先日、
すごく久しぶりにヒーリングのご依頼があった。
もう15年も前に、
自分が死産や流産を繰り返して心を病んでたとき、
レイキのアチューンメントを受けたり、
富士山の麓の合宿に行って、
長時間合掌行をやったり、
某ヒーリングの会のインストラクター資格を取ったりしたことがある。
数年前も父の再発癌を治したくて、
龍の魔法講座にて、
ドラゴンヒーリングや、
チャクラスキャン、
願望実現ワークを習いに行ったりもした。
しかし、
それは全て自分と家族のためであって、
自分はどちらかと言えば癒し系の人間ではないし、
父の癌に有効な代替医療が欲しかっただけだし、
ヒーラーとしてお金をもらえる人間ではないと思っていたので、
ご依頼を受けても、
お断りしていた。
今回ご依頼を受けさせて頂いたのは、
相談者が癌の再発手術で入院中で急を要するということ、
私のTwitterや過去ブログを遡って読み、
父が癌で再発し、
手術不可の状態から放射線治療で現在、
無治療に持ち込めたこと、
遠隔での効果については不確かである、
ということも了承して頂いたので、
「それでも是非お願いします」
とのことで、
特別にお受けさせて頂いた。
不思議なことに、
その依頼を受ける前夜から、
頭がズキズキ痛んで眠れなかった。
朝、
TwitterのDMに、
「子宮癌が脳に転移して、手術しなければならない。
現在入院中で、週末手術です。
お父様の癌の再発克服の記事を読んで」
との書き込みがあったので、
「ああ、この痛みはこの人のものだったのね」
と腑に落ちた。
レイキのシンボルを送って、
願望実現の為の手放しのワークをやらせて頂いた。
まさに「思い」は「重い」で、
軽くしてぶん投げるしかない。
手放しは1人ではできないから有効だと思ったからだ。
ただ、
思うことは、
誰もが「祈り」の力を持っているし、
「自分」を信じる、
「他者」を信じる、
「必要なことが起こる」と信じれば、
誰もがヒーリングはできると思う。
しかし、
「自分がやってる」という認識を持ってしまうと、
自分のエネルギーを使ってしまう。
だから、
ヒーラーさんで「しんどい」とか、
「こっちが念を受けてしまって」
と言ってる人は、
自分の命を削ってやってる人だから危ないと思う。
エネルギーは無限にある。
呼吸と同じで、
吐けば入ってくる。
それはお金も同じだ。
空気が足りない、
なんて言ってる人はいないだろう。
仮にお客さんの痛みを受けてしまったとしても、
ヒーリングが上手くいけば、
痛みも軽くなるはずで、
占いもそうだけど、
お客さんも自分も、
爽やかな気分になれたかどうか?が重要なんだ。
願望実現のエネルギーワークが終わったあと、
頭の痛さがなくなったから、
「多分これで大丈夫だと思います」
と告げた。
そして、
父にも常に言い聞かせていた魔法の言葉を何度も繰り返して言ってもらった。
「なんだかいけそうな気がしてきました、
ありがとうございます」
「だりあさんに出会えて良かった、
私は運がいい」
と言われたけど、
自分がやってるんじゃない、
全部神がやってる。
自分はただエネルギーを通すパイプに過ぎないんだ。
凄いヒーラーさんとエネルギーワークをやるとわかることだが、
本当のヒーラーさんというのは、
見返りを期待しない。
私が「凄いエネルギーですね」
といくら褒めても、
「そのエネルギーはあなたのものですよ、
あなたが凄いからそう感じるんです」
と逆に褒められてしまう。
如来か!?(´;Д;`)
どこまでもスタンスが、
神で仏で癒し系で涙が出そうになる。
アチューンメントやエネルギーワークは、
そういう本当のヒーラーさんから受けるべきだ。
「私がやってやってる、どうだ凄いだろう」
なんて人はヒーラーではない。
逆に与えるフリして奪う人間である。
数日後、
「手術が成功した」と連絡があった。
「心配していた後遺症や障害も残らなかった」と。
ほっとして涙が出た。
某ヒーリングの会で聞いた、
「聖フランチェスコの祈り」というものがある。
「主よ、私を貴方の伝線にお使いください」
その祈りの通り、
聖フランチェスコは導かれるままに、
たくさんの人々を救った。
しかし、
彼は自分が救っている、
という自覚はなかった。
自分は「神の伝線に過ぎない」
と思っていたからだ。
ただ、
無我夢中で身体が動いただけだ。
気がつけば無意識にやっていたのだろう。
「これをやったら自分はどうなる」
とか、
そこに迷いも期待もなく、
自力ではなかったからこそ、
驚異的なパワーを発揮できたのだと思う。
それは、
火事場の馬鹿力と同じだ。
目の前に死にそうな人が居たら、
後先考えず身体を投げ出すのではないかなぁ?
「思いつきは神様憑き」
神と自分を信じるということは、
良い悪い、
正しい間違ってる、
をコントロールするのではなく、
自分の頭に浮かぶこと、
どんな感情も全て受け入れて、
咄嗟の判断で、
後先考えずに、
損得感情抜きに、
「おまかせ」
で生きることだと思う。
完全なる「手放し」「明け渡し」である。
自分で制限している間はまだ信心していない。
その制限の範囲内の成幸しか手に入らないだろう。
善人の自分も悪人の自分も、
どんな自分も神に愛され、
許されている存在だと信じることだ。
まさに私達はただの「神の伝線」に過ぎないのだ。
私が7年間仏教学校で学んだこと、
悟り関係の書物を読み漁って、
色んなセミナーで感じたことは、
悟りとは、
煩悩を断ち聖人君主になることではない。
己を悪人であると認め、
常に悪人の自覚を持って生きることだ。
欲望まみれの自分が、
悪人のままどんなに汚れても穢れても、
すでに全て許され生かされている存在で、
そこに罪も罰もない、
と気づくことだ。
本当に「身を粉にしろ」「骨をくだけ」
なんて言ってない。
それに値するくらい、
ああ、なんて御仏は慈悲深く、
ありがたいのだろう!
そして自分もこのままで仏陀なのだ!
と感嘆することだ。
日頃「感謝しなければ」という人ほど「感謝してない」
感謝なんて勝手にあふれてくるものだ。
「修行すべき」という人ほど「修行してない」
苦労して修行してきた人ほど、
「もう苦行も修行もいらない」
と説くものだ。
これ以上修行して何かになる必要はない。
そのままの自分で既に神であり仏である、
とOKを出すこと、
それこそが真の信仰心だ。
神仏が許しているのに、
自分だけが自分を許してないことに気付けよ!
やらかしてしまったことも、
やらなかったことも、
全て正しく間違っている。
「救わなければならない」
ではない、
ただ「救いたかった」
そして、
自分も「救われたかった」
だけだ。
生かされているということが、
もう既に全部許されて救われている証拠なんだよ?
今夜もひとりで眠るのかい?」
次回は11月16日(月)17日(火)出演します↓



