そもそも聖徳太子って、存在したのかが疑問視され、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」と記すようになったそうです。
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【信憑度・教科書が変わる度でランキング】
10位 茶人・千利休は隠れキリシタンだった?
茶道のカリスマ・千利休
千利休が豊臣秀吉との関係をこじらせ、切腹を命じられました。
秀吉は後悔したと伝えられています。
秀吉は、キリスト拡大を危険視し宣教師を国外追放。
利休の弟子にはキリシタンが多かった。
茶の回し飲みとキリスト教のミサなど、茶の湯とキリスト教が似ていて、作法にも共通点があります。
秀吉は、利休がキリスト教徒だと疑っていました。
キリスト教では切腹が認められていませんでした。
9位 徳川家康の埋蔵金を超える埋蔵金が眠る黄金の城がある
岐阜県白川村にあった・帰雲城
1586年の天正地震によって一夜によって、城も城下町も土の中に消えたようです
城主の内ケ嶋氏が6つの金山と1つの銀山で多くの収入を得ていたようです。
3回に渡って発掘調査が行われています。
もし見つかれば、教科書が変わるかもしれません。
8位 武田信玄 VS 上杉謙信 伝説の一騎討ちはなかった?
12年で5度も戦った川中島の戦い
戦国時代を象徴する名シーンとして描かれています
舞台の跡地には、2人の像があります
決着がつかなったと言われています
白頭巾をかぶった謙信は影武者だったのでは、との説があります
謙信の家臣の荒川伊豆丸だったかもしれません。
山梨県甲州市の栖雲寺(せいうんじ)(武田家の菩提寺)に伝説の軍配が残されている
信玄公が必勝祈願した摩利支天(勝利の神様)
「蕎麦切り発祥の地」と言われています。
なぜ鉄製の軍配を持っていたのでしょうか?
師匠から「一国の主がやすやすと刀を抜くな」と言われ、軍配を多用したようです
7位 巌流島の戦い・武蔵はありえない手段で倒していた
60戦無敗の剣の達人・宮本武蔵。
著書『五輪の書』は、令和の今でも読まれています
決闘では小次郎をイラつかせて一撃で倒した。1対1で戦って、武蔵が勝利したと聞いていますが、息を吹きかえした小次郎に、武蔵の弟子がとどめを刺したと言われています
それだけ、勝ちにこだわっていた武蔵でした
6位 戦国最強の武将・本多忠勝の鎧はペラペラだった?
生涯57回の戦に出ているのに、傷を負ったことがない。
1人で相手の中に飛び込んで、全体の士気を高めた。
甲冑は革を多用していたようです。
角は紙製で中は空洞です。
軽くすることによって、動き回れるようにしたようです。
蜻蛉切は、天下三名槍と言われた最強武器。
トンボが止まっただけで真っ二つになったことからその名が付いています。
長さが6メートル
「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道に入るべし」
形を整えることで内面が磨かれる
肖像画は映えを重視して、肩を大袖に描き直させたそうです。
5位 島原の乱を起こしたカリスマ・天草四郎はユニット名だった?
15歳の美少年・天草四郎と言えば、日本史上最大規模のキリシタン一揆の「島原の乱」の指導者。
当時キリシタンの弾圧に、幕府への不満は頂点に達しました。
奇術を使って信頼を得ていました。
最近の歴史研究によると、天草四郎は複数人いたようです。
乱が終わった後に、幕府軍の元にたくさんの天草四郎の首が届いたようです
1人の少年が3万7000人を一致団結するのは無理があります
4位 大坂夏の陣で豊臣家は滅亡していなかった
教科書では、徳川軍の圧勝。豊臣秀頼と淀君が自害し、大坂夏の陣で滅亡したと書かれています。
大阪城の外堀が広いのは、攻める側からは鉄砲が届かないため。
守る側は高いため鉄砲が届きます。
大阪城は、豊臣家の城ではなく、徳川幕府によって作り替えられた城です。
地中から石垣が出てきました。
南の方向約1.5キロに真田丸(鉄壁の防御壁)
現在は大阪明星学園のグラウンド。
3軒並んでいるお寺によって位置が特定できます。
大阪府誌には抜け穴があったとされてます。
三光神社に抜け穴があり、石垣の通路になっていますが、現在は行き止まりです。
3位 本能寺の変には黒幕がいる?
1582年 本能寺の変・戦国最大のミステリー。
明智光秀1人では出来ない大事業。
信長の遺体も見つかっていません。
秀吉が家臣に書かせたという『惟任退治記』では、怨恨説となっていますが、様々な歴史学者が怨恨説に否定的。
豊臣秀吉に利用されちゃった説があります。
本能寺の変の後、秀吉はスピード出世でわずか3年で関白に昇格。
中国大返しのスピードがあまりにも早い。
本能寺の変を知った秀吉が、光秀討伐のため2万の軍勢を大移動したものですが、200キロ以上を1週間というのはあり得ません。
秀吉は石垣一夜城も、木で城を隠し一夜で築城したように見せかけたもの
ずる賢い秀吉は日数を誤魔化していたかも
天才軍師・黒田官兵衛が黒幕という説もあります。
信長に恨みを抱いていました(また、室町幕府・足利義昭の逆襲説:信長を討つ好機を狙っていた?これには、義昭を援助した毛利家と光秀が連携した形跡がない)
長宗我部元親は斎藤利三と親戚
信長よりも親友を守りたかった?
また、光秀の単独説があり、これからの日本を憂いて信長の暴走を止めたかったという説もあります。
2位 俳句はカモフラージュ・松尾芭蕉は忍者だった?
日本一の俳人の裏の顔で、松尾芭蕉が忍者だったという根拠。
忍者説の本は数多く出版されています。
松尾芭蕉は、伊賀出身
①異常な体力(46歳で1日徒歩約24000歩 50キロ)
通行手形がないと移動できない→幕府から通行手形をもらっていた?
②仙台での行動
全国を巡り地方の俳人と句会をひらいていたが、仙台では句会を開いていませんでした
松島の句は弟子が作ったという説があります
当時江戸幕府と仙台藩はかなり緊張状態
仙台藩の力を削ぐために日光東照宮の修繕費用に莫大な費用を負担させました
仙台藩は幕府への不満が爆発して、仙台藩で忍者とバレるのを恐れた
③忍者の教科書に載っているおすすめの職業は俳諧師
尾張藩に残っています「俳諧や茶の師匠になれ」
また、戦前の日米オールスターの時に、来日した選手の中にスパイが混じっていて、東京などの写真を撮っていて、空襲に活用されたそうです。
1位 長篠の合戦・信長の最強戦術「三段撃ち」はウソだった?
信長神話の崩壊
三段撃ちとは、1575年長篠の合戦で信長が武田勝頼に勝利した鉄砲の新戦術
鉄砲隊を3列に配列
1列目 鉄砲を撃つ
2列目 次に撃つ準備
3列目 火薬を詰める
武田の騎馬隊を撃破したとされています。
①準備に時間がかかりすぎ
騎馬の速さにはかなわず、実際には効率よく撃てない
②鉄砲玉の数が少なすぎ
発掘したところ、見つかった鉄砲玉の数が少なすぎる
③『信長公記』は、史料では一番信憑性が高い
三段撃ちの記録がない
三段撃ちは『信長記』で小瀬甫庵が意図的に創作したとされ、史料としての価値が低いのです。
前回の「博士ちゃん」の記事はこちら(2025年3月23日)
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では、明日。