

中沢 いまの世界は二元論、バイナリ(二進法) 思考でつくられている。
コンピューターはもちろん二項対立で世界を認識し、情報化し、 処理する。
そこからはリアルな死は排除されてしまうんですね。
坂本 世界は有限で閉じたものだということがわかっていないから、 「生か死か」「有か無か」という二項対立の思考に陥ってしまう。
中沢 有限で閉じた世界が、いかに大人びて豊かな世界であるか。
「資源は有限である」「世界は循環する」という思考方法にたいして、 「その考え方は遅れた考え方だ」 と批判する人がいるけど、そうじゃない。
人間の心に最初に生まれて、おそらくは最後の知恵の源泉もそこに戻っていく。
それがこの循環するホモロジー思考でしょう。
坂本 いつしか無限思考のほうが勝ってしまってそれが席巻しているわけですけど、長い歴史のなかではつい最近のことですよ。
この 100年くらい、あるいはルネサンスから考えても500年くらいというのは、一種の試行実験の時期だったと思えば、また少し戻ってやり直せばいいじゃないかって思うんです。
一直線に前に進むだけのリニアな思考に覆われているから、元には戻れないと思ってるけど、そんなことは全然ない。
資源の限界にぶち当たっている以上、引き返せばいいだけのことなんだから。
そろそろやりはじめないと手遅れになる。
中沢 だから坂本さんも言ったように、ぼくらの世界を感覚的、身体的なところでつくりかえていくやり方として、死の問題をいろんなかたちで世界のなかに取り入れていくことが戦略上、重要なんですよね。
生きている人間の世界は、 「ある」か「ない」かっていうバイナリ思考に陥りがち。
でも「ある」でもなく「ない」でもない、もっと根源的な「生命力に満ちた死」 があるわけで、それを組み込むと 3の世界になっていく。
世界はバイナリではなくトリニティの構造に変わっていく。
中沢 さっき、神宮寺の巨木(樹齢約400年のスダジイ)の下で、坂本さんが「木がゆっくり言葉をしゃべってる」って言ってたでしょう。
坂本 うん、そう感じた。
中沢 映画『ロード・オブ・ザ・リング』で、老木がゆっくりしゃべってたけど、自然と人間とのあいだに贈与の関係が成り立っているときには、それを感知できるんですよね。
自然は仲間だし兄弟だし、お互いのあいだに交流がある。
だけど、近代科学は、それを分離してしまった。
そのとき自然はしゃべらなくなる。
坂本 人間に自然の声が聞こえなくなってしまう。
中沢 そうしたときに権力が発生してくるし、近代的な技術形態が発達しはじめる。その技術形態を集約したようなかたちで核技術が登場するわけですね。
でもホモ・サピエンスになったときから、国家をつくり、貨幣をつくり、核をつくる未来への道が開かれているんです。
ハイデッガーが言ったように技術というのは、そもそも自然の内部からエネルギーを取り出すこと。
核技術に至っては、その代償がものすごく大きい。
福井県は、原発の密度が高くて。
坂本 15基ありますね。とくにあの美浜原発は、ぼくには衝撃的だったな。
負のパワーっていうのか、ビジュアル的にもそういうものを感じさせるデザインでした。
中沢 海岸部につくるのは技術的な理由があるんでしょうけど、人類の歴史を考えると、すごく象徴的ですね。
坂本 産小屋を見に行きましたけど、昔の人は海に向かって子どもを産んで、海からエネルギーを授かってたんだね。
中沢 海沿いというのは聖域で、 宗教センターがつくられやすい。
「あいの神の森」も、縄文時代、 水位が高かったときには海岸ですね。
海に突き出した先端に、死者を送る場所も、産小屋みたいに生命を享ける場所もつくるわけで、超越的な領域についての思考はいつも先端部でおこなわれる。
坂本 「ミサキ」ですね。海の「ミ」 と、境界性を意味する「サッ+カ行」でミサキ=岬。
中沢 核技術も科学の先端であって、だから産小屋と原発が並んでる光景は、それらが人間の思考方法のなかで確かにつながっていることを示してるんだけど、意味としては逆なんですよ。
坂本 原発には、本来の意味でのサクリファイスがない。
自然からエネルギーを強奪して消費するだけで、人間からは贈与しないんだから。非対称なんですね。
中沢 それをどうやって軌道修正できるかってことだね。
古代の宗教、これも一種のテクノロジーですけど、そこには死や解体ということをとおして、新しい生命が人間の世界にもたらされるという考え方がある。
そのことをはっきりと認識するためには、ふたつのものをつなぐ第3項があるんですね。
