▼天壇公園: ハダシストさんによる写真ACからの写真

秦の始皇帝が都を置いた陝西省の西安。
その後も漢、唐も都を置いた歴史の町。
12・3キロ四方、町の中心部を城壁が囲んでいる。
城壁は14世紀、明の時代に整備されたもの。
西安の町にはいたる所に歴史の遺産が残されている、
郊外に点在するのは、漢の時代の皇帝の陽陵(漢の皇帝・景帝の墓)。
唐の時代に作られた高さ64メートルの大雁塔。
三蔵法師がインドから持ち帰った仏教の経典が納められていた。
町の中心部には、鐘の音で人々に時刻を知らせた鐘楼がそびえている。
古都・西安の発展の秘密は、シルクロードなどでの他国との交流にあった。
ラクダに乗った隊商の像、古くから西安がシルクロードの玄関口だったことを示す。
この影響が今も西安の町に色濃く残っていて、イスラムの町のようである。
小麦を中心とした食文化は、西方から伝えられたとされる。
中国が誇る麺の文化も、西からの小麦の伝来によって花開いたもの。
兵馬俑も、ずっと西の文化のギリシャ彫刻の影響を受けたとする中国人の専門家もいる。
中原から見れば、西の辺境の地だった西安、しかしその後の歴史の中で、文化交流の中心地となっていた。
商鞅による改革で、中原の国々をも凌ぐ軍事大国にのし上がった秦。
始皇帝より5代前の恵文王の時代、その圧倒的な力を背景に領土拡大に乗り出した。
しかし、それとともに難題を抱え込むことになる。
それは、支配した国々にその地域独特の文化や風習が根強く残っていたことだ。
紀元前316年、秦は南に侵攻し、現在の四川省にあった巴蜀の国を占領した。
この地域独特の風習を示すものが2016年四川省中部の町で発掘された。
大木をくり抜いて作った棺
巴や蜀の貴族たちの多くが木製の棺に埋蔵されていた。
船の形をした船棺
大きな丸太のの一本をくり抜き、船の形に加工し、埋蔵していた。
船棺の多くには、寄贈品として青銅の武器が納められていた。
そこには、不思議な模様が残されていた。
巴蜀符号と呼ばれ、独自の文字であるとも、部族を示す記号であるとも言われている。
それぞれの記号が何を意味するのかは、未だに解読されていない。
秦が進出した巴蜀の地、そこは秦とは全く異なる文化を発展させた地域。
巴蜀を占領した秦はさらに長江を下り、楚の国へと進出した。
この地の遺跡から出土したものは、独特の文化を持っていたことを今に伝えている。
ガマガエルを模した獣の上に、羽を広げた鳥。
その頭の上には人と鳥を合体させたような不思議な像。
羽人と呼ばれる仙人だと考えられている。
この像は一体何のために作られたのか、いまだにわかっていない。
動物を模した木彫りの像に吊り下げられた直径1メートルを超える巨大な太鼓。
宗教儀式で演じられた楽器だとされている。
地面に足を踏ん張るように支える虎、その上に乗った首の長い鳥が背中合わせに大きな太鼓を支えている。
正面を彩る大胆な配色の漆塗りがある。
漆の高度な技術は楚の文化の特徴。
楚の王が眠っていた棺に描かれていたのは、鳥の羽をまとった異様な姿の人だった。
神と人と間を媒介するシャーマンの姿を描いたものだとされている。
かつて楚の国だった湖北省の山あいの村。
ここには、端公の舞という独特の儀式が今も伝えられている。
端公と言われるシャーマンが、一心不乱に舞って、福を呼び寄せ、訪れた神に願いを伝える。
楚は、秦に最も激しく抵抗した国の一つ。
その中心人物が、楚王の一族だった屈原。
伝統的な民謡を基にした詩を
感情豊かに綴った詩人としても知られている。
屈原は、秦と対抗するために、東にあった斉の国と同盟を結ぶことを主張した。
それに対して秦は、外交交渉によって、楚の王を説得する手段に出る。
「斉との同盟をやめ、秦とてを結ぶようであれば、600里の土地を与える」
強大な秦への恐怖心から、楚の王は斉と断絶し、秦とてを結ぶことを選んだ。
しかしこれは秦の策略で、土地は与えられず、秦は斉と同盟をして、楚を孤立させた。
これを機に楚の勢力は弱体化した。
それでも楚の宮廷では、秦に抵抗するのではなく、秦と結んで生き残ろうとする意見が大勢を占めていた。
秦と徹底抗戦することを主張し続けた屈原は、ついに
反対派の謀略で宮廷を追われた。
髪を振り乱し、枯れ木のようにやせ細って、川のほとりをさまよったと言う屈原。
祖国を憂い続けた屈原が、ついに汨羅(べきら)という川の深い淵に身を投げた。
旧暦の5月の端午の節句の祭りは川に身を投げた屈原を偲んだことから始まったと言われている。
屈原を探すため、地元の民が龍の船で漕ぎ出したという伝説から始まった龍船レース。
端午の節句に食べるちまき。
その風習も、屈原の体が魚に食べられないように、米を笹の葉に包んで川に投げ込んだことに始まる。
屈原を悼み、ちまきを川に投げ込む人々が今でも絶えない。
楚の文化を愛した龍谷の詩人・屈原は、今も人々の心に生き続けている。
言葉も文化も異なる地域を次々と征服し、支配下に置いた秦、秦はこうした占領地に行政官を派遣し厳格な法律によって治めようとした。
