江川卓 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。

▼写真は、高校野球球児のイメージ画像です(江川さんとは関係ありません)



 

1. 天竜川で石投げ遊び


鉱山技師の父と、福島から静岡へ引っ越し。
長嶋茂雄さんに憧れ、三塁手になりたかった。
小学生の頃、江川の家は山の中で、生徒の多い学校へ越境してバスで通っていました。
川幅100メートルの天竜川に石を投げるのが日課。
上投げで平たい石を風に乗せて飛ばしていました。
後々、風に乗せる投げ方が、ボールの回転の良さになっていったようです。
ソフトボール投げで上級生超えをしましたが、学校側の忖度で幅跳びに転向。
現役時代は身長183センチ。
子供の頃は足も速かったのです。


 

2. 栃木の中学に転校・いきなりノーヒットノーラン


中学2年から3年生になる直前に、静岡の佐久間中から、栃木の小山中に転校。
本人は静岡に残りたかったのですが、お父さんが反対。
江川家では、お父さんが絶対でした。
栃木の小山中にはエースがいましてが、両方投げてみろと言われて、江川さんがエースになりました。
栃木県の大会で優勝しました。
江川さんはピッチャーよりも、本音はずっとサード志望。
中学生の時に、上毛新聞に載りました。
見出しに「超高校級」と、紹介されました。


 

3.「早慶戦」に憧れて・作新学院「進学クラス」へ

中学の時に早慶戦を見て「応援合戦」「雰囲気」がいいなと感じました。
早稲田大か、慶応大、どちらかに入りたいと思うようになりました。
静岡に中学2年までいたので、まわりの(高校の)状況がわかりませんでした。
選んだのが、父の兄の養子に入って、浦和高校か大宮高校に進学しようと考えました。
願書を出したものの、埼玉県から「ダメだ」、県を越えて受験しないようにと。
それで、小山高校に出そうと思ったら、その時小山高校は商業科と農業科しかありませんでした。
江川さんが受験終わった次の年から、普通科が出来たようです。
作新学院には「進学クラス」があり、ここに決めました。
毎月試験があり、上位30人が2年生から進学クラスに入る
900人中30人だけが入れました。
作新学院の進学クラスは7時間授業だったので、1時間練習に遅れていたのです。
70〜80年の歴史の中で1人もいなかったようです。

 

4. 1年生で栃木初の「完全試合」 “怪物・江川” ついに誕生 


作新学院1年(1971年)夏・栃木大会
準々決勝 対烏山高校、完全試合。
準決勝では、宇都宮商業に敗れました。
栃木県初の完全試合で、1年生だったので、東京からも取材が来るようになりました。
最初の頃のインタビューの記事を読んだら、まるっきりウソを書かれていました。
できた文章に当てはめていくみたいな記事で、その頃からマスコミに対して冷たく当たっていこうと、決めたのです。
その時に“怪物” とつけられました。
自分としては、ミッキーマウスのつもりだったので、「そりゃねえだろ」と思いました。

 

5. 「球が浮くのが見えた」 ノーヒットでセンバツ出場目前に・・・

作新学院1年・秋季関東大会
1回戦 対 前橋工業 1-2
4回までノーヒットノーランをしていましたが、5回頭部に死球を受けて退場。
その後逆転されて敗戦。
1回のスリーアウト目から連続10三振をとっていました。
投げたボールが浮いていくのが、見えたのです。
この試合はノーヒットノーランか完全試合になると感じていました。
搬送された病院で医者が「脳からの出血だったら助かりません。耳からの出血ならば、大丈夫です」と言うのが聞こえました。
耳からだったので、大事に至らなくて済みました。
しかし、父親から、何で這ってでも一塁に行かなかったんだ、と怒鳴られ、3日で退院させられました。


 

6. 「打たれない」と確信 人生で3回 最高の投球

高校で球が浮き上がって見えたのは、あとは大学で1回、プロで1回あります。
プロでは、20勝した後にブルペンで「手から離した瞬間ミットにすいこまれた」
その日調子に乗って投げていたら、脇腹を痛めました。
1981年20勝6敗で2年連続最多勝。
監督に言うと怒られるから、ずっと内緒にしていました。

一塁へのけん制球を山成りばっかり投げていて、当時一塁手の中畑から、ちゃんと投げろって言われて、160キロの剛速球を投げました。
中畑さんがうわーって言ってよけたため、一塁ランナーが三塁まで進塁。
ホームに生還させずに残塁にして、ベンチに戻ったものの、藤田監督が真っ赤な顔で「けん制球もとれないのか」と叱っていました。
僕は取れないよね、あの球はと思いました。