死者の魂が海の彼方に行って、またそこから子どもがやってくるとか、死んで生命が発生するとか、 生命が死を孕むとか。贈与の考え方のベースには3がある。
ふたりの人間が言葉を交わす場合にも、 目に見えない第3の存在がいる。
それをとおして話すから、お互いの魂が交流する場所が生まれる。
坂本 だから生死を含んだエネルギーの袋みたいなものがいつも考えられていたんですね、生命のカオスみたいなものがね。
中沢 フェリックス・ガタリの「カオスモーズ」というのも、そういうものでしょう。
オーストラリアのアボリジニでいうと「ドリームタイム」。
坂本 そういう概念というか、装置がなくなってるよね、現代は。
中沢 ドリームタイムというのは、虹の蛇になったり、ドラゴンになったりして出てくるんですけど、 科学はこれを見えなくして自然と人間のつながりを絶ちますから、 そうすると二項対立になっちゃうんですよね。
原発はこの対立の思考を、極限まで高めていったもの。
人間の思考能力の先端部で起こっていることは同じなのに、ふたつがまったくちがう結果を生み出している。
坂本 まちがった使い方をしてるんだよね。
中沢 それはまちがってるんだってことを言うために、ぼくらはいろんなことを考えないといけないところにきている。
坂本さんと一緒に縄文の聖地を歩きながらそのことを考えていると、原発のようなものを根源的に乗り越えていく思想をつくっていくことが可能なんじゃないかという気がするんですよ。
坂本 たんに「放射能が害悪だから反対」っていうレベルじゃなくて、もっと根源的な理由があるわけですね。
人類の危機だからこそ方向転換しないといけない。気づいてみれば意外と単純なことなんじゃないかという気もする。
アイヌの熊送りを見ればわかるように、 「いただいたら、お返しする」っていうこと。これを人間は忘れてしまってる。
中沢 「もったいない」の一歩先にあるものですね。
坂本 「もったいない」というのは、まだ自分中心なのかもしれないね。
やっぱり自然からいただいたんだから、こちらからも自然にお返しするのが基本でしょう。
原発なんてつくってしまって、大変な負を自然に与えてしまっているんだから、ものすごくお返しをしないとバランスがとれないじゃないですか。
これからどうお返ししていくのか。
中沢 美浜原発のすぐそばの浜辺では、みんな楽しそうに海水浴してましたけど、あれを見て、異様な光景だと思う半面、一神教の神様の前でみんなが幸せそうにお祭りしているのと、よく似た印象を受けたんです。
核技術を生み出した近代科学と、一神教の神様のあり方とは、よく似てます。
坂本 一神教は矛盾、あるいは中間項を許さないから、それをつきつめれば核までいってしまうのかも。
坂本 時代的にも、ぼくらの年齢的にもそうで、もうおちゃらけを言ってる暇がないんですよ。
中沢 前回、福井で見たように、 縄文の遺跡を訪ねて歩いていても、 目前に原発がわっとそびえ立っている。
それにたいして自分たちは何ができるのか、というところにきてますから。
坂本 いままでの「つけ」ですよ。
20世紀に楽しみすぎちゃって、大量のゴミが残っちゃったんだから掃除しないと。
中沢 大量のゴミの掃除方法を探してるんですよね。
そこでもうひとつの熊楠の先見性は、粘菌や菌類に目をつけたことです。
いまは若い子だってキノコが浄化作用、 分解作用をもってることを知っています。
これからの文化は、構築していくことよりも、自然が分解できないものを人間がつくってしまって、それをどうやって解体して自然に戻していくかということが重要な主題になってきています。
80年代の脱構築は、文学や哲学の領域だったけど、背後にはもっと大きな時代の要請があったんですよね。
その象徴が菌類です。かたちをもってできあがったものを分解する力をもっている。菌類に学ぶべきことは多い。
坂本 生物界と無生物界をつなぐものたちだから、そこがいちばん本質なんですよね。そこでぐるぐる輪廻がおこなわれているわけだから。
それでぼくは死んだら菌類に分解されて、次の生命の糧になりたいから、火葬に反対なんです。 土葬にしてほしい。
中沢 粘菌はつないでいるんですよね、生物界と無生物界、植物と動物を。
熊楠流に言うと 「半男女(ふたなり)」となる。
男と女をつなぐものとして、ふたなりを思いつくのが熊楠のいいところで(笑)。
坂本 ぼくは生物学者のリン・ マーギュリスの研究にかなり触発されて、オペラ『LIFE』(1999 年)をつくるときもずいぶん参考にしました。
菌類の生殖、セックスは、われわれの想像をはるかに超えている。
