好きなものがあるということも


反対に嫌いなものがあるということも


とどのつまりは
とらわれや縛りを生むのだと思う。



好きなものにとらわれるのは、快感を伴うので

案外気にならないが

嫌いなものにとらわれるのは
不快感にさいなまれる。


これは辛いことである。


四六時中、不快感は襲ってくるからだ。


しかし、とらわれているのは紛れもない、自分である。


それこそ、サターンの思うツボだ。

とらわれている間に、人は前進や進化することからそれてしまう。



「愛の反対は無関心」と言ったのはマザーテレサだ。


愛してやまないものも


とんでもない憎悪の対象も


実は表裏一体なのかもしれない。



今日で年内最後になった


東洋思想の私塾の講義に出席したが


「日本美点」の講義のテーマが

「捨てる」ということだった。

名誉も権威も執着も


果ては家族や財産まで


捨てることによって得られる境地が「禅」の世界だそうである。


財産や家族は捨てるのが難しくても


執着くらいなら捨てることは出来るかもしれない。




何にしても「とらわれ」は

心眼を狂わせる。


愛してやまないものも


憎くてならないものも


心眼の窓を狂わせる。


それによって人生さえも狂わせてきた人々を

案外見て来たけど。


とらわれることには一種の麻薬的な魅力があるが


やはりそれも

ほどを過ぎると、軸がぶれる。


何事にもとらわれない境地があれば

人生の寄り道は減るだろう。

寄り道が悪いわけではないが


苦しい寄り道ならやっぱり私にはいらない。