一般的なストレートは、縫い目のカーブが中指の右に来るように握るのですが、江川さんは逆で、中指が少しはみ出して、縫い目が左に来ています。
他の人の握りを見た時はびっくりしたようです。


 

7. 「ノーヒットで甲子園」寸前も “縦スクイズ” で敗退

2年生の夏・栃木大会
準決勝で小山高校に延長11回、0-1で敗れますが、それまでの全試合ヒットを許していませんでした。
10回2アウトまでノーヒットノーランでした。
両チーム無得点で延長戦。
1点でも取っていたら、1本もヒットを打たれずに甲子園・・・。
でもそんなに甘くなかった。
10回にヒットを打たれ、11回に2安打と送りバントで一死二塁三塁にされ、スクイズでサヨナラ負け。
監督はキャッチャーに「外せ」のサインを出したのですが、キャッチャーが勘違いして、カーブのサインを出したのです。
カープが縦にすごく曲がったのです。
あまりに曲がったので、打者が縦にバントをし、それがサード側にうまく転がりました。
それでサヨナラ負け。
高校の時の方が、カーブはよく曲がったのです。


 

8. 篠塚和典もおどろいた関東にとどろく “怪物・江川”

2年・秋季関東大会 栃木県予選
7試合で無失点・全勝でセンバツ出場が決まりました。
横浜高校の渡辺監督(当時)が「こんな高校生は今後現れない」
当時の江川さんを、中学生だった篠塚和典さん(銚子商)が見ていました。
24奪三振。
篠塚さんが1年生の春の関東大会で江川さんと対戦して、ヒット1本打ったのです。
1年生にヒット打たれのが唯一だったようです。


 

9. “怪物・江川” 甲子園に登場 4試合で「60奪三振」


3年・春のセンバツ3試合は無失点。
準決勝で広島商に1-2で敗れました。
一大会60奪三振は、現在でもセンバツ記録。
江川さん以外50奪三振以上した投手は、決勝まで投球していました。
5回裏、広島商の同点打は、達川さんの四球から佃選手のライト前ヒットでした。
5回裏の1失点は、2年秋の新チーム結成以来140イニング目の初失点でした。
あの試合は、雨のため翌日に順延されていました。
試合前日、江川さんは宿舎のソファで寝ていて、その時に寝違えたようです。
報道陣が宿舎にまで入って来てしまい、食堂に180センチのソファがあったので隠れていました。
疲れていたので、寝てしまいました。
首を傾けないと、ソファに入れません。
首が動かなくなって、試合当日全然ファーストを見られなかったのです。
迫田穆成(よしあき)監督は、監督として広島商で春夏通算6回出場し1973年夏は優勝に導きました。
江川対策としては、あまり打って来なかったのです。
首の寝違えで、8四死球も出してしまいました。
8回、広島商はランナー一二塁からダブルスチールを敢行。
捕手から3塁への送球がそれ本塁生還し決勝点になりました。
二死からの迫田監督の考えた奇襲でした。
キャッチャーに二死だから「投げるな」と言ったのですが、甲子園の歓声でキャッチャーに聞こえなかったのです。
こう言う細かい野球をするチームがあるんだなと言う、印象だったのです。


 

10. 1973年 センバツ甲子園で“怪物江川”がベールを脱ぎました

奪三振60でセンバツ記録。
毎週「招待試合」の過酷スケジュール。
松山商業の西本聖さん、掛布雅之さんと対戦。
打者がバットに当てただけで、スタンドからどよめきが起きったようです。
ブルペンでは、どこで誰が見ているかわからない、球筋がわかっちゃうから8割の力で投げていたようです。
正捕手・小倉偉民(現亀岡姓。衆議院議員)が故障で休み、控え捕手がマスクをかぶりました。
江川の球に慣れていない控え捕手は、高めに伸びてくる球を捕球できず、ボールは球審のマスクを直撃。球審はむち打ちになり退場。


 

11. 最後の夏・県予選は無失点 ノーヒットノーラン3回


1973年作新学院・夏 栃木県大会
5試合で被安打2、奪三振75、無失点で甲子園に出場。
「甲子園に出るために0点で行かなきゃ」という意識の方が強かったので、「ノーヒットノーランやったぜ」と言う気持ちは無かったそうです。
ガッツポーズは無かったです。
初めてやったのが、プロで20勝した時、あと日本一になった時の2回だけ。
お昼もマスコミの人がわっと来たので、チームメイトが離れて、1人で食べるようになってしまいました。
それが嫌だったようです。


