◆今、徳川家康でしょ・運命を変えた8つの事件 前編 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
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2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。

写真AC:うみかぜさん提供のフリー素材「竹千代君像と今川義元公像」


家康はそもそも弱小大名の息子として生まれたため、天下統一に至るまでは色々な選択をしてきた。
信玄、信長、秀吉が成し得なかった天下統一を、どうやって成し遂げた?

事件-1(家康 31歳)
三方ヶ原の戦い:VS信玄にボロ負け・命を落とす寸前だった
戦国最強の武将・武田信玄に大敗した。
当時家康は静岡県浜松市を拠点にしていた。
武田信玄はすぐ隣の甲斐国。
約3万の大軍を率いて武田信玄が攻めてきた。
家康の兵力は約1万で圧倒的に不利。

結果、天下統一に必要な家臣たちとの絆を深めた。
徳川家康が本拠地とした浜松城。
17年間城主を務め、戦国大名として大きく羽ばたいて行く。
家康はこの城で武田信玄を待ち構えていた。
家康の領地に侵入した信玄は、次々と城を攻め落とし、浜松城に迫っていた。
徳川の家臣が天守閣に上がると、北の方から風林火山の旗が迫ってきたのが見えたと思われる。
当時の信玄は、日本で最も強い武将として恐れられていた。
武田の兵たちは、急に進行方向を変えてしまった。

Q. この時の家康の選択は?
・武田軍が通り過ぎるのを待った
・武田軍に一気に襲いかかった
A. 去って行く武田軍に襲いかかった。
背を向けていたはずの武田軍は、鉄壁の陣を敷いて待ち受けていた。
その結果、家康は大敗し、命からがら城へ逃げ延びた。
なぜ、兵力差があるのに、出撃したのか?
理由-1 家康にとって大事な補給路を狙われた
健康科学大学の平山優先生によると、信玄が本当の攻撃目標にしたのは、浜名湖の湖畔にある堀江城。
浜名湖水運の重要な拠点。
信玄の方向転換は、補給ルートの城を攻撃するため。
堀江城がもし信玄の手に落ちれば、浜松城の補給の生命線を完全に奪われてしまう。
家康は信玄の動きを見て、戦いを決断せざるを得なかった、
理由-2 武将としての評価が失墜するから。
不利な戦いにあえて挑んだ家康。
この実績が後々、家康の評価につながる。
敵が目の前を通り過ぎるのを見逃しては、武将として失格となり、部下も付いて来なくなる。

身代わり作戦
家康に忠誠を誓った家臣の1人:夏目次郎左衛門吉信が家康の兜をかぶって、敵陣に攻め込んで行った。
武田軍の目を引きつけているうちに、家康は包囲網を突破し逃げ延びた。
家康はお腹も空いて疲労困ぱい。
農民がお粥を振る舞って、そのお返しに頂いた名字。
小粥(おがい)という名字が浜松市には多い。
さらに「小豆餅」という町がある。
町内には、実際に小豆餅を売っている和菓子屋がある。
一軒の茶屋に寄って、家康が小豆餅を頬張ったという逸話もあり、地名として残っている。
浜松にはこうした三方ヶ原に関する家康伝承が、30近くもある。

家臣や民衆との結びつきを深め、天下統一の足がかりを得た。


敵であり、師匠でもあった武田信玄。
信玄の戦術を見た家康は、さらなる成長を果たした。
信玄が得意としたのは、奇抜なアイディアで敵の城を攻め落とす、城攻め。
家康も、信玄の城攻めに苦しめられたことがある。
北にあったのは、家康にとって難攻不落の二俣城。
天竜川と二俣川が合流する場所にあった二俣城は、天然の要塞。
ここで家康軍は待ち受けていた。
武田軍は驚きの作戦に出た。
信玄は、家康の大切な井戸櫓を筏をぶつけて破壊した。
城の水源・天竜川から水を汲み上げていたため、家康軍の生命線を断たれた。
信玄は三方ヶ原の戦いの直後に持病が悪化、そのまま亡くなったといわれている。

事件-2
弱小大名の悲しさ・8歳で人質に出された事件

彼の生まれたのは弱小大名の家で、常に侵略される危険があった。
当時静岡県一帯を支配していた巨大勢力の今川氏に人質として送られ19歳まで人質として暮らした。
人質生活の中で家康は、江戸幕府にもつながる「重要なもの」を得ていた。
家康の運命を変えたキーパーソンが、今川義元。
今川の下に入ってからは、様々な学問や教養、最高級の教育環境を与えられた。
皮肉なことに、人質であることによって、逆に大切にされていた。
家康が元服して、身につけていた貴重な甲冑が今も残っている。
紅糸威腹巻といって、質の高い上級の武士が着けるようなもの。
成人してから、養育の親の恩義を感じ、行く末までも今川の強力な同盟者になるように家康を育てた。

Q. 選択:人質時代の学び
・鍛錬して武芸を極める
・勉強して知識を身につける
A. 勉強して知識を身につけた。
静岡市臨済寺は、家康が人質として預けられていた場所。
家康の手習いの間(勉強部屋)が復元され、家康が使っていた硯なども残されている。
家康が読んでいた本のラインナップがスゴい。
「貞観政要」は、政治を行う人にとって必読の本。
一番熱心に読み、後の江戸幕府の大きな手本になったというのが、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』
源頼朝から始まり、歴代将軍の行動などが記されている。
源氏の子孫であり先祖から連綿として受け継がれていると、言っている。
鎌倉幕府の政治を再現したいと思った。
家康の政治に全て反映されている。
尊敬する頼朝と同じく征夷大将軍になって、鎌倉と同じ関東に幕府を開いた。

