
毎年10月に発表されるノーベル賞。
日本人も数々のその栄誉に輝いてきました。
日本人で最初に受賞したのは、物理学者の湯川秀樹博士。
今から76年も前の1949年11月3日。
そのインパクトを、作家で当時新聞記者だった司馬遼太郎さんがこう書いています。
「湯川さんがノーベル物理学賞を授与されるという外電ほど、占領下の日本を明るくしたことはなかった」
敗戦から間もない日本で、突如湯川フィーバーが、巻き起こりました。
湯川さんの弟子「世界的なことが日本人でもできるんだと勇気づけたと思います」
“中間子論が、物理学に大きく貢献した” とする選考理由です。
視点1. 日本各地の人々
全国民を巻き込んだ、ノーベル賞受賞騒動
全国民を巻き込んだ、ノーベル賞受賞騒動
戦争が終わってまだ4年。
日本はまだGHQの占領下にありました。
焼け跡が残る東京の街。
国民は食うや食わずの日々でした。
敗戦で打ちひしがれ、日本全体が自信を失っていた時。
中でも1949年の世相は不穏そのものでした。
国鉄総裁が轢死するなど、不気味な事件が続いていました。
そんな日本にあのニュースが飛び込んで来ました。
ノーベル物理賞が湯川博士に決まりました。
もっとも誰もがすぐにその栄誉を理解したわけではなかったのです。
突然駆け巡った聞きなれないニュース。
ノーベル賞に日本中が驚きました。
湯川博士の母校、京都大学に貴重な切り抜き帖が残されています。
ノーベル賞受賞を報じる全国の新聞が集められました。
誌面からはノーベル賞という、未知の賞への高い関心が伺えます。
1907年1月生まれの湯川さん。
学生時代の湯川さんは無口でしたが、スポーツや文学も好きな優等生でした。
受賞当時日本にいなかった湯川さんのために切り抜き帖を送ったのは、中学校時代の同級生でした。
同じ教室で学んだ友人たちの誇らしさはひとしおでした。
受賞の一報は皇居にいた昭和天皇にも届きました。
その様子は宮内庁長官によって、海を超えて湯川さんに伝えられました。
「天皇陛下に拝謁の際、非常にお喜びのご様子、“湯川博士の受賞こそ、ホントの朗報だ” との旨、一同爆笑ととも感激致し候」
当時、日本各地を巡幸していた昭和天皇にとっての大きな喜びだったに違いないです。
「サイエンスというのは、役に立つ、たたないよりも今何が面白いか、何がわかってないかと、そこをやるべきなんだ」
受賞理由は「中間子の存在を予測した」というものでしたが、ほとんどの国民にはちんぷんかんぷんでした。
「一体何がすごかったのか?」
アメリカ物理学会の権威でもあるブライアン・グリーン教授が「陽子と中性子の間で、中間子が交換され、原子核が結合する」という考えを発表しました。
1947年アメリカでの実験で証明されたのです。
誰も見たことのない、粒子の存在を証明するなんて、本当に大胆なことでした。
12月授賞式はスウェーデンで開かれましたが、日本はテレビ放送が始まっていないため、中継などあるわけもなく、本格的はフィーバーは翌年、湯川さんがアメリカ留学から帰国した時に沸きあがりました。
ストックホルムにおける授賞式の模様は「わたしもすっかり感激して上がっちゃったものですからね」
段のところでいっぺん滑って転んだという、スマートな風貌に関わらずユニークなエピソード。
何よりこの日本から、世紀の天才が生まれたことがどれほど勇気を与えたか。
学問の神様・菅原道真になぞられ、湯川神社を建てようという話まで持ち上がったというのもうなづけます。
湯川フィーバーは、多くの人の人生を変えました。
高知県の香南市にある夜須小学校。
ここは湯川さんとは縁もゆかりもない小学校なのですが、湯川さんの銅像が日本で初めて建てられました。
偉人にあやかりたいと、保護者と卒業生がお金を出し合い、銅像を建てました。
その除幕式には、湯川本人も招く熱の入れようでした。
小学生たちはかしこまって湯川さんを迎えました。
台座には、親たちによってこんな言葉が刻まれています。
「わが子らよ、先生のごとく偉大になれ」
その思いに背中を押されたのか、当時小学生だった清遠豊さんは科学の道へ進み、なんと京都大学に進学し湯川先生の教え子となりました。
そんな道をたどったのは清遠さんだけではなく、理学部に入る人のほとんどは湯川さんの影響を受けています。
あらゆる価値が崩れ去ったこの国で、湯川さんの姿は一筋の希望でした。
視点2. 科学者の使命を背負って
湯川さんにとって、学者人生の絶頂ともいうべきノーベル賞の受賞。
そのさなか、湯川さんは日記にこんな歌を書きつけていました。
「忘れめや海の彼方の同胞は、あすのたつきに今日もわづらふ」