しかし、各地から秦の支配への反発が起こった。
各地の行政官が支配地に手を焼く姿が詩になって残されている。
早稲田大学の工藤元男教授は、反発の理由は秦の制度が、地元の制度と相入れなかったため、といている。
力への支配の限界に気づいた秦。
反発する支配地の人々を治めるため、常識を覆す大胆な戦略を打ち出した。
その手がかりが秦の法律文書の中に残されている。
そこにはなんと、秦が自らを夏であると定める記述があった。
夏という意識はもともと中原の国が夏王朝の権威を利用して周辺の国々を排除するために生み出したもの。
秦はそもそも中原の夏から野蛮だとされる存在だった。
それを周辺の秦こそが夏であると、都合よく解釈する逆転の発想。
しかも秦は秦だけでなく、秦に従った国も含めて夏だとした。
こうして、もともと中原の国々だけを指していた夏を
周辺を次々に取り込み膨張するという巧妙なシステムに大転換させた。
紀元前246年、始皇帝が即位。
秦は統一への最終段階を迎えた。
多様な文化を持つ国々を次々と滅ぼしている始皇帝。
紀元前221年、史上初めて中国を統一した。
この統一を支えたのが、強大な軍事力と夏王朝の権威を利用した巧みなシステムだったのである。
阿房宮・始皇帝が統一した後築いた宮殿を復元したもの。
始皇帝の歴史を物語る壁画を見ると、始皇帝は中国を統一しただけでは満足したわけではなかったことがわかる。
統一してもなお、さらなる周辺の地域を征服しようとした始皇帝。
外に敵を作ることで、ようやく統一した多様な国々のまとまりを維持し続けようとしたとされる。
最近の研究で、始皇帝は統一を維持するために、ある壮大な計画を進めようとしたことがわかってきた。
中国を統一した始皇帝は、陝西省・西安の黄河・渭水(いすい)に広大な都を建設した。
威陽宮跡、阿房宮跡が残っている。
最近、都だった場所から奇妙なものが出土した。
5000個に及ぶ粘土のかたまりである封泥(ふうでい)で、荷物の送り主や中身を示すもの。
こうした封泥から、金や塩など貴重な品々が大量に集められていたことがわかる。
この場所は、始皇帝の都の中でも、極めて重要な施設があったのではないか。
「史記」に記されていた「極廟」、始皇帝が天を祀るため北極星をかたどったのだと伝えられている。
この場所が極廟だったのではないか、学習院大学の鶴間和幸教授が、封泥が出土した場所を衛星写真で重ねてみると、この場所が北極星のように都の中心になったことがわかった。
ここが史記に書かれていた極廟だった。
北極星は中国では太古から帝と呼ばれ、人々に天命を送る神として崇められてきた。
始皇帝は、北極星という究極の権威によって、統一を維持しようとしていた。
始皇帝は統一後、それまでの王という呼び名をやめ、皇帝という称号を作り出し、そして自らを始皇帝と呼んだ。
その皇帝という称号は、煌煌と輝くという意味の「皇」と、北極星を表す「帝」という言葉を合わせたもの。
さらに、天の世界をかたどっていたのは、極廟だけではないこともわかった。
始皇帝は極廟を中心として、宮殿など都全体を天の星座に重ねていたという。
天の世界を写したという秦の都はどのようなものだったのか。
衛星写真に重ねた遺跡の配置を実際の天体と比較した。
星の位置は長い年月の間に少しづつ変化する。
2200年前、始皇帝の時代の天体を再現した。
当時の北極星は、こぐま座という星座の今とは反対側の端にある。
都の配置は10月の星座と重なっている。
秦では、一年の始まりの季節。
威陽宮はペガサス座、渭水橋はカシオペア座と重なり、極廟の場所は、当時の北極星に重なった。
始皇帝が天の世界を再現した秦の都、その中心を流れる大河・渭水が天の川を表していた。
宮殿などの建築物は、夜空を彩る星座1つ1つと重ね合わされている。
そして、北極星に位置する場所に築かれた極廟、のちに始皇帝自身を祀る始皇廟となったと言われている。
始皇帝は宇宙の中心という究極の権威で、多様な中国の統一を維持し続けようとしていた。
北京の中心地に、毎日多くの人々が集まる公園がある。
今は人々の憩いの場所となっている天壇公園。
もともとここは15世紀以降、明王朝、清王朝の皇帝たちが天を担ぐ儀式を行った祭壇だった。
天の中心に立つ皇帝の権威を持って天下を治めるという始皇帝が築いた支配の縮図、それは代々の皇帝たちによって2000年以上にも渡って受け継がれてきた。
紀元前3世紀、秦の始皇帝が成し遂げた初めての天下統一、そこにあったのは強大な軍事力だけではなく、過去の王朝や天の権威を利用した巧みな統治システムだった。
始皇帝の統一の物語、それはこの多様な国の人々には何が必要なのかを雄弁に物語っているようだ。
前回の「古代中国・よみがえる英雄伝説」の記事はこちら(2020年6月4日)
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では、明日。