女医は「どうぞおかけください」と言った。
二人が見えやすい位置に
レントゲン写真を掲げてくれた。
女医は病状を端的に言った。
正三郎の胸の写真を指差す。
「ここですね。白く膨らんでいます」
依子の鼓動が早くなった。
「これ肺ですね」
「はい」
べつに洒落ではない。
「これ」
女医の指の辺りに、
依子と小島さんは、目を釘付けた。
「胃ですね」
「……えぇ」
とりあえず問題あることを言ってほしい。
「これは腸ですね」
ちょっとイライラしてきた。
女医は人差し指で滑らかな丸を描いた。
「これ、うんこです」
「はぁ?」
「別名うんちとも言います」
「うん…ち…」
言い直す必要がある?
ふぅ…と女医は小さく息を吐いた。
「便秘ですね」
「えぇ?」
「浣腸しておきます」
ではお大事に、とそっけなく言った。
看護師さんが
「では待合でお待ちください」
誘導を指し示した手を、
依子はがしっと掴んだ。
「ちょっと待った」
はい?と女医が間抜けな返事を返した。
笑いたいのか怒りたいのか、
この中途半端な気持ち悪さを
どう表現して良いかわからない。
「あれだけ検査してうんこ詰まってますって…
それだけじゃないでしょうよ」
というと?
女医は本気で不思議がっている。
「ええっと…」
小島さんが場をしのぐように
口を挟んでくれた。
「奥様は御主人の体調を
心配されていまして……ね」
はぁ…と気のない返事をした女医は、
もう一度レントゲン写真に目を通した。
「そうですね…
余命五年と言ったところでしょうか」
「……五ねん…」
深く首をうな垂れた依子の隣で、
小島さんはバシバシと
依子の肩を叩いて言った。
「よかったじゃないですか。
百歳まで安泰ってことですよ…」
空気の読めない小島さんは、
夢の世界へ突入し、万歳三唱まで始めた。
「正三郎さん百年健在ですよ。
おめでとう。ばんざ―い!ばんざーい!…」
なぜか女医まで一緒に手を挙げている。
百…百……五年、五年、五年………
ゆっくりとその言葉が反芻され、
少しずつ現実が染みわたり、
ここに座っている老婆のすべての
気力を奪っていったように…見えたその時。
「うるさいわ ―――――――っ!」
ようやく沸点を超えた依子は、
腰痛もどこへやら、椅子を蹴飛ばしていた。
パチクリと目を見開いた女医と
小島さんが口を開けたまま固まった。
「よかないわぁ!良くなんかない!
ちっともない!ないないないないな―いっ!」
さすがに息が切れ、
クラっと酸欠状態の頭を支えた。
「だ、大丈夫ですか?」
女医が依子の脈をとろうとしたが
思い切り振り払った。
「余命五年?あなたふざけてるでしょ。
絶対ふざけてるよね。百年生きて万歳三唱?
老体に鞭打って生きている私たちは
お国の化石として大人しく黙って生きてろって
いうの!」
なんだなんだとそこいらじゅうの
野次馬が次々にやってきた。
「いろんな医療技術が施されてさぁ、
無駄に長生きさせられてさ。
心臓動いてれば生きてるっていうのかい。
息をしてればそれでいいのか。
あんたたちだけだろ?それで万歳なのはさぁ」
依子は、座り込んで床に頭をつけて
土下座の体制に入った。
「お願いだから死なせてよぅ。
思い残すことは何もありませんから。
これ以上生き恥さらすのは嫌なんです。
少しばかり老人の誇りを守らせてよぅ。
これ以上、国や子供たちの厄介な
お荷物にはなりたくはないのよ―」
うわあぁぁぁぁあと顔をうずめて
子供のように泣き伏せた。
なぜか周囲の野次馬から
拍手やら喝采やらが湧きあがった。
病院のロビーに連れられた依子は
すとんと長椅子に腰をおろした。
小島さんはいつもの優しい笑顔で
大人しくしていてくださいね。
と子供をさとすように言って
お会計を支払いに行ってくれた。
なんだか、
憑き物が落ちたように
気持ちが軽くなっていた。
女医は、
鎮静剤を打ちましょうかと言ったけれど
小島さんが大丈夫ですからと
優しく私の肩を撫でながら断ってくれた。
何だかそんなことで
また涙がほろほろと出てきた。
私はいったい何が言いたかったのだろう。
はぁ、イタイイタイ。
すっかり忘れていた腰痛が再び痛み出した。
しまった。痛み止めをもらうのを忘れたじゃないの。
ふと見ると、
自動血圧測定器が長椅子の端にあった。
ここまで暴れたなら
血圧も再上昇の値を示していることだろう。
「よっこらしょ」と自分の身体を移動させ、
筒穴の中に手を入れてボタンを押した。
ブーっと音が鳴ると同時に依子は
シュッと腕を抜いた。
思わず手にとられたそれは、
「来春オープン!新入居者募集!
病院併設の老人ホーム開設致します!」
と書かれたパンフレットだった。
何も挟まれていない血圧器は、
無言でマンシェットの圧縮を行い
測定エラーを示していた。
依子はそそくさと同じパンフレットを
3枚抜きとり、
鞄におさめてスッと席を立った。
そして軽快な足取りで病院を出て行く。
待って~待って~!と
小島さんが追いかけてきた。
今日も冬の匂いがする。
もうすぐ私の大好きな冬がやってくる。
はたして今年は
我が家の庭の冬化粧を見られるだろうか。
そんなことはどうでもいいや。
私が生きていても、死んでいたとしても。
冬はやって来るのだから。
完