食べて取り込んじゃったり、35億年くらいのあいだにすごい実験を続けてるんですよね。
中沢 それにくらべたら、人間は保守的ですね(笑)。
きのうも坂本さんと非線形(ノンリニア)の音楽についてちょっと話したけど、非線形の音楽って、境界のザラザラしたものですよね。
音楽は功罪あいなかばするところがあって、音楽の与えてくれるすばらしいものについてはたくさん語られてきたけれども、罪の部分についてはあまり語られない。
それはすぐに平均律みたいなものを目指しちゃうところですね。
坂本 数理的に扱おうとする。
考え方が数学に近くなってくる。
すべてを統一原理でコントロールしようという志向が働くんですよ。
中沢 均一化した空間をつくっちゃう。しかも扱っているのは抽象的な音だから、音楽をやり続けていると現実の世界との対応関係をなくしていく。
坂本 20世紀に入り、どんどんその方向が加速していきましたね。
50年代にトータル・セリエリズムへ行って、ブーレーズとかシュトックハウゼンとかが極限まで統一化を図った。
そこにいきなりキノコ研究家でもあったジョン・ケージが、アメリカからヨーロッパへ蹴りを入れたんですよね。
ジョン・ケージが言う「偶然性の音楽」は、日本庭園の鹿威ししおどしみたいなもので、偶然性というものを取り込もうとする。複雑系とか、 いまなら非線形と言ってもいいんだけど。
ぼくのなかにも両方の水脈が入っていて、ルネサンスから連綿と続いてきた統一化の思考法も入っているし、ジョン・ケージのことも師だと思っている。
それは中沢さんも同じでしょう。
中沢 同じです。純化した数学みたいなものに惹かれる面と、情緒によって引っくり返そうとするふたつの原理の闘い。
坂本 カオスに戻したいっていう。
中沢 熊楠は「日本人の情緒の基層」という言い方をしていて、ことばの表面だけ見ると、右翼が好みそうな発想のように見えるけど、 ちがうと思うんです。
最近ぼくは、 「情緒」というのはすごく重要な概念だと思いはじめています。
ひとつには、数学者の岡潔に「情緒は創造の源泉だ」という考え方があって、これはぼくなりの言い方をすると、脳のなかの対称性無意識が、感情と合体しながら超論理で働くということ。
坂本 直感ですね。
坂本 この旅をとおして疑問がふくらんできたんですが、「縄文時代」という言い方、あるいは「縄文人」という言い方は、まちがってるんじゃないか。
「縄文」と「弥生」、きっぱり分かれるところもあるんだろうけど、この南九州なんかはむしろ連続性のほうが強い。
日本列島を縄文、弥生という時間で、あるいは様式で、スパッと切れるのか。
中沢 「縄文」という言葉を考古学のなかで使い出した学者たちは、 関東を中心に考えていたのかもしれません。
坂本 「弥生」のネーミングのもとになった遺跡も東京だしね。
中沢 関東では、縄文土器と弥生土器のちがいが歴然としているということですよね。
坂本 小さい列島だけど、いろんな部族がいたはずだから、言葉もちがうし思考様式もちがう。
これまでは、日本は単一民族だというまちがった考え方があったんだけど、じっさいにはそうじゃない。
この南九州のようなところから見ると、はっきりわかります。
中沢 坂本さんが言うように、縄文という言い方をすると、部族的なちがいが見えなくなるし、大陸や南方からの影響にたいしてオープンな状態で文化を形成していった面が見えにくくなる。
坂本 縄文という言葉はいつ頃から使われるようになったんですか?
中沢 明治時代ですね。
坂本 明治の国家建設や民俗学も、 統一された日本という幻想とともにはじまってるわけでしょう。
「縄文」にも、そういう単一民族幻想が反映されている。
中沢 関東でたくさん縄目の文様の土器が見つかったときに、それを「新石器」というユニバーサルな概念にしたくない心情が働いたんだと思うんですね。
それは、日本の新石器文化の独自性にたいする愛着もあるし、たぶんやっぱり愛国的なものも働いていたんでしょうね。
坂本 そういう気がします。
だから「縄文」と言ってしまうと、何かが見えなくなってしまう。
フィルターがかかるというか、ぼくらがもっている多様性、DNA、 文化がひじょうに複合的であるということが、一挙に見失われる。
その疑いがこの旅をとおしてだんだん大きくなってきましたね。
この本がきっかけとなり
最近はずっと
坂本龍一さんの「音」を聴いていて、
この感じ好きだなぁ
と思った曲のタイトルが
どちらも偶然「水」繋がりなの、
面白いよね。