 

12. 甲子園 雨の銚子商戦 「最高のボール」サヨナラ負け


1回戦 対 柳川商
延長15回サヨナラ勝ち
江川完投・被安打7・奪三振23・自責点1

2回戦の相手は銚子商
それまで練習試合を含めて4戦全勝でした。
しかし、0対0で迎えた延長12回裏、雨で制球が乱れ一死満塁になりました。
フルカウントになった場面で、江川はマウンドに内野陣を集めました。
「自分が思ったボールを投げたいんだ」と言ったら、「お前がいたから春も夏も甲子園に来られたんだから、好きに終わっていいよ」
その時にナインがひとつになれたことを感じたようです。
江川は「3年間で一番速いボールを投げよう」と思い、「ストライクを取ろう」という気持ちは無かったようです。
ボールになって、押し出しで敗れましたが、江川自身はさわやかな気持ちになったようです。


 

13. 「憧れの六大学」へ 早稲田のつもりが慶応に・・・?


作新学院時代は「2回の完全試合」を含む、ノーヒットノーラン12回を記録。
プロ野球のチームとしても、ドラフトで狙いがありましたが、本人は大学への思いが強かったようです。
もう早慶戦です。
春と夏に甲子園に出れたので、次の目標は「早慶で野球をしたい」と。
どちらかに行きたかったという思いがありました。
(作新学院の)先輩の八木沢荘六さんが早稲田大に入りました。
早稲田の推薦が決まっていました。
なぜか急に父親が「お前は受験勉強をしたことがない。ちょっとここで受験勉強してみろ。受験勉強を今からするためには、早稲田じゃなくて、慶応にする」と言い出しました。
全然意味がわからなかったそうです。
徳光さん「文武両道で育てたいという親の気持ちがあったのではないでしょうか」
「進学するのでドラフトされても絶対行きません」と宣言してあったのに、阪急からドラフト1位指名がありました。
徳光さん「巨人が1位指名しても、進学でした?」
やはり進学だったそうです。
地理を受ける予定で、日本史の時間も世界史の時間もずっと地理をやっていました。
慶応を受けることになって受験科目見たら、地理が無かったそうです。
日本史か世界史しかなかったという、絶望的な話でした。
それで(受験勉強の)合宿に行くことになって、代々木ゼミナールで日本史の勉強をやりました。
騒ぎになるので、他の生徒が帰ってから。
数学と英語は、愛知県の豊橋に行って、慶応を受験したい人たちと合宿をしていました。
それをある新聞がスクープしました。
「慶応の問題を教えているんじゃないか」という書き方をし、それで大騒ぎになって、慶応入学はダメになりました。
早稲田はお断りしちゃったので、受けられないわけですよ。
東京六大学はもう残っている試験がなくて、残っていたのは法政と青山学院の二部の試験。
早慶戦できなくても、六大学でやりたいと思って、法政大学の二部を受験して入れば、(一部への)転部試験というのがあるので、それに賭けるしかない。
そうしたら法政の方から「推薦で」って、言われました。
それを父親が断ったんです。
法政大学の二部の試験を受けたら、ほとんどトップの成績で受かったらしいです。
地理があったから、勉強した問題が全部出たようです。
法政大学の二部に入って、一部への転部試験も受けて、受かりました。

 

14. 東大生に打たれた人生で初めてのホームラン


1974年 東京六大学野球 春季リーグ・1年生
受験でほとんど運動していなくて、14キロ太ってしまったそうです。
春は、ほとんど投げられる状態ではなかったのです。
走り込みだけで12キロ。
東大との試合でリリーフで2イニングだけ登板しました。
実質的に投げたのは秋から。
1974年 東京六大学野球 秋季リーグ
対 東大 1回戦 2対3で敗れ「大学初黒星」調子が上がってなかったようです。
3番・キャッチャー渋沢稔(3年)に、「人生初」のホームランを打たれました。
高校時代ホームランを打たれたことは、練習試合ではありますが、公式戦では1本もなかったです。
東大は配球の研究までしていたそうです。