自分が華やかなノーベル賞受賞という時に、多くの日本人がまだ明日の生活も、煩わっているということが、湯川さんの頭の中から離れなかったといいます。
湯川さんの誠実さがあらわれた一首になっています。
30年以上に渡って湯川さんを師として来た小沼通ニさんは、4万点に及ぶ遺品を整理・解析して来ました。
研究室日誌には、戦争が激しさを増すなかで、湯川さんが飲み込まれている様が記録されています。
科学の研究をやることが自分のやることなのだと書いてありましたが、1943年8月23日に科学動員要綱が文部省より発表されました。
これからのすべての分野の研究は、戦争に直接貢献することだとの発表を受けて、湯川さんは記したのは「いよいよ我々理論物理学者も転進すべき時がきた」
1935年、28歳の時に中間子論を発表。
文化勲章も受賞した湯川さんは国の期待を背負っていました。
「私はあきらかに非常に極端に内向性を持った人間、なるべく世の中に交渉を持たずに一生送りたい。なんとか学問だけをしておりたい」
だが時勢はそれを許しませんでした。
自分は赤外線の勉強をしたのですが、すぐに何をやるという見通しがないものですから、やることが見つからなく、色々悩み続けて、あちこち訪ねていった中、核物理学が専門のの湯川さんに求められました。
役割はF研究(Nuclear Fission)。
京都大学で行われた原爆研究を指します。
湯川さんはこの研究グループに参加していました。
1945年に終戦でF研究は実を結ぶことなく終わりましたが、終戦後に湯川さんはGHQの取り調べを受けています。
原子核分裂について、海軍の将校やら科学者たちに講演していました。
爆弾作りについては最後まで役に立たず、軍事研究に参加したことの反省で終わったようです。
アメリカ東海岸、コロンビア大学。
戦後渡米した湯川さんは、この大学で客員教授となりました。
ここで研究する植村泰朋教授。
日本人では、湯川から数えて3人目。
そもそも湯川さんをアメリカに招いたのは物理学者のロバート・オッペンハイマー氏。
広島と長崎を壊滅させた原子爆弾の開発を主導した人物です。
彼は戦前から湯川の研究を高く評価していました。
その頃、湯川のドキュメンタリーフィルムが製作されています。
アメリカの科学者とともに研究に没頭する湯川さんが描かれています。
フイルムには、アルバート・アインシュタイン氏も登場します。
彼もアメリカの原爆開発を進言した人物です。
アインシュタイン氏は、日本への原爆使用を非常に悲しんでいて、戦後は一貫してその使用を阻止しようとつとめ、核軍縮を主張し続けていたのです。
アインシュタインは湯川さんに謝罪し、2人の仲は近づきました。
彼が後悔し、反省する姿に心を動かされたのでしょう。
戦後、マンハッタン計画に関わった物理学者たちは、自分たちが生み出したものと向き合っていました。
直接交流した湯川さんも影響を受けたとされています。
湯川さん自身は原子爆弾への言及を慎重に避けています。
アメリカから帰国した湯川さんには、京都大学が基礎物理学研究所所長のポストを用意していました。
ここで腰を据えて研究に没頭しようと思った1954年、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行いました。
近くで操業していた日本の漁船員たちが被ばく。
さらに放射能を浴びたマグロが市場に出回ったとして、日本中がパニックに襲われました。
その最中、湯川さんが招かれたのが、いち早く銅像を作った夜須町でした。
あの漁師町・高知県夜須町。
高知に到着するや記者たちから、水爆についての質問にさらされました。
湯川さんは完全にノーコメントで押し通しました。
騒動の最中、除幕式に参列した湯川博士。
この時に胸をよぎったのは、どんな思いだったのでしょうか。
静岡県や高知県でもマグロが売れなくなると言う風評被害もあったようです。
政府も業者も何も言わなくなりました。
被ばくした日本の漁船は1000隻あまり。
そのうち最も多い高知県が180隻でした。
除幕式から1週間後、突如湯川さんが沈黙を破りました。
「またも日本人が被害者となった。原子力の猛獣はもはや飼い主の手でも完全に制御できない。狂暴性を発揮し始めたのである。原子力の脅威から人類が自己を守るという目的は他のどの目的より上位に置かれるべきではなかろうか」
時を同じくして敬愛するアインシュタインが、核兵器廃絶へのメッセージを残し亡くなりました。
湯川さんたちはこの意志を継ぎパグウォッシュ会議で核問題への提言を主導しました。
1960年代に入って、核保有国は増え続けましたが、湯川さんの姿勢はブレることはありませんでした。
当時、湯川さんの研究室にいた物理学者の坂東昌子さんはその熱意を覚えています。
