アナザーストーリーズ | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~
▼AI画像生成による「およげ・たいやきくん」のイメージです
同じアニメ画像じゃなくてホッとしましたが、当時のヒット曲を学習していないようです

発売日は1975年12月25日。
一風変わったシュールな曲が日本中に響きわたりました。
「たいやきが海へにげだし大冒険・・・」
元々は幼児向け番組の曲として作られましたが、レコードが発売されると売れに売れました。
あれよあれよと売り上げを伸ばし、400万枚を超すメガヒットに。
オリコン調べの最終売上は、453.6万枚。
2位以下の名だたる名曲に100万枚の差をつける日本最大のヒットとなりました。
驚異的なセールスを支えたのは、意外にも大人たちでした。
戦後の日本を経済大国へと押し上げたサラリーマン。
作詞家はこの詩に何を込めたのか。
そしてこの曲を歌った子門真人は、ある日を境に表舞台から去ってしまいました。
数々の逸話を残す『およげ・たいやきくん』あの伝説の曲に迫ります。
第1の視点『およげ・たいやきくん』誕生秘話
早稲田にある音楽スタジオで50年前に生まれました。
録音に当てられたのは、わずか2時間ほどでした、
会社の中のヒットの期待値はまったくなし。
歌詞のシュールな内容が、思いも寄らぬ形で時代の流れと重なることとなりました。
全ての始まりは高度成長期が終わりを迎えた1973年。
オイルショックで日本経済が大きな曲がり角に立った頃、今までにないスタイルで子供たちの感性を磨く番組『ひらけポンキッキ』が始まりました。
趣向を凝らした映像で楽しみながら社会を学べる幼児向け番組です。
プロデューサーの野田宏一郎氏(2008年没)は、子供たちにアピールする目玉として番組オリジナルの曲を作ろうと考えました。
その第一弾は人気絶頂の吉田拓郎さんに作曲を依頼し『たべちゃうぞ』が放送されました。
しかし、すぐに放送中止に。
番組の音楽プロデューサー・小島豊美さんは、視聴者の反応にがく然としたと言います。
「子どもを食べちゃうぞ」に反応したクレーマーがいたようです。
自由なムードにひかれ、若い才能が続々と集まりました。
その1人が、学生時代ビートルズのコピーバンドで鳴らした作曲家の佐瀬寿一氏。
「野田さんと初めてお会いした時 “好きなことやれ、その代わり面白いもの作れ”
と肩を押してくれたんです」
同じ頃番組に参加したのが、作詞家の高田ひろお氏。
元々は演歌の大御所・星野哲郎に師事していましたが、番組プロデューサーの野田氏に声をかけられました。
野田さんは「古い童謡はやりたくない。新しい言葉で(子どもたちに)世間を知らせることはとても大事」だと言ってました。
その言葉を受けた高田氏の脳裏には、ふるさと北海道釧路での幼い頃の思い出がよみがえってきました。
銭湯の帰りにたいやきをお腹に入れて寒さをしのぎました。
その思い出が「お腹のあんこが重いけど」ってなりました。
高田さんは頭に浮かんだイメージそのままに筆を走らせていきました。
すると歌詞は思いもよらぬ方向へ。
ほぼ平仮名で書かれた歌詞を漢字に直してみると、その異様な世界観が浮き上がってきます。
擬人化されたたいやきは、鉄板で焼かれる毎日に嫌気がさし、海に逃げたものの針を飲み込み、どんなにもがいても取れない。
そして最後は人間に食べられてしまう。
世間や現実の厳しさを痛感させられる内容です。
どうしてこういうフレーズが出てきたのか。
高田さん「子どもの歌の考えと大人の考えが同じ。書き方は考えますよね。子どもの使う言葉をなるべく排除して、子どもにうそを言わないことが大事。すぐ子どもは見抜きますから」
だが果たしてこんな詞が採用されるのか。
最初にこの詩を読んだ当時23歳の番組スタッフだった一木正徳さん。
「絵になるな」が第一印象。
「目のつけどころがいい。たいやきに人間性を持たせた詞が面白くて、作曲家に “面白いから、やってみませんか”」
作曲の依頼を受けたのは佐瀬さん。
だが歌詞から浮かんでくるのは、哀しげなメロディーばかりでした。
ピアノで弾いてみると、余計に悲しく聞こえます。
佐瀬さん「採用されると思わない、こんな悲しい曲。あれ、暗い歌じゃないですか。詞をよく読んでも、僕の中でメジャー(コード)の発想がない。マイナーにした。マイナーじゃ子どもたちは絶対離れていくと思った」
そこで佐瀬は悲しみの中に潜むおかしさを膨らませようと、ある工夫を凝らしました。
「おなかのあんこ」妙に面白いと思いました。
「どうやって、にぎやかにしよう? 子どもたちが食いつきそうなギミック(仕掛け)を盛り込んでみよう」
