
1332年隠岐へ流される
1318年 鎌倉時代末期に、31歳で天皇に即位しました。
何度となく倒幕を試み、そのたびに失敗を重ね、後醍醐天皇は西ノ島に配流となりました。
後醍醐天皇の住んでいた場所は、海辺の小高い丘の上にあり、遠く別府港を望めます。
黒木御所とは、皮がついたままの木のことで「粗末な臨時の御所」という意味があります。
向かいに見える見附島が、後醍醐天皇を見張る島です。
常に監視されていました。
後醍醐天皇は討幕を諦めていませんでした。
当時、皇位継承の決まり事がありました。
大覚寺統と持明院統と2つの系統が交代で即位するというルール
さらに誰が天皇になるかを最終的に決定するのは、鎌倉幕府でした。
後醍醐天皇の後には、皇位は持明院統に移り、大覚寺統に戻ってきても即位するのは兄の子どもでした。
自分の子どもに位を継がせることが出来ないことに、後醍醐天皇は不満を募らせていました。
鎌倉幕府を倒さない限り、自分の家で皇統を継いでいくことが出来ないため、倒幕に踏み切ったのだろう。
脱出を手助けしたのは島の名もなき人たちでした。
普通なら会うことも出来ない天皇に声をかけられて感動して、島の人たちは力を貸したのです。
こうして隠岐からの脱出に成功し、現在の鳥取県の港に辿り着きました。
港町には、変わった苗字を持つ家が有ります。
つちへんに「時」と書いて「ねぐら」
この家のご先祖は、突然現れた天皇をかくまうためにあわててむしろを敷いて周りを 雨戸で囲いました。
すると天皇は「まるで鶏のねぐらじゃ」と笑い、「塒」ねぐらという名字を授けたと伝わります。
このあたりには、他にも後醍醐天皇から授かったという名字がいくつも伝えられています。
身代わりになったから「王身代(おうしんだい)」。
大きな石を動かした力持ちには「高力(こうりき)」。
こうして人々に助けられ、幕府の追っ手からなんとか逃れた 後醍醐天皇。
向かった先は、中国地方最高峰・大山(だいせん)山系の一つ、船上山。
後醍醐天皇はおよそ3カ月間籠もり、幕府軍と戦いました。
幕府軍3000に対し、天皇の味方は僅か150だったと言われています。
絶望的な兵力の差にどう立ち向かったのか。
船上山の切り立った断崖が防御に役立ちました。
三方が急な崖の船上山は、天然の要塞。
ここで守りを固めながら、形勢逆転のため強力な武器を使いました。
鳥取県立博物館に展示してあります。
後醍醐天皇の「綸旨(りんじ)」
綸旨とは、天皇の命令を記した文書で、通常は貴族や大きな神社仏閣宛てです。
後醍醐天皇の綸旨は、それまでにはない規格外のものでした。
これは、味方に付いた近隣の武士に宛てて出された綸旨です。
その内容は「合戦で大いに働いたゆえ必ずや恩賞があるであろう」
本来天皇は軍事に関わることが無いので、軍事に関わる綸旨を出すことはほぼありません。
天皇から、一介の地方に武士にお褒めの言葉が届くという、この前代未聞の出来事に武士たちの心は 大きく動かされました。
武士にとっては名誉なことと考えられていました。
船上山から出された綸旨は、残っているものだけでもおよそ30通確認できます。
綸旨を受け取った武士たちは次々と後醍醐天皇に従い、倒幕の戦いに加わりました。
後醍醐天皇は、武士と天皇の距離を一気に縮めました。
隠岐を脱出してから 僅か3か月。
後醍醐天皇は、民の助けと綸旨の力で倒幕に成功したのです。
秘書官的な人が当時不在でいなかったらしく、後醍醐天皇の直筆の綸旨が残っています。
天皇が直接綸旨を書くのも異例だったようです。
南北朝時代のはじまり
それでは 鎌倉幕府を倒した後はどうなったのでしょう。
都に帰った後醍醐天皇。
1333年に建武の新政、天皇中心の政治を始めます。
これには、不平不満が出て来て、実力者・足利尊氏を敵に回してしまうことになります。
尊氏に追われ、後醍醐天皇は奈良・吉野へ逃れることになります。
ここで京都の北朝に対して、奈良・吉野の「南朝」と呼ばれるようになりました。
ここで再起をかけます。
復活の切り札となったのが、32人の子どもたち。
子どもたちに全国各地、旅をさせました。
足利方から京都を奪還しようと狙っていました。
中でも「南朝王国」ともいうべき大勢力を築いた人物は、九州に行った懐良(かねよし)親王です。
福岡県・奥八女地域は懐良親王が晩年を過ごしたと伝わる地です。
懐良親王に付き従って九州に渡った五條頼元という公家の子孫のお宅。
家には 懐良親王ゆかりの御旗(八幡大菩薩旗)が残されています。
八幡大菩薩は戦の神。
翼が円を描く烏は太陽を表します。
九州制覇は南朝の巻き返しをねらう後醍醐天皇にとって重要な課題でした。
これは南朝の重臣、北畠顕家が後醍醐天皇に宛てて書いた意見書「西府はさらに其その人なし」と書いてあります。
つまり「九州には人がいない」と。
そのために尊氏が九州から再びやって来て、京都を落としたんだと。
足利尊氏は一度は敗れ九州に逃げましたが、そこで力を蓄えて京へ攻め上ったため、今度は後醍醐天皇が京を追われ吉野に逃れることになりました。
