
1862年 ロンドン万博
万博は世界を映す鏡と言われています。1862年のロンドン万博で日本はデビューしました。
万博は時代ごとの国の姿、社会の姿を映す鏡。
万博を見ていくことで、当時の日本がどういう姿を目指していたか、夢やビジョンがわかって来ます。
まるで宮殿のような建物は、電気館というパビリオンです。
人々を驚かせたのは、電飾。
最新のテクノロジーだった電気の光が夜のパリを照らしました。
全長およそ4キロ、電気で動く歩道も登場しました。
日本は明治維新から30年、日本は欧米に追いつきたいと頑張っていた頃です。
「日本の存在感を示したい」
京都国立博物館に、当時の写真があり、お寺のような建物が写っています。
法隆寺の金堂を模したという、日本館。
農業や工業など、様々な展示を行いました。
中でもイチオシが、古美術の展覧会。
各国が最新技術を競っていた万博で、日本は古美術の展示で勝負に出たのというのです。
京都・仁和寺に伝わる、平安時代の漆の箱。
あの弘法大師空海が唐から持ち帰った経典を納めるため、当時の天皇が作らせました。
もちろん、国宝です。
金と銀で描かれているのは、迦陵頻伽(かりょうびんが)と言われる霊鳥(仏教で極楽浄土に住むとされます)
日本伝統の蒔絵の技の最高到達点として、欧米に初めて紹介された至高の逸品でした。
パリ万博で日本がどんな作品を紹介したかがわかる本が残っています。
古墳時代の埴輪から始まっています
彫刻の元祖として、紹介されています。
他にも、古代の美術工芸の粋を集めた正倉院の宝物、飛鳥時代の仏教美術や、室町時代の名建築、1000年以上の日本の美の歴史が欧米の人向けに体系的に紹介されています。
各国が科学技術を競う万博で、日本は古美術の展示を行ったのでしょう。
明治維新以降、日本は欧米列国に追いつくために国を挙げて産業の発達にまい進、急激な成長を遂げていました。
それからおよそ30年、パリ万博の時代になっても日本は国際社会の中で、欧米列強と対等な関係だと認められていませんでした。
「私たちはこれだけ長い間の美術品を持った文明国なんです」とプレゼンテーションしたかったようです。
カギになった人物は、博覧会事務局長の林忠正氏です。
パリ万博の古美術の展示の指揮を務めました。
林は、日本文化の結晶である美術の歴史を万博の場でアピールすることが、国際社会で日本が認められる力になると確信していました。
パリ万博の2年前から、林は責任者として出品する作品の選定を始めました。
「世界中の人々が集まる万博で日本の文化の実力を証明しなければならない」
林の決意は、長い間の選定を経て、パリへ美術品を輸送する直前のことでした。
どの作品も日本の宝。
そんな宝を1か月以上かけて船で運ぶという前代未聞のプロジェクト。
思わぬ人物から問い合わせが入りました。
明治天皇から「こんな重要な物を失うようなことになったらどうする気なのか?」と問われて「私が命を懸けて運びます」という風に言ったと伝えられています。
4月15日パリ万博開幕。
古美術で日本が勝負を挑んだ結果は1000年を超える日本の美の集大成を見たとフランス人の言葉が残っています。
「ヨーロッパは、日本を文明にみちびくというような慢心を持たない方がいい」
この時の展示が欧米の人々に感銘を受けたことを示す証拠が残っています。
万博の後でフランス政府から授与された、レジオン・ドヌール勲章が残っています。
日本の美術を紹介したことを、フランス政府は評価しました。
日本が育んできた文化は、決して欧米に劣る物ではない。
パリ万博を弾みに、日本は20世紀の新たな国際社会に羽ばたいて行くことになるのです。
調査してみたら、万博は国レベルのピリピリした文化の戦いだったことがわかりました。
1940年幻の万博
政府「日本で万博を開きたい」との悲願の東京万博前売り入場券が一般に手に入っていました。
一等2000円の抽選券付き
現在の金額で130万円でした。
この前売り券は100万冊発行され、日本中の銀行や郵便局で、発売されました。
隅田川に掛かる、勝鬨橋。
国の重要文化財です。
この橋が出来たのは、1940年。
東京万博が開催されるはずだった年。
勝鬨橋は、幻の万博のメインゲートとして造られた橋です。
幻の万博のレガシーだったのです。
勝鬨橋が東京万博の入口でした。
東京万博の完成予想図がありました。
晴海や豊洲といった臨海部の広大な埋立地が会場となっていることがわかります。
晴海エリアは日本のエリア。
日本の歴史を紹介するテーマ館など、およそ15のパビリオンが造られる予定でした。
豊洲には世界のパビリオンが。
50カ国以上に招致が行われており、空前の規模でした。
半年間の来場者は4500万人を想定、
開催中の大阪・関西万博をしのぐ、超巨大なプロジェクトだったことがわかります。
この幻の万博、資料がほとんど残っていません。
開催地だった東京都中央区の資料館に、資料の一部が保管されていました。
万博協会が作成した計画書や広報資料など、その数74点。
幻に迫る貴重な手がかりです。
