◆アナザーストーリーズ「フォーライフレコード設立」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
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▼写真AC:HiCさん提供のフリー素材


1975年4月11日 赤坂プリンスホテル
フォーク界の大スター・吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるが記者会見を開いた、
新しいレコード会社の立ち上げを発表した。
「ミュージシャンによるミュージシャンのための新しい会社である」
これには世間が驚いた。
既存のレコード業界に対する宣戦布告だった。
史上空前の野外コンサートも決行。
その船出も、順風満帆とは言えなかった。
現実の分厚い壁に突き当たった。
4人は何を成し遂げ、何をなしえなかったのか。

視点1
「自由への旅立ち」
初代社長・小室等
強烈な個性を持つ4人は、どうやって結集されたのか。
そして、彼らを待っていた逆風とは。
4人の中の兄貴分が語る「冒険」

会社立ち上げの瞬間から、凄まじい波風に直面した。
小室「レコード業界を敵に回すこと。干されたって仕方ない」4人は立ち上がった。

ミュージシャン自身の自由と権利を勝ち取るために計画を企てた4人を、世間は兄弟になぞらえた。
長男は、最年長の小室等(当時31歳)
バンド・六文銭のリーダーで、フォーク界に幅広い人脈をもっていた。
作曲した「旅立ちの歌」は、世界歌謡祭のグランプリを受賞。

次男は、吉田拓郎(29歳)
ラジオや、ライブコンサートで圧倒的人気を誇る若者のカリスマ。
レコードを出せば必ず売れる、まさにドル箱スターだった。

三男は、その豪快さで狂犬と呼ばれた・泉谷しげる(26歳)。
確かなギターテクニックと荒々しい表現で、コアなファンを獲得していた。

末っ子は、井上陽水(26歳)
アルバム「氷の世界」で、日本初のミリオンセラーを叩き出した一番の稼ぎ頭。
4人合わせた総売り上げ100億円の旗揚げだった。

彼らには「シンガーソングライター」と言う共通点があった。
ギター1本あれば、自分で歌詞を書き、曲を作ることができる。
誰にも邪魔されずに曲を作り、収入を得ることを望んでいた。
当時のミュージシャンは、レコード会社に縛られていた。
小室「レコードを出すと言うことは、専属契約を結ぶというのが、当然のことなんです」
逆に言うと、デビューしたければ、専属契約を結ばないといけない。やはり不自由というのは、どうしても否めない。
「ひもで操られた状態」
ミュージシャンはあくまでも雇われる立場。
年間で出すレコードの枚数などノルマが課せられ、時には本意でない曲作りも強いられた。
泉谷「歌手というものの、地位が低かった。プロデューサーの決めた歌を歌わないとダメだったし、ましてや自分で曲を作ることなどもっての外だった。その苛立ちがフォーク、自作自演という形で爆発した」
そのためレコード収入の大半はレコード会社に取られ、シンガーソングライターでさえ、もらえるのはわずか3%程度だと言う。
これはとても納得できるものではなかった。

そんな複雑な思いを抱えていたある日、小室の元に一本の連絡が入る。
これが全ての始まりだった。
「レコード会社作りましょう。金出すやつがいる」と。
小室「そう言うことだったらちょっと羽ばたきたいと思っていた」
話を聞くと、数億円の資金を提供してくれると言う。
さらに海外での成功例が背中を押した。
ビートルズなど海外アーチストが、自分の会社を立ち上げ、自由な創作活動を始めていた。
この話には自由感が伝わって来た。
小室「拓郎さんとは、コミュニケーションを取っていた。小室が言っても、人は聞く耳持たないだろうが、拓郎さんが言ったら、人はおっと思うだろう」
そうは言っても拓郎さんは押しも押されぬソニーのスター、ソニーがそんな簡単に「わかった」と言うわけもない。
拓郎は「やってもいいけど、条件がある。陽水を連れてくれば、俺はやってもいいよ」
だが陽水はポリドールレコードで売り上げの半分を稼ぎ出す超売れっ子。
陽水のデビューシングルは、小室がアレンジャーで携わっていた。
話したところ、陽水ものって来た。