その原因は九州に南朝の拠点がなかったからだと、北畠顕家は訴えたのです。
そして1338年、懐良親王は九州制覇の旅に出発。
お供はわずか12人。
懐良親王自身はわずか10歳でした。
一行がまず向かったのは、伊予国の忽那(くつな)島。
九州に拠点がないため 南朝方だった海賊の元に身を寄せたのです。
そこで、父・後醍醐天皇の崩御。
九州にたどりつく前から暗雲が立ちこめます。
忽那島で3年過ごした懐良親王は薩摩国にへ上陸。
その前に立ちはだかったのは守護の島津氏。
親王は度重なる戦いを5年半も耐え抜きます。
次に、肥後国。
有力武将菊池武光を味方につけ、ここでも戦いの日々を送ります。
その年月は13年半に及びました
各地で味方を増やし一進一退しながら戦い続ける
気の遠くなるような九州制覇。
長い旅路の中懐良親王の支えになったものが五條家に残されていました。
通称「髻(もとどり)の綸旨」という名前の後醍醐天皇からの綸旨。
髪を束ねる髻の中に隠して運ばれたとも言われる機密文書です。
「もしも自分が亡くなろうとも朝敵を討つため忠義の戦いに励んでほしい」
書かれた日付は後醍醐天皇が亡くなる前日。
この綸旨は親王への遺言とも言えるものでした。
最後の言葉を懐良親王は重く受け止め九州制覇の気持ちを強くしたと考えられます。
その懐良親王の前に最大の強敵・九州支配の要大宰府を拠点とする少弐頼尚(しょうによりひさ)、古くから九州に根を張る名門の当主です。
1359年 大保原の戦い、九州の覇権をかけてついに両軍が激突。
太平記によると、懐良軍 8000 × 少弐軍 60000
日本三大合戦の一つにも数えられます。
両軍は筑後川を挟んで対峙。
親王の軍勢が 川を渡って夜襲をかけ決戦の幕が 切って落とされます
懐良親王の気迫が勝利を導きました。
親王は皇族でありながら、最前線に立っていたのです。
3か所も深い傷を負いながら味方を鼓舞しました。
「命を懸けて宮様を守れ」、兵たちは奮い立ちます。
8時間にわたる大激戦を制した懐良親王。
1361年太宰府を制圧し、悲願の九州平定を実現したのです。
この時 懐良親王は推定33歳。
懐良親王の九州統治は11年続きました。
南北朝の合一
1392年に南北朝の合一が行われます。
[南朝]後醍醐天皇の孫・後亀山天皇から三種の神器が[北朝]後小松天皇に引き渡されます。
両統迭立(てつりつ)という約束が交わされました。
皇位を北朝と南朝交代交代で受け継いでいこうという約束です。
結局、このあとの皇位は北朝の方で独占されていくことになります。
後亀山天皇はまた吉野に行くんです。
ここからは「後の南朝」ということで「後南朝」と呼ばれています。
後南朝ここから90年ぐらい続くんです。
後南朝に心を寄せる人々大切に思う人たちがいるんです。
奈良・吉野山から東に15キロの川上村。
毎年2月5日に後南朝ゆかりの儀式が行われます。
自天王という後南朝の皇族をまつる社です。
村の伝承によると、自天王は 後醍醐天皇から5代後の人物。
この自天王の御霊を慰めるために行われるのが御朝拝式(おちょうはいしき)。
この儀式は近年まで一般に公開されず、ひそかに続いてきました。
背景には、後南朝にまつわるある悲劇があったのです。
1443年京
後南朝の軍勢が北朝の天皇がいる京の御所を襲撃し、天皇の証しである三種の神器の一つ、神璽(しんじ)勾玉を奪い去りました。
前代未聞の出来事でした。
神器を奪った後南朝は幕府に追われます。
彼らは川上村の奥地へと逃れ、再起を図ることになったのです。
後南朝の拠点・川上村
川上のもっとも奥まったところにある御所の跡。
後南朝の行宮跡・かくし平。
勾玉を隠したとされる巨岩があります。
村人たちは落ち延びてきた後南朝の皇族たちに仕え貧しい暮らしの中心を込めてもてなしました。
山深い川上の地で 自天王は帝として人々に敬われながら18歳の青年に成長しました。
1457年、自天王と川上村の人々の 平穏な日々は突如破られます。
三種の神器を取り戻そうと、味方を装った幕府側の刺客が忍び込んだのです。
心を許した村人たちは自天王の居場所についてつい口を滑らせます。
刺客は自天王を襲撃し殺害。
その首を持ち去ってしまいました。
村人は 逃げる刺客を討ち取って、自天王の首を奪い返し手厚く供養したといいます。
この悲惨な事件の翌年から自天王をしのぶために毎年欠かさず続けられているのが御朝拝式。
1年でこの日だけ、自天王が使った兜や甲冑が姿を現します。
参加するものは榊の葉をくわえる習わしです。
敵に秘密を漏らし、大切な自天王を失ったことへの戒めとして、固く口を閉ざすのです
事件から568年を経た今も自天王が即位の時に行ったという儀式を再現し、後南朝を支えた先祖たちの思いを確かめ合います。
歴史の表舞台からは消え去った 後南朝。
しかし その記憶は村の伝承や儀式に刻まれ、現代にも確実に続いています。
前回の「歴史探偵」の記事はこちら(2025年6月7日)
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では、明日。