万博をPRするポスターが、調査の結果、意外な経緯で作られていたことがわかりました。
ポスターの図案を幅広く国民に募集しました。
デザインは、プロアマ問わず誰もが応募できました。
1等に採用された場合の賞金は、現在の金額でおよそ70万円。
仕分けをするボランティアの写真も残っていました。
日本中から応募の問い合わせが殺到し、その数は1万2000通にのぼったそうです。
人々の大きな関心を集め、着々と準備が進められていた東京万博。
万博の開催目的が書かれた資料には、国際社会に向けたあるメッセージが、書かれていました。
この万博の計画が始まったのは、1929年。
その2年後に起きた満州事変をきっかけに、日本は国際連盟を脱退します。
国際社会から次第に孤立していくようになります。
東京万博には、こうした状況をくつがえす狙いがあったのでは、ないでしょうか。
万博で国際平和を歌い、多くの諸国と今まで以上に友好関係を構築することができのではないか、そういった意向も一部にはあったようです。
開催2年前の1938年4月、ヨーロッパやアジア、中南米など、世界58か国に招致活動が始まります。
前売り券は数十万札が購入されました。
前の年に始まった日中戦争が激化していく中、政府は国家総動員法を制定、日本は戦争に向けて舵を切ることになります。
すると、イギリスやフランスなどの国から、万博への不参加を表明。
1938年7月、当初の目的を達成することが困難になったとして、東京万博の無期延期が決定されたのです。
昭和の日本の大きな転換点となる可能性があった1940年の東京万博は、戦争によって幻となったのです。
ただ、実際に万博が行われていなかったとしても、日本社会に大きな足跡を残しています。
1970年 大阪万博
伝説のように語られている大阪万博で、スゴイ記録がたくさんあります。総入場者数 6421万8770人
日本の人口のおよそ半分。
迷子の数 4万8139人。
救急車の出動回数 1万1185回。
結婚 55組
出産 一人
人の一生の中で起きることのほとんどが、万博会場の中で起きていました。
パナソニックミュージアムに、大阪万博で人々を熱狂させたものが残っています
「ウルトラソニックバス」人間洗濯機の展示されていた実物。
当時、内風呂の普及率は7割だったため、憧れの未来として大人気になりました。
21世紀を先取りするもの
会場内のタクシーは、排気ガスや騒音を出さない電気自動車が使われていました。
ワイヤレステレホン(携帯電話の一歩手前)や
夢の超特急・リニアモーターカーが紹介されました。
人類の進歩と調和を、テーマに掲げた大阪万博。
その「進歩」を象徴する科学技術に人々は熱狂したのです。
「調和」こちらにも人々を熱狂させた、ヒミツがありました。
お祭り広場の設計を担当した建築家の上田篤さん。
太陽の塔の裏側に広がるスペースに縦横およそ100メートルの広場があります。
世界各国の人々が連日音楽や踊りを披露していました。
「調和」をどう表現するか、上田さんは悩みました。
「調和」とは、生身の人間が交流し話し合うことではないかと考えるようになりました。
その結果が世界の人々が集まることを目的とした広場でした。
調和が求められたのには、当時の国際情勢がありました。
大阪万博の前から続いていたベトナム戦争。
アメリカが介入して、5年が経っても終わりが見えませんでした。
ヨーロッパでは、ベルリンの壁を挟んで厳しい東西冷戦が続き、豊かな国が多い北半球と、途上国が多い南半球で、深刻な経済格差が生まれていました。
世界が分断されて行く中、イデオロギーの対立や経済格差を抜きにして、人々が自由に交流できる場所を万博に作ろうと、上田さんは決意しました。
「進歩」だったら先進国しか参加できない。
先進国でなくても、それぞれの国には文化、特色があります。
「できるだけ多くの国に参加してほしいので、特色のあるものを持ってきてください」この呼びかけに、多くの国々が賛同しました。
大阪万博で「お祭り」を行うことに、国側は難色を示していたそうです。
国側は産業技術を披露する場と捉えていました。
しかし、現場は「文化の集積地」という理念を押し通しました。
各国がその国ならではの伝統文化をお祭り広場で披露。
盆踊りに始まり、アジアの祭り、グループサウンズなどのバンドによるウェスタンカーニバル。
中には遠路はるばるゾウを連れてきてくれた国もありました。
多様な国の人々の交流を目指す、新しい挑戦が注目を集めました。
半年の期間中、公演数は2880回が実施されました。“人類交歓の場”であるお祭り広場では内外27万人が出演、1000万人以上の観客が拍手を送り、大きな熱狂が生まれたのです。
「進歩」と「調和」2つの夢に挑んだことが、熱狂のヒミツだったのかもしれません。
前回の「歴史探偵」の記事はこちら(2024年9月14日)
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http://ameblo.mom/miyacar/entry-12867479229.html
では、明日。