江川さんは14キロ太って、投げ方もわからなくなっていました。
藤田省三さん(1987年没 78歳・旧制日大三中・法政大で監督を務め、関根潤三・根本陸夫を指導。1950年に近鉄パールス・のちバファローズの初代監督に就任)が大恩人です。
元々キャッチャーの方で、バッティングとピッチングの本を出そうとしていたそうです。
「おまえにピッチングの基本を教えるから、アレンジして将来本を書いてもいい」と言って、崩れた「投球フォーム」を修正してくれました。
元のフォームに戻って、六大学である程度出来るようになったのです。
それを今、自分でアレンジして解説をさせていただいているのです。

 

15. 六大学で打棒も炸裂? あと一歩で「三冠王」

1974年 東京六大学野球 秋季リーグ
法政大学が優勝
1年生の江川は6勝1敗 防御率1.14
史上最年少(当時)のベストナインに。
この年、法政大にライバルの広島商から金光・佃ら、逸材が集結していました。

1975年(江川2年生)東京六大学野球 春季・秋季リーグ
島岡吉郎監督率いる明治大が優勝
法政大はいずれも2位。
明治大は「打倒・江川」に燃えていました。
それまで「打倒・早稲田」と書いていたのを、「打倒・江川」と書いていました(1学年下の鹿取
義隆氏の話)
2年生の時に右肩を剥離骨折していたのです。
オゾン注射というのを打ちながら、投げていたそうです。
3年生の時に完治したようです。

大学野球の「勝ち点方式」
同一カードで2勝したチームに勝ち点がつくルールで順位を決定。
1勝1敗または引き分け試合がある場合は3戦目以降が行われる

1試合目を投げて、2試合目はリリーフしました。
1試合目を全力で投げてはダメだったようです。
(走者が)二、三塁に行くまではコントロールだけで投げて、力を入れてませんでした。
1976年(3年生)春季・秋季リーグ優勝、1977年   優勝。
4連覇しました。
神宮では打者の心理を突く冷静な投球を見せました。

1976年秋季リーグ
江川さんは打撃でも活躍。
2本塁打(リーグ1位)10打点(リーグ1位)打率.342(リーグ2位)
三冠王を取っていれば、大谷さんにもう少しモノを言えたのに(笑)。
うれしかった優勝は4回目。
4年はお酒飲んでいい年齢。
優勝杯に全員がビールを入れて飲んだようです。
江川さんはみんなと出かけられないので「お酒を飲めない」ことにしていました。
最後に注いだやつを一気に全部飲んだんです。
それを見たみんながビックリして「おまえ酒飲めるの?」

東京六大学野球リーグの通算最多勝利記録は山中正竹(法政)の48勝。
江川さんは4年秋の最後の試合を前に47勝を挙げていました。
1戦目は勝って47勝。
2戦目は同級生の鎗田英男という投手が先発に決まっていて、当時の五明公男監督に呼ばれ「明日先発するか? 勝つと記録に並ぶけど」と聞かれましたが「鎗田が先発に決まっているから、そのままでお願いします」
そして、鎗田投手が投げて優勝しました。

 

 

16. ドラフト会議 クラウンからの指名


1967〜77年のプロ野球ドラフト会議
全球団で予備抽選を行い指名順を決定。
奇数順位は予備抽選 1から12番
偶数順位は予備抽選 12から1番
予備抽選の1番がクラウン(現西武)、2番が巨人でした。
クラウンは、九州の門田富昭を指名すると公言していました。
門田は西南学院大から、大洋にドラフト1位で指名されて入団。
学生結婚して一児の父親だったため「子連れルーキー」と話題になりました。
江川を指名したクラウンライターの監督は、“球界の寝技師” 根本陸夫氏。
法政大の先輩で、本当に野球の改革とかの中心にいた方でした。
徳光さん「野球界を俯瞰して見る方だったので、江川を迎えてパリーグを盛り上げたいと思っていたのでしょう」
クラウンライターライオンズの本拠地は福岡。
父が6人きょうだい
母が10人きょうだい。
親戚の中で自営業をされていた方が多く、商売の事情で巨人に入ってほしいという意向が強かったのです。
在京球団じゃないとダメ。
ヤクルト・大洋・巨人が許せる範囲でした。
1977年 ドラフト1位選手は、クラウン・江川卓、巨人・山倉和博。
在京球団・ヤクルトから指名されたら、多分行っていたようです。


 

