室と三等船客室と二部屋をとってあったが、外交官待遇ではない叔母の澄子は三等船客室だったという。

靖国丸一等船客の記念撮影。「6TH JUNE. 1938 VOY. No.21」と白いローマ字が写し込まれている。
前列右から三番目、船員に抱かれているのが正義。前から3列目4,5番目が正直、正敏。前から2列目3番目が静子
当時の配船表によれば靖国丸の第21航海は1938年5月22日、横浜出航である。撮影日が6月6日とあるので、予定通りであったならばシンガポール入港前日の撮影である。
靖国丸には長旅の退屈さを紛らわせるため色々な施設があり、プール、映画館、その他娯楽施設も完備されていた。よって子供の正義も航海中、全く退屈することはなかった。食事は部屋でもとれるが、食事の時間になると鉄琴を鳴らしながら回って来るので、辻家はそれを合図に食堂に出かけた。
食事の種類も豊富であり、寄港する国々の産物も取り入れて特にシンガポールあたりで出された南洋の果物は美味しかった。また夕食にはテーブルにいろいろな記念のプレゼントも用意されていた。船では家族一同揃っての暮らしが出来て、食事も一緒で父、母と暮らす時間もたっぷりあったので楽しかった。

すき焼きパーティーも一等船客への定番サービスであったようで、日本郵船米国向けの船でも行われた。左のテーブルに正直が見える。
専属のカメラマンが乗り込んで、こうした写真を撮り、日付なども入れて配ったのであろう。
寄港する港では上陸できるところも何カ所かあった。門司の次の停泊地である上海で辻一家は上陸したが、日本海軍が上海に利益保護の目的で駐屯させていた海軍陸戦隊の車で、租界地を案内してもらった。その時正義は生まれて初めて、壁に銃弾跡を見た。跡は第二次上海事変で出来たものと思われる。
次のシンガポールでは街路樹に猿が群がるようなところを通って動物園に行った。小さなバナナを餌にしていた覚えがある。スエズ運河の北端にあたるポートサイドでは駱駝で近郊のピラミッド見物なども出来たが、辻家ではそれをしていない。

船はロンドン行きで欧州最初の寄港地はイタリアのナポリであるが、先に紹介したパスポートの情報から、辻家はここで降り、ドイツに向かったことは疑いない。
しかしベルリンに赴く家族連れの多くは次のマルセーユで降りて、鉄路パリを経由してベルリンに向かった。パリ見物も一つの目的であったろうが、当時は日本の最先端の女性の洋服でも、当時の欧州の社交界では見劣りがしたので、パリに寄ってドレスなどを買うためである。
筆者は既に「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」で当時の日本人の暮らしぶりを紹介しているが、それとはダブらないように辻家のベルリンでの生活ぶりを紹介していく。
ベルリンの住居は今もその名前が残る「クーフスタイナーシュトラッセ」(日本人が多く住んだヴィルマースドルフ地区の”Kufsteiner Strasse“)にあったという。日本人会なども近く、その後も戦時中にかけて日本人が多く住んだ通りである。
正直の勤務する大使館はアホルン通り(Ahorn Strasse)1番にあった。正直の住む通りからは3キロの道のりである。その後まもなくして移転するティアガルテン通り25-37番の大使館はこの時建築中であった。この後者の建物は第三帝国風建築として今も残っている。
時の大使は鹿児島出身の東郷茂徳(日本開戦時および終戦時の外務大臣)で家族ぐるみで懇切にしてもらっていた。いつも家族的に付き合いがあって、ドイツ人の奥さんエディットと娘”いせ”とは、母静子も親しくしていたという。
正直がハルピン学院を卒業して、欧米局第一課に配属されたのはすでに書いた。その時の課長は東郷であったので、この時に知り合ったはずである。しかし二人の繋がりを裏付ける資料(回想録など)は見つからない。
その東郷は1937年12月24日のクリスマスイブにベルリンに着任している。そしてその後を追うように半年後に正直がドイツに赴任している。確かに正直のドイツ赴任は東郷の指名であったことが窺われる。
ロシア語の専門家正直がドイツに呼ばれたのは、東郷がドイツにおいてもソ連との関係の重要性を認識していたからであろうか?
そして大使公邸はティアガルテン通りの3番にあった。二階にバルコニーのある、大きな菩提樹の木に囲まれた屋敷であったと東郷いせは書いている。