「“戦争というものがなぜ起きるのか、そう言うところまでオリジンを探さなあかん” と言ってました。そこがすごいなと思います。だからパグウォッシュ会議だけでは満足出来なくて、科学者京都会議まで作られたわけですよ。上も下もなく、誰と相手でもカンカンになって議論していました」
湯川さんは、科学以外の分野からも識者を招いて議論を重ねました。
ビキニ事件から21年後、湯川さんは前立腺ガンを患いました。
それでも病院を抜け出し、核廃絶へのメッセージを訴え続けました。
亡くなる3ヶ月前、執念で科学者京都会議に参加しました。
1981年、湯川さんは本当の最晩年まで叫び続けていました。
視点3. 核なき世界を求めて
かつて湯川さんに憧れた少年は、今も核兵器廃絶運動の先頭に立っています。
日本被団協代表委員 田中煕巳さん、93歳。
その人生はなぜか湯川秀樹さんと交錯していきました。
1932年生まれ、子供の頃の夢は父と同じ軍人になること。
しかしあの日ふるさと長崎の町は一瞬で壊滅しました。
田中さんは奇跡的に助かりましたが、親族5人を失いました。
その田中さんが高校で興味を持ったのが、皮肉なことに物理学でした。
それも、原子にまつわる研究でした。
「我々が犠牲になった原子爆弾、そのもとになった物理学があります。原子物理学というのは、僕が生まれる頃から出始めた学問で非常に新しい。そういうのは、すごく興味が出てきたのです。その当時はじめて使われた放射線を測定する装置を作ってみよう。4人で相談して作って、賞状ももらいました。すごいのめり込んでいたんですよ」
そんな科学少年のもとに届いたのが、湯川博士のノーベル賞受賞の知らせ。
「その分野のノーベル賞を湯川さんがもらったんです。びっくり仰天して、そういう人が現れたというのがすごい。湯川さんって、どんな人だろうか。そういう人になりたいな。物理系をこれから勉強していけるといいな」
だが、大学進学はかないませんでした。なぜなら・・・
「ものすごい貧乏でしたから。ちゃんと教科書もノートも買えないような。食べられないとね、栄養失調になっちゃいますから。そういう時一番辛いのは、人に見せられないことですよ」
食べる方法はないかと一生懸命考えて、大学行くのを断念し、やむなく東大の生協に就職。
憧れの湯川さんとの縁は切れたかに見えたのですが、湯川さんの人生を変えた1954年のビキニ事件が田中さんの人生も揺さぶりました。
「東大の生協の従業員で組合を作ってました。20人から3人でしたけど、組合として、(原水爆反対運動の)署名活動をまずやろうと。周辺を家庭訪問をして、署名を集めました。やはり物理を学び直したいと思い、5年かけて東京理科大学に進みました」
その頃、被ばく者自らが声を上げ始め、日本被団協が結成されました。
田中さんも被ばく者の1人として、活動に合流しました。
同じく核なき世界を唱え平和活動に力を尽くす湯川さんをどう見ていたのか。
「物理学がなければ原爆はできない。科学者は核兵器なんかなくすの先頭に立たなきゃいけないと思いますよ」
実際原子力発電の導入を急ぐ日本政府に湯川さんは自主的な基礎研究を重視すべきだと主張、意見が通らないと見るや、抗議の辞任を突きつけていました。
「(このままでは)科学を正しく応用した原子力の活用にはならない」というのは、科学者たちは皆考えました。
湯川さんが言ったことで強調されました。
「学問はもろ刃の剣、良くも使えるし、悪くも使えます。だから悪くも使えると言うことを常に自戒しながら科学者は勉強しないといけない」
1981年に湯川さんが亡くなった後も田中さんたち被団協は、粘り強く平和活動を続けてきました。
そして、2024年に贈られたのは、ノーベル平和賞。
日本人初だった湯川さんから数えて29番目の快挙でした。
ノーベル財団のホームページに驚きの情報が開示されています。
湯川さんは物理学とは別の部門で再度ノミネートされていました。
1966年のノーベル平和賞候補に名前が挙がっていたのでした。
湯川さんとともに活動を行ってきた小沼さんにその事実をぶつけてみました。
「初めて知りました。湯川さんが平和賞をもらってもおかしくなかったと僕は思いますよ。活動が国内だけでなくて世界中にパグウォッシュ会議というものを通してね。世界全体の活動につながっていったし、だからこそ亡くなる直前まで発言していました」
今、湯川さんが生きていたら戦争の広がる世界を見てどういうでしょう。
前回の「アナザーストーリーズ」の記事はこちら(2022年12月29日)
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では、明日。