17. アメリカで「野球浪人」 ドジャースから勧誘も・・・


アメリカで1年間の野球浪人となったわけです。
選択肢は3つ。
社会人野球。これは東芝さんが受けてくれるということでした。
当時は社会人野球に進むと、2年間ドラフト会議で指名されなかったので、遅くなることが懸念されました。
2つ目はハワイに行くこと。
打者にとってはいいけど、投手って、捕手がいないとダメなので、これも難しいなと。
日米野球で、アメリカの監督を務めていたラウル・デトーさんが「USC(南カリフォルニア大学)の練習生なら受け入れる」と言ってくれて、そこを選びました。
取材が全然ないから、生活はしやすかったようです。
練習生ですから、打撃投手だけでした。
アラスカにサマーリーグが7・8・9月の3ヶ月間ありました。

サマーリーグ:アメリカ各地に点在する大学野球オフシーズンの実戦リーグ。
有望選手発掘のため、メジャー各球団のスカウトも注目していました

そこでメジャーの卵の人を相手に何試合か投げられたのです。
その時に、ドジャースから誘いがありました。
「日本で野球をやりたいです」と言って断りました。

18. 球界大激震「空白の一日」 「これもめないんですか?」

1978年のドラフト会議の時は、本来ならロサンゼルスにいる予定でした。
「ほり川」という時々お邪魔していた日本料理店がありました。 
そこがドラフト会議の日に、記者会見の場を提供してくださるという話をいただきました。
夜中に父親から電話があり「日本に帰ってこい。巨人に入るかもしれないから」
ドラフト会議の前日に巨人と電撃契約ということになるわけです。
(巨人に)入る、と聞いたのは日本に帰ってからです。
本人には一切知らされていなかったわけです。 
船田中(当時は自民党副総裁)が登場してくるわけですけど。
その秘書が蓮実進さん。

大学は卒業しているので、「作新学院職員」としてアメリカでの身分でした。
船田先生(理事長)にお願いして、「職員」にしていただいて、アメリカに行っていました。
当時「政治家を入れた」とばかり言われてましたが、そうじゃないんですよ。
作新学院の理事長として、江川の後見人を務めていたため、先生に報告をしていたのでした。
蓮実進氏が、船田中氏の秘書を務め「空白の一日」を主導し、後に衆議院議員に上り詰めました。

当時の野球協約で、前年に西武(クラウンから譲渡)が得た独占交渉権は、ドラフト会議の「前々日」が「期限」でした。
条文が変えられたのを見せられて、それまで「浪人」というのがいなかったのです。
それまでの条文は「中学・高校・大学に在学し」と書いてあったんです。
条文が変わって「中学・高校・大学に在学した経験を持ち」となりました。
「江川さんのために、浪人を入れた」と言われ「1日おいて、次の日(ドラフト当日)から発効するので、この1日(ドラフト前日)だけは何も拘束されない」という説明がありました。
あと1時間くらいしか時間がないですから「(記者会見)セッティングしてある」と言われました。
「これもめないんですか?」
「全部もめません」と返されました。
「条文が正しいんだから、それに従ってやればいいことなんで」と言われ
「オヤジ大丈夫なの?」と聞いたら、「読んだ通りだ」と言うから「わかりました」とハンコを押しました。
1978年11月21日、ドラフト会議の前日に江川は巨人とドラフト外で電撃契約しました。
それで大騒動。
「ずるいぞ」「ひきょう者」
記者会見場で、カメラがセッティングされている時に、江川さんの「興奮しないでやりましょう」だけが放送に乗りました。
もう、世間の印象は小生意気ですよね。

巨人と江川の契約は、プロ野球実行委員会が却下。
巨人は翌日のドラフト会議をボイコットして、阪神が江川を1位指名しました。
阪神によるドラフト1位指名から1カ月後、金子鋭コミッショナーが「江川が阪神と契約してその後巨人にトレード」という“強い要望” を提示。
江川さんは「金銭トレードじゃないと僕は出来ません」と言って、話はつきました。

1979年1月31日に宮崎キャンプに向かおうとしていた巨人・小林繁投手は、羽田空港で球団職員から江川とのトレードによる阪神移籍を通告されました。
あれだけは驚きました。
小林さんにすごい迷惑かけましたから。

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番組の2時間分話しましたが、話はこれからプロ野球の話。
この続きは改めて、と言うことになりました。
当時のVTR(予算の都合なのか、NHKに借りることなく)無く、トークだけでしたが、楽しめました。

父親に翻弄された江川さんの学生時代でした。
「空白の一日」の件だって、誰が考えたって、マズいって、わかりきった話。
てっきり巨人愛だと思っていましたが、在京球団ならよかったとのこと。
それならクラウンライターから譲渡された、西武に入っちゃえば、悪役で苦労することはなかったのに。


読売巨人軍球団創設90周年記念展の記事はこちら(2024年7月22日)
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