3人は夜の街で密談を続けた。
誰かもう1人誘おうということになり、全員「泉谷だよね」
聞いた泉谷は「冗談だと思ってました。どんな冗談でもいいから乗ってみよう」
泉谷を誘うには理由があった。
小室「乱暴者というレッテルは貼ってあるが、泉谷のセンス。このストローク観。泉谷じゃなきゃ出ないリズムなんですよね」

次に会社の運営に必要なスタッフを集めた。
同じ夢に結集したスタッフは18人。

だが、思いもよらぬことが起こった。
出資を約束した人物と連絡が取れなくなったのだ。
それまでの会社を辞めてついてきてくれた者もいるので、引くに引けない。
まだ公表していない計画を新聞ですっぱ抜かれた。
出し合った資本金は3000万円。
所属のレコード会社には契約延長しないことを通達。
社名はフォーライフレコード、「生活のために」という意味、4人という「Four」も込めた。
小室「私たち音楽の流れを変えることができるか、証明していきたいと思います」
ポリドールレコードも戸惑い、CBSソニーは「非常識は戒めたい」と厳しい態度を取った。
大手レコード会社相手に売った喧嘩は、最初からしっぺ返しをくらった。
レコードのプレス作業。
どこの工場もフォーライフの仕事で使うことができなかった。
そんな窮地を手を差し伸べたのが、利害関係がなかった別のレコード会社。
なんとか第一弾として、泉谷のアルバムライブレコーディングをレコードに落とした。


視点2 日本のコンサートを変えたい
川口勇吉(当時・ユイ音楽工房マネジャー)

ドタバタの中「音楽の流れを変えたい」という志は揺るがず、次の一手が打たれていた。
吉田拓郎とかぐや姫による「つま恋コンサート」
動員数は前代未聞の6万人。
野外でオールナイトという画期的な試みだった。
ライブで直接歌を届けたいと言う熱い思いに共感して西から東から6万人もの観客が集まり、音楽史に残る伝説となった。

責任者だった川口には、今も46年前の光景が焼き付いている。
それは、想像をはるかに超えるものだった。
きっかけは1969年のウッドストックコンサート。
アメリカで行われた大規模野外コンサートだった。
フォーライフ創立1年前に、後藤由多加は会場の視察も行った。
その情報を持ち帰ると、拓郎は「日本のウッドストックをやりたい」
後藤は副社長に就任した。
企画書には拓郎の熱い想いが込められた。
「時間制限のない中、歌い尽くし、語り尽くし、奔放なアーチストのあり方を展開してみたい」

当時の歌番組に出ても、3分以内に曲を収めるように言われて、曲をカットせざるを得なかった。
歌に込めたメッセージを直接ファンに届けたい。
拓郎が大切にして来たのがコンサートだった。
そこが主戦場である。
ヒッピー文化が若者の個々をつかんだ時代で、ファンの多くは金のない学生だった。
そこで、チケット代を安く抑えた。
多くの学生が来て売れれば、いずれはフォーライフのレコードの売り上げにつながるだろう。
格安の2500円にし、目標は4万人の動員。
コンサートは夏休みの8月2日に決定。

音楽ってその当時不良みたいに思われていたため、会場選定には苦戦した。
有力な候補地が見つかった。
つま恋リゾート、楽器メーカーヤマハの所有地だった。
ヤマハのスタッフとして対応にあたった木下さん。
当時の掛川は新幹線も止まらない、人口6万人の小さな街。
駅からの道は安全な歩道があり、大人数が待機できる。
周囲は茶畑で騒音被害の心配もなかった。
チケットがほとんど売れていたから5万4000人が来る。

静岡県警が不測の事態を恐れ、中止勧告を出してきた。
18歳以下のファンには払い戻しすることにした。
つま恋リゾートの最高責任者・川上源一(ヤマハ発動機株式会社創業者)は「オートバイだって、楽器だって、全部若者のための事業だから、応援しなかったら俺が笑われるよ」
県知事を訪問し、理解を得た。
警察や教育委員会からの不安の声もおさまった。

不安を吹き飛ばす事態。
若者たちが会場近くに押し寄せ、野宿を始めたのだ。
自由席だから、より前の席に行きたかった。
その人数は日に日に増え、ござとか、蚊取り線香とかが掛川から売り切れた。
お寺も開放し、50~60人の若者が雑魚寝した。
商店はトイレも提供し、お腹を空かせた彼らにおにぎりを振る舞った。
茶畑をトイレ代わりに使う者がいて、スタッフは便を拾った。

