◆アナザーストーリーズ「美空ひばり・魂のラストステージ」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。

▼横浜市にある美空ひばりさんの銅像


◆魂のラストステージ
元・専属指揮者のチャーリィ脇野

1989年2月7日、福岡県小倉厚生年金会館
命懸けで届けた最後の歌声。
当日の映像はない。
脇野には、ひばりの体調は知らされていなかった。
移動時間を短縮するため、ひばりはヘリコプターでやって来た。
いつもは開始前に打ち合わせをするのに、横になっていた
いつもと様子が違い、舞台にイスが用意されていた。
開演時間になっても、楽屋からゴーサインが出なかった
バンドメンバーの間にも動揺が走った。
予定より遅れること15分、演奏開始の合図が出た
1100人のファンを前にオープニングメドレー、そしてひばりの登場。
客席のファンは、いつもと同じひばりの歌声に酔いしれた。
しかし、脇野はひばりの歌声に異変を感じた
たまに意識が遠くなったり、必死に歌っていた
5曲目の後のMC
43年の歌手人生で初めて、自ら椅子に座った。

真相を知る人物がいた
医師・梶原収功さん
肝硬変の影響で食道に静脈りゅうが出来ていた。
歌うことで血圧が上がり、破裂すると血液が気管に流れ込む危険性があった。
もしもの時は人工的に肺に酸素を送り込もうと、器具を用意していた。

ひばりは昼の部が終わり、点滴を受けていた。
夜の部の中止も検討されたが、ひばりは強行した。
楽屋からステージの間のわずかな段差は、カーペットを弾いたが、越えるのがやっとだった。
それでもひばりはファンの待つ舞台に上がった。
MCでヘリコプターの話もした。
音響スタッフ上松さんも気づいていた。
裏声が出ていなかった。
ひばりは曲と曲の間で袖で倒れかかり、スタッフに抱えられた。
だが、ひばりは歩いてステージの中央に戻って平然と歌っていた。
スタッフも舌を巻いた。
ひばりの歌声はいつもと変わらず、聞く者たちの心に染み渡った。

◆中止か続行か、迫られた決断
ステージ責任者:息子・加藤和也さん
当日は花道の影から見守っていた。

この後に控える全国ツアーのチケットは完売していた。
中止となると、およそ2億円のキャンセル料がのしかかる。

ひばりは若い和也にこれほどの重責を任せた。
ひばりを支えてくれた母・喜美枝は、ひばりが44歳の時に他界
ひばりの弟・哲也も2年後にこの世を去った。
支えてくれた者はいなくなった。
残されたのは弟の息子、和也ただ一人。
養子に迎えた和也がひばりの生きるハリとなった。

仕事で家を開ける事が多かったひばり
一緒にいられるのは、1年のうち、わずか20日ばかり。
それでも和也にさびしい思いをさせまいと、労を惜しまなかった。
出かける時には必ず置き手紙を書いた。
夜、眠れない和也のために、自分の歌をテープに吹き込んだ。

和也が15歳の時、ひばりが不調を訴えた。
肝硬変と股関節の骨が壊死する病気だった。
およそ100日に及ぶ入院生活を余儀なくされた。
しかし水面下では、復帰をかけたイベントが進んでいた。
当時完成間近の東京ドーム(1988年3月17日完工)のこけら落としコンサートだった。
その話を知った時、和也は声を荒げて反対した。

体調は完全には程遠い、それでもひばりは復帰に向けて歩き出した。
東京ドームという大舞台のこけら落としを任された誇り、そしてファンに元気な姿を見せたい
という強い思いがひばりの背中を押した。

4月11日、一年ぶりのステージ
(東京ドーム復帰コンサート)
全39曲を歌い上げたひばり
和也は一瞬の表情を見逃さなかった。
ひばりは、この日のことを日記にこう記している
「ファンの前で熱唱しているのに、少しも満足していない。こんな気持ちであと何年持つのか?」
その葛藤をよそに、世間は女王の復帰に沸いた。
ひばりはその期待に応えるため、体調が戻らないまま活動を再開。
和也をその姿を目の当たりにして、母を支える仕事をしようと決めた。
ひばりは16歳の和也を、事務所の副社長に任命、和也は母を守るために戦った。

和也が仕事に加わり、ともに過ごす時間は増えていった。
そして生まれた、ひばりの新たな目標。
和也を一人前のプロデューサーに育て上げる。
全国28ヵ所を回るツアーは、そのための足がかりとなるはずだった。
だからこそ、ひばりはあの日もステージから降りなかった。
全20曲を歌い上げ、ステージを成功させた。
そして幕が降りた直後、倒れた。
和也は全国ツアーの中止の決断をひばりに伝えた。
「和也の代になって、まともに歌えないのは悔しい」と言ったこともある。

◆女王が最後の歌に秘めた思いとは
音楽プロデューサー・境弘邦

最後のアルバム『不死鳥パート2』では、『川の流れのように』が、メインの曲となった。
発売直前まで、別の曲になることが決まっていた。
30代の人が一番遠くにいるお客さんであり、その年代に向かった歌を歌おうとなった。
若きヒットメーカーに依頼した、作詞家・秋元康(当時32歳)
アイドルのヒット曲を量産し、若い人の心を掴んでいた。
ひばりの意向に沿って、個性豊かな10曲を作り上げ、アルバムに収録された。
境が30代に受けると見込んだのは、ノリが軽快な曲『ハハハ』
『笑っていいとも』などにちょこちょこ使ってもらったら、評判が良かったという。
しかし、天皇陛下の容体が悪化したため、シングルの発売を間近に控えた昭和63年暮れに、方針が一変した。
ひばりには人生を歌った歌は何曲もある中、新たにこれを候補にしたいと持ちかけられ、最後までひばりは譲らなかった。
ひばりは、「川」の説明を何度もして、これにこだわった。
9歳からデビューし、順風満帆。
その裏では葛藤を抱えて来た。
自分で選んだ道だからと覚悟を決めてきた。
そんなひばりに人々は魅せられた。
『川の流れのように』が発売されたのは、昭和という日が終わった4日後のことだった。

舞台袖でみていた境は、最後の幕引きは自分の手で下ろすというのがひばり自身にあったのだと感じていた。

43年の歌手人生の最後の歌声となった「川の流れのように」最後の歌と思えないくらい、見事に歌いきっていた。

6月24日、ひばりは世を去った。
葬儀会場に流れたあのメロディー。
参列した歌手の間で、誰からともなく口ずさんだ。
外へ流れて、外で待つファンの間で大合唱となった。

ひばりがこの世を去ったのは、発売されてひと月後。
したがって、この歌は数えるほどしか歌っていない。
その歌声はわたしたちとともに生き続けている。
川は大海原へと注ぎ込んだ。


前回の「アナザーストーリーズ・フォーライフレコード」の記事はこちら(2022年4月18日)
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では、明日。