
カズレーザープレゼンツ:渋沢栄一のスゴい偉業スペシャル
倒幕派から一転、徳川慶喜に仕えた。
フランスに渡った後、大蔵省の役員になった。
約500社もの企業の設立・育成に関わった。
1. バラバラだった貨幣を統一
大蔵省に入った1869年
江戸から明治に変わり、時代の変換点に江戸時代までの制度を全て見直した。
近代化に向けて大きく舵を切る必要があった。
徳川慶喜に仕えていてフランスから戻った際に大政奉還になり、明治政府に仕えた。
30歳になる時、のちに総理大臣になる大隈重信に説得され、明治政府の役人になった。
ここから今の日本につながる制度やシステムづくりに関わっていく。
明治政府に入って、改正掛(かいせいがかり)という部署を立ち上げて、そのトップになった。
国の制度の立案・調査を行う部署であり、今で言うシンクタンクのようなもの。
経済や海外のエキスパートと、制度を改革した。
中でも重要だったのが、貨幣の統一。
江戸時代の貨幣は、金貨(小判)・銀貨・銭貨
明治初頭の札は、太政官札など。
これらがごちゃごちゃになって流通して商売が混乱していた。
大阪で使えるお金が東北で使えないことが起こり、経済が停滞していた。
渋沢たちの改正掛は、新貨条例という草案を発令して、円に統一した。
新貨幣を製造したのが、五代友厚。
薩摩出身の実業家で、大阪経済の発展に尽力した人物。
大阪市内には、五体も銅像がある。
渋沢と五代は、事業の報告などを、手紙でやり取りしていた。
五代は、イギリスから造幣機械を導入し、円を製造した。
江戸時代後期の銀貨や銭は質が悪く、価値がバラバラという問題があった。
そう言った問題が起こらないように、五代が貨幣作りに尽力した。
1871年に廃藩置県が行われた。
全国に約260あった藩を廃止、代わりに県や府を置く行政改革を行なった。
明治政府は、国の方針を全国各地に伝えるため、自分たちが任命した人間を配置した。
藩主はそれまでの地位を失った。
当時の上司である井上馨から廃藩置県を聞いた。
それまで、藩ごとに藩札と呼ばれる独自の紙幣を発行していた。
「今藩札を廃止したら、ただの紙切れになってしまう」
渋沢たちは4日間で全国各藩の財務状況を調べて、円に換算する必要があった。
改正掛は不眠不休で調べあげ、大きな騒動も特になく、廃藩置県を成功させた。
実際には、東北では寛永通宝は昭和初期まで使われていた。
円が世間一般に流通するまでは、時間がかかった。
旧貨幣との交換を進めて行き、海外からは高く評価された。
改正掛が存在したのは2年間だが、その間に
貨幣制度、戸籍法、電信設置、身分制度の改正、殖産(しょくさん)興業推進
全国の測量、度量衡の統一、暦法、租税制度の改正・・・、200もの案件に関わった。
学べることは
「時代の変化に対応することが大切」
2. 新たな通信制度
郵便の実現に尽力
1871年、渋沢32歳
それまでは飛脚便
江戸・大坂間にかかる日数の値段
・一般的な常便・約15日・約1600円
・早く届く早便・約6日・約140万円
遅延することもよくあった
1両=13万円として、今の値段に換算
渋沢が発案した改正掛には、こんな人物もいた。
郵便の父・前島密
・改正掛の一員
・日本を船で2周していた
・語学も堪能だった
「政府は文書のやり取りで毎月莫大な金を使っている。このお金を使って国で新たな飛脚制度を作りましょう」と渋沢栄一に進言した。
1871年、郵便スタート
彼が取り組んだ画期的な配達システム
東京から大阪間の各所に郵便を取り扱う箱を設置(書状集箱)
1日1便を実現し、東京から大阪を約3日で配達
140万円だった料金も750円に変更した。
郵便の実現で、国内の情報伝達がスムーズになった。
東京から大阪間に多くの中継地点を置いた
東海道の宿場町を中心に、継立場と言われる中継地点を用意し、配達員はそこで待機して、リレー形式で荷物を運んでいた。
1872年 黒塗柱箱(高さ123cm)
が登場したが、当時は公衆便所と間違える人が多かった。
黒いから夜間は見えにくいため、1901年赤色のポストが試験的に導入された。
一部の郵便局員は郵便物を守るため、郵便保護銃と呼ばれるピストルを身につけていた。
1890年に前島密は電話サービスの立ち上げにも関わる。
林修「いち早く情報の伝達システムに取り組んだ先見性がスゴい」
カズ「軍事力を上げる方向でなく、生活基盤の向上に着目する発想がスゴい」
3. 日本初・銀行を作って経済を活性化
渋沢は当時の上司である大久保利通と対立し、わずか3年半で大蔵省を辞職。
1873年、官僚を辞めて民間の実業家に転身した。
第一国立銀行(みずほ銀行の前身)が民間資本で設立され、日本橋・兜町に建てられた。
現在その場所にはみずほ銀行兜町支店があり、「銀行発祥の地」とプレートがある。
渋沢は日本経済を発展させるため、銀行を設立し、企業に資金を貸せるシステムを導入した。
当時は事業者向け中心で、1880年から個人の普通預金開始。
貸し付けるお金はどうやって調達した?
苦労したのは出資者集め。
当時は誰も銀行を理解してくれなくて大変だった。
広告で、銀行は大きな河のようなものだと例えた。
将来的には国のためにも個人の預金が必要になると考えていた。
「銀行」と名付けたのは、渋沢とも言われている。
東洋で銀貨が広く流通して、語呂が良かったため。
第一から第二と増え、6年後には第百五十三まで設立された。
渋沢栄一が関わった企業
王子HD、損保ジャパン、サッポロビール、帝国ホテル、毎日新聞
渋沢は生涯を通して約500社もの企業の設立・育成に関わった。
渋沢は給料はほとんどもらっていなかった。
基本的には第一国立銀行の役員報酬のみ。
渋沢が大事にしていたのは「人との出会い」。
朝6時から家の訪問客が途絶えなかった。
10時には事務所の訪問客。
政界にも実業界にも人脈を持つ渋沢を頼る人が多かった。
渋沢は職業問わず、会える人と会い、どんな人とも前向きに会っていた。
「社会のためにも私は誰に対しても城壁を築かない」
学べること『どんな人の言葉にも耳を傾ける」
アド街ック天国「ハッピーな埼玉スペシャル」の記事はこちら(2021年1月11日)
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http://ameblo.mom/miyacar/entry-12649307061.html
では、明日。