地元の人々のさまざまな協力のもとようやくこぎつけたコンサート。
掛川に、全国から若者が集結。
午後5時、拓郎がステージに上がった。

当時を知る舞台スタッフ・木宮は拓郎の意外な姿を見にした。
ステージに上がる寸前に2本のビールを一気飲み。
「緊張していたのだと思います」

朝5時まで12時間ぶっ通しの野外コンサートが始まった。
7組のアーチストが歌う108曲にファンは酔いしれた。

5時が近づいた明け方、拓郎自身の59曲目・最後の曲『人間なんて』。
6万人の大合唱は10分間続いた。
夜が明けて来て、お客さんが安全に帰れることを配慮し、曲を延ばすようにプロデューサーが舞台袖から拓郎にサインを出していた。
こうして、つま恋コンサートは伝説となった。


視点3 自由と責任のジレンマ
泉谷しげる

こうしてフォーライフレコードの活動にも注目が集まったが、年を追うごとにメンバーが離脱、最後に残ったのは小室等だけになった。
最初にフォーライフを去った泉谷。
泉谷「誰よりも自由を好んだだからこそ、1年目は楽しくて仕方なかったけど、2年目あたりから居心地の悪さをだんだん感じ始めた」

つま恋の勢いそのまま4人は楽曲作りに邁進した。
初年度黒字になり、快調なスタート
拓郎は新人のプロデュース
泉谷はアメリカでのライブ

4人はいよいよセッションアルバムの制作に取り掛かる。
『クリスマスアルバム』
自由さがこのレコーディングの中にみなぎっている。
アットホームな雰囲気で限定版として売り出した。
ところが、このアルバムは発売直後にチャートの1位にはなったが、売上見込みへは遠く及ばず約20万枚が返品、あるいは出荷されなかった。
赤字は数億円規模に膨らんだ。
小室は社長としての責任を感じた。
社員の家族がいることを意識した。
自由な創造を求めたはずのフォーライフだが、社員のためには売上が必要だった。
重圧とジレンマに襲われ、小室は身を引いた。
代わって社長を引き受けたのは拓郎だった。
拓郎は音楽活動を封印、スーツに身を固め社長業に専念した。

「株券」とかの言葉がでてきて、泉谷にはアレルギーとなった。
フォーライフを救うため、社長業に徹した拓郎。
フォーライフの自由さを優先した泉谷。
創立から3年、泉谷は去った。
拓郎は音楽活動を再開したが、社長業は続けた。
売上至上主義を公言してはばからなかった。
拓郎は6年かけて会社を立て直すと社長を引き継ぎ、アーチスト活動に専念した。
1999年、全てをやりつくした拓郎は去った。
その後、井上陽水も。
ただ1人、小室等だけが残った。
小室は「しでかした人間として、最後まで見届けたかった」
小室は今でもフォーライフレコードの契約アーチストとして活動を続けている。

あの時の4人の日本の音楽業界がその後のアーチストに与えた影響は大きかった。

拓郎が成功したオールナイトのコンサートは、夏の風物詩としてフェスという形で多くのアーチストが野外コンサートを開催。
権利の意識に目覚めたアーチストも生まれた。
原点にはあの日の4人がいた。

吉田拓郎にコメントを求めたところ「現在の心境を聞かれれば、余計な熱量を費やした時間になってしまった・・・」

泉谷「俺のことを必死に止めていたのは拓郎だった。応えてあげたかったな。吉田拓郎、すまん」
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ここにかぐや姫もいて欲しかった。
声はかかったのだろうか。
「アーチストの権利」などは、矢沢永吉さんも言っていることでもあり、最近はアーチストがレーベルを立ち上げたりして、4人の立ち上がったことは決して間違っていなかったと思う。
NHK-BSの当番組は終了してしまって残念に思っていたが、4月からNHK Eテレで「アナザーストーリー E+」として放送された。


前回の「アナザーストーリー」の記事はこちら(2022年1月27日)
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http://ameblo.mom/miyacar/entry-12722887126.html

では、明日。