頭にドラムロールをつけました。
「あれは、紙芝居の拍子木。子どもたちにどうやったらウケるかしか、考えていなかった」
一方、テレビマンの一木さんもどうすれば子どもたちにウケるか、考えを巡らせました。
この歌をどういう映像にのせて聴かせたら、子どもたちが喜ぶか。
当時はまだCGのない時代。
手作り感あふれる工作と、合成を組み合わせて、キャラクターを動かすアイディア。
「絵を何百枚書いてもらって、針金をL字型にして止めてくるくる、コンビーフかなんかなの缶詰の巻くやつ。みんなが一緒に音楽に合わせてやる、スタジオは楽しんでやってました。子どもたちが楽しんでくれるものを自分たちも楽しんで作ろう」
こうして、1975年10月、フジテレビの番組『ひらけ・ポンキッキーズ』で『およげ・たいやきくん』が放送されます。
果たして子どもたちにウケるのか。
スタッフには疑心暗鬼の者もいたそうです。
だが日を追うごとにリクエストハガキが殺到。
熱烈なリクエストの声はレコード会社に勤める小島豊美氏の耳にも。
「今までの曲とは全然違う反応があったんですよ。世の中がわさわさ、制作の部屋に行くとわさわさ・・・。“小島さん、なんかすごいよ、あれ売れそうだよ”」
小島さんは会社を説得し、1975年12月25日発売。
するとたちまち爆発的なセールスを記録。
年末年始の2週間余りで150万枚突破。
予想外の大ヒットは、やがて意外な広がりを見せました。
子どものための歌なのに、購入する年齢層はかなり高くなり、中年のお客さんの層まで広がっています。
せちがらい歌詞やもの悲しいメロディーが、なぜか大人たちの心をつかんでいきました。
酒場ではこの曲を熱唱するサラリーマンの姿が。
『およげ・たいやきくん』は、会社の歯車として働くサラリーマンのテーマソングだとする解説まで登場。
高田さんが書いた詞には、こんな一節がありました。
「2番の歌詞でサメに会った時に、たいやきくんが逃げると思って書いた」
サラリーマン組織からの解放願望など、様々な解釈を呼んだこの曲。
作詞家が込めたのは、もっと奥深いテーマでした。
「お釈迦様の一生を書こうと、それがたいやきに結びついた。祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす、無常感ですね。形あるものはいつかなくなる。諸行無常を、結末に込めました」
「最後は悩んだ。どうしたらいいかたいやきが食べられちゃう、かわいそうだなと思いながら。でも食べられることも、一つのもの(現実)ではないかなと。パクリと食べられちゃったで終わらそうと。そういうふうにしたんです」
第2の視点 大ヒットの余波を受けた歌い手
子どもから大人まで、幅広い世代を魅了した『およげ・たいやきくん』
その影響の大きさを物語る映像が残されています。
街のたいやき屋には連日行列。
たいやき人気を受けて、ローカル鉄道の駅にも急ごしらえでたいやき屋がオープン。
一曲の歌が世間を動かすまでの存在になっていました。
その騒動の渦中にいたフォーク歌手のなぎら健壱さん。
シングル盤のカップリング曲『いっぽんでもニンジン』
「詞としては “なんだこりゃ” だよね。よくこんなもん思いついたって感じだよ。だけど、それを大人がね、社会を歌っていて、サラリーマンの悲哀をどうのこうのっていう、そういうのも加味されるという力があるんじゃないですか、歌に。『およげ・たいやきくん』は物語歌」
その物語歌は、およそ450万枚という桁外れのセールスをたたき出しました。
1975年10月21日『およげ・たいやきくん』放送開始。
レコード発売のおよそ2か月前のこと。
実は元々はこの歌を歌っていたのは、ブルース歌手の生田敬太郎さん。
だが、レコード化の時に歌い手が変わりました。
生田氏はその時、別のレコード会社と専属契約を結んでいたので、『およげ・たいやきくん』の歌唱は拒否されました。
(2011年2月14日、『およげ!たいやきくん』のセルフ・カヴァーを発売しました)
なぎらさん「某新聞の読者欄の投稿に “なぜあの人やめたんですか” ってあったのをおぼえています」
番組のスタッフ一木氏も、歌い手の交代には困惑しました。
「野田さんから“悪いけど歌手変えるぞ” と。“なんで?” というのは、周囲からいっぱいありました。
一方、『およげ・たいやきくん』を発売するレコード会社の小島豊美さんは「フジテレビの子会社の音楽出版社の部長に相談に行ったんですよ。そしたら、その部長が “ウチの藤川使ってよ”」
音楽出版社で経理をしていた変わり種の社員・子門真人を紹介されました。
サラリーマンでありながら、ヒーローモノやアニメの主題歌をアルバイトで歌っていました。
