
第3回「子どもは国の宝」
藩主・島津斉興(なりおき・鹿賀丈史)の悪政に悲鳴を上げている農民をみかねて、吉之助は江戸にいる斉彬に何度も意見書を送った。
父は借金をすると見栄を切った。
父は赤山の所で帳簿付けをしている。
赤山が貸すことを提案したが、赤山自身も裕福でないため、遠慮した。
斉彬は、阿部正弘(老中首座)幕府における最大の権力者に父・斉興の悪行(異国との密貿易)の報告をした。
吉之助と父は、商人の板垣屋に借金をしに行った。
父は横柄な態度をして断りかけられたが、吉之助は土下座をしたため、百両の大金を貸してもらえた。
熊吉の実家に米を届けることになった。
イシばあさんはぎっしりの俵にうれし泣き。
中村半次郎という子どもが親父が島流しにあって、畑を召し上げられて、芋侍と言われている。
別の日、半次郎家族が夜逃げするところ(朝だが)を目撃。
脱藩すると、侍を捨てることになる。
赤山に半次郎の田畑の件を相談した。
江戸では、斉彬の子ども・寛之助が病気で息を引き取った。
12月、阿部は江戸城に調所・広郷(竜雷太)を呼びつけた。
調所は悪行はすべて己一人の犯行だと。
密告者は誰かを訪ねた時に、斉彬が障子を開けた。
調所は自ら毒をあおった。
斉彬は「死なせとうは無かった」
文が斉興の元に届いた。
斉彬派と思われる者たちが、次々と処罰されていった。
お由羅騒動:島流し、切腹など総勢50名にも及んだ。
西郷の父が真っ青な顔をして帰ってきた。
赤山が切腹させられることになった。
第4回
「新しき藩主」
お由羅騒動
幼い頃から師と仰いでいた藩の重臣・赤山靭負(ゆきえ)が切腹
吉之助らは、島津久光のもとへ懇願に行ったが
「おいには、どげんすっこともできん」
半次郎が、侍を捨てずに済んだことのお礼にと現れた。
西郷吉右衛門が赤山の介錯にとの依頼が来た。
1850年3月4日 吉之助も立ち合った。
残酷な現場を見たため、自宅に戻ってへこむ吉之助
誰かを斬りにいこうとすると父が「赤山様の死を無駄にするな」
その後も粛清は続き、大久保次右衛門(平田満)は喜界島へ島流し
最後に吉右衛門と相撲
吉之助は斉彬に「いつまで待てばよろしか」と手紙をしたためた。
翌年、斉興は家慶に謁見
将軍から隠居勧告を受けた。
「斉彬殿に任せられよ」
「薩摩を立て直さなければならんのです」
吉之助の書状で薩摩の窮状を知っていた。
斉彬は、琉球出兵の件は自ら身を引けば丸くおさめると提案したが
頑固な斉興は断った。
メリケンの銃を持って父の前に立ち
お由羅が立ちはだかったが「父上と私との最後の戦です」
1発こめロシアンルーレット
「生き残った方が薩摩の藩主」
斉彬は空砲、斉興は銃を放り投げ、隠居を選んだ。
喜んだ吉之助らは赤山のお墓に報告
1851年5月8日 第11代薩摩藩主・斉彬
43歳にして薩摩藩主に就任し、お国入りを果たした
吉之助は雄たけびをあげた。
前回の「西郷どん」記事はこちら(2018年1月21日)
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では、明日。