高度な教育を受けたことで、江戸幕府の基礎を得た。


事件-3
19歳で自害するはずだった?信長に追い詰められた桶狭間の戦い

桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長によって討ち取られた。
主人を失い、味方は逃げ去り、取り残されて孤立していた。
家康は、天下統一して平和な世を自分が作る、というきっかけになった。
今川は信長軍の10倍と、数の上では圧倒的。
信長が討ち取ることができたのは異例。
昔は、今川義元が休息している時に、信長が本陣を急襲したとされていたが、近年になり否定された。
信長は真正面から向かって行った。
2000の兵を全部今川義元にぶつけた。
今川軍の先頭にいた家康は、最前線にある味方の城に食料を届ける命令を受けていた。
家康は敵陣を突破し見事に食料を届けたが、その直後大将の義元が信長の攻撃を受けて討ち死にし、今川軍は逃げ出した。

Q. 選択
・信長に挑み続ける
・観念して自害
A. 自害する覚悟をした家康は、生まれ故郷のある大樹寺へ逃げ込んだ。
家康にとって、先祖を祀るゆかりの深い寺。
登誉天室上人から「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」という言葉を教わり諭された。
(けがれたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土をこい願うこと)
生き抜いて戦国の世を終わらせ、平和な世界を作ることを決意した。
戦う時にも敵を滅ぼすというのが目的ではなく、皆が幸せになるためにというのが目的。

仏教の教えとで出会ったことで、平和な世を作ることを決意した。


家康が信長に鞍替えした理由は?
生き別れていた於大の方(家康の母)と再会することができるため。
これが、同盟を結んだ最大の理由ではないかと言われている。
家康は全国クラスの大名になった。

事件-4(家康 22歳)
僧侶や農民たちが反乱・大苦戦した三河一向一揆

一向宗の信者による反乱。
一向一揆は組織だった軍隊に近かった。
さらに家康にとって誤算だったのは、自分の部下にまで裏切られた。
家臣もこの反乱に加わり、攻撃してきた。
天下統一に大切なあるものを手に入れた。
「一向」とは、ひたすら念仏を唱えるという意味である。
ひたすら念仏を唱えながら攻撃してくる信者に家康は苦戦した。
彼らが反乱を起こしたきっかけは、一向宗の寺からも年貢を取り立てることにしたため。
家康軍は戦続きで財政難で、年貢米が不足して、家臣にも給料を払えないでいた。
怒った信者たちが反乱した。
家康は、そんなに苦労しないだろう、力で抑えられるだろう、と考えていた。
しかし一向宗の勢いは衰えず、国中の寺が反乱するまでに広まった。
お寺が「ものスゴイ要塞」だったため、家康軍は大苦戦。
浄土真宗の本證寺には、お堀や見張り台があり、寺の裏には盛り土の防壁がある。
さらに、火縄銃などの鉄砲まで持ち、立派な軍隊なみの戦力がある集団だった。
家臣まで裏切ったため、家康は自ら出陣、兜に二発の弾丸を受けてしまった。
一揆側についた家康の家臣団も、家康の姿を見たら逃げていく人が出てきて、戦意を喪失し、和議を結ぶことになった。
一揆側から休戦の提案「お寺をもと通りにしてほしい」という約束が取り交わされた。
Q. 選択
・条件を飲む
・徹底的に戦う
A. 家康はその条件を飲むことにしたが、これは相手を油断させる戦略だった。
「お寺が経つ前は野原だったんだから、野原にすれば、もと通り」という解釈。
しかし、それ以上の命はあやめなかった。
一揆を鎮圧し、国内に平和を取り戻した。
Q. 家康は、裏切った家臣をどう決断したか
・首を斬る
・許す
A. 許した
徳川二十神将図に残っている。
江戸幕府を開くのに大きく貢献した家臣たち20人を描いた絵
本多正信は裏切って命を狙った男。
裏切った多くの家来を許し、後で重要な役割を与えた。
徳川家康独特の人材活用の仕方。
許されたわけだから、彼らは絶対に忠誠を尽くすはず、と考えた。
彼らが刃向かったのは、宗教的理由からで、謀反を企ててやっていたのではなかったため。
裏切ったメンバーが抜けると、相当家臣団の力が弱くなるという事情もあったようだ。

裏切った家臣を許し、天下統一に貢献させた



「元康」から「家康」へ改名したのは
22歳で桶狭間の戦いの後、戦国武将として独立し権威ある名前にしようとした。
改名にまつわる貴重な史料がある徳川家の倉庫。
葵の御紋が刻まれた立派な箱。
御系図:尾張徳川家初代藩主の義直が作らせた徳川家の系図。
平安時代からの徳川家のつながりが書いてある。
家康の「家」の字の由来となった人物。
さかのぼると「源義家」平安時代の武士で、鎌倉幕府を開いた源頼朝のご先祖様である。
家康は、源氏の一員として義家の「家」をもらったと言われている。
「家」には源義家から連なる、源氏の武士としての誇りが込められていた。


「今の東京に影響を与えた徳川将軍」の記事はこちら(2016年7月23日)
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http://ameblo.mom/miyacar/entry-12183193132.html

では、明日。