仮面ライダーの主題歌を歌っていたのは有名。
パワフルな子門さんの歌声、果たしてこの声が合うのか。
1975年11月、アバゴスタジオで録音。
スタッフからは「実は違和感ありました」
「うわ、全然前と違う・・・」
一木さん「編成会議で聞かせるのに冷や汗かいてましたよ。前の生田さんと歌と全然違うから。でも誰も何も言わなかった。会社の中でヒットの期待値が全くなかったから」
ところが、デビュー戦でサヨナラ満塁逆転ホームランみたいな話になっちゃった」
結果は誰も予想しない空前の大ヒット。
子門さんの歌のおかげと褒めたたえる者もいました。
レコードの売り上げは22億円に対し、子門さんのギャラはたったの5万円。
カップリングを歌ったなぎらさんも同じ悲哀を味わっていました。
なぎらさん「“たとえば1枚売れるといくらなんですか” と聞きましたら “これは童謡扱いだから、しかも歌唱だから、1枚売れて1円” って言われまして、“それで何枚プラスするんでしょうか” ってお聞きしましたら、“5000枚がいいところかな” って言われたんですよ。“私に入ってくるお金は5000円ですか?” って。“まあ、そういうことになります。印税契約じゃなくて買い取りにしましょう” “買い取りはいくらですか” 3万円でした」
結局、買い取りに。今、何を思うのか。
「(1枚)一円で契約しても、とてつもない金が入った。5円ぐらいで契約したら、大変なことななった。笑い話でやってますけど、全く何も思っていません。勝手に売れて戦後最大のヒットになっても、関係ありません。私には」
第3の視点・子門真人という生き方
たいやきくんの大ヒットから3年後、聖書の物語をヒントにした体操『アブラハムの子』もヒットし、子門さんは子どもたちの間で不動のスターになってました。
タレントとしても、引っ張りだこ。
しかし、30年前に子門さんは芸能界から引退。
表舞台から姿を消しました。
浮き沈みの激しい芸能の世界。
果たして今どうしているのか。
子門さんに取材を申し入れましたが、出演は叶いませんでした。
その後の彼を知る人物が取材に応じてくれました。
山梨県・北杜にある乗馬クラブオーナー・田中光法さんは、45年くらいの付き合いがあります。
「いつも上半身裸、鞍も外して裸馬に乗っています。本当に低姿勢で、仲良くしてくれてます。誰一人彼を悪く言う人はいなかったくらい、みんなに好かれていたんで。
いまだに僕にはそういう接し方をしてくれています」
子門さんは1966年に一度、藤浩一という名前で歌手デビューを果たしています。
だが泣かず飛ばずで廃業。
当時のことをこう振り返っています。
「あの頃の歌には一番かんじんのハートがなかったんですね」
大学時代洗礼を受けた子門さんは、週末には必ず教会に通う敬けんなクリスチャンでした。
フリーアナウンサーの大橋照子さんは、2年間ラジオ番組で共演しました。
「とても人のことを考える方だったので、気持ちよく番組をさせていただきました」
2人が共演したラジオ番組は、子門が趣味であるアマチュア無線の楽しみ方を語る内容でした。
「自分の名前を言わないでコールサインを声かけていくんです。“どなたか聞いてらっしゃる局の方がいましたら、QSOお願いします” 声かけていくんです。だから子門さん、世界中の方と話されていたんだと思います。自分を知らない相手と話していく中でどこか他人とは一線を引いていたと言います。あまり、プライベートなことは話す機会はなかったんじゃないかなと思います。番組終わりにお茶を飲んだこともないし、忘年会とかも無かったんです」
そんな子門さんも乗馬仲間に見せる顔は違っていました。
ネイティブアメリカンの暮らしに憧れ、自分のことをこう呼ぶように言った。
「僕のことサタンタと呼んでください」
「シモンさんって呼ぶ人はここでは1人もいなかったくらいです。普段の立場は一切捨てて、もう純粋に乗馬ごっこを楽しんでいます。来れば本当に一日中遊んでましたから」
そもそも、たいやきくんが売れた後のテレビでの仕事は、ほとんどが子どもとの共演。
その姿勢は子門真人と知れ渡った後も変わりませんでした。
かつて『およげ・たいやきくん』でブレイクした時、子門さんはこう語っていました。
「道をまちがえずに歩いて行きたい。ただそのことだけです。ただそのことだけ」
大ヒットから17年後の1992年のクリスマス。
養護学校の慰問に訪れ、子どもたちにあの歌を贈りました。
子門さんが身を引いたのは、それから間も無くのことでした。
普通に平和にすごしたいとなったようです。
レコード発売から50年、今も人々の中に刻まれています。
▼生田敬太郎さんのセルフカバー『およげたいやきくん』

