人は光だけ見ては生きていけない。
闇があるから光がある。
闇から光が生まれたと言っても過言ではない。
善と悪はセットだ。
どちらか片方だけでは生きていけない。
全うに生きていても、
報われないのなら、
「こうなってはならない」
と常に闇に葬り去られ、
悪者扱いされていた自分に聞いてみるがいい。
そいつだって忌み嫌われながらも、
必要だから今までそこに居たのだ。
「いつからそこに居るの?」
「そこで何してるの?」
「何のためにそこに居るの?」
「本当はどうしたいの?」
自分の中に、
いいやつも居れば、
悪いやつも居る。
だけど大概、
人は大義名分と称して、
「善人」(と思われるやつ)の意見しか採用しない。
「いいやつ」は「都合のいいやつ」で終わる。
「都合のいいやつ」でいることに疲れたら、
「都合の悪いやつ」になれ。
光ではなく、
闇の自分に聞け。
そいつを無き者にしている限り、
本来の自分の人生から外れ、
この世界との分離は終わらない。
必要なのは、
光と闇との統合。
夜明け前が1番暗い。
そいつはきっと、
とんでもないことを言い出すだろう。
しかし、
そいつと統合しない限り、
本来の自分では生きられない。
何故ならそいつが自分の本音だからだ。
そいつが生きるヒントだ、
そいつが人生の鍵を握っているのだ。
光が闇に、
闇が光に、
イエスキリストは言った。
「私は全ての衆生の罪を背負って磔にされる」
と。
仏陀は言った。
「全ての衆生が悟るまで自分は悟らない」
と。
すでに私達はキリストにも仏陀にも、
全て許されて救われているのだから、
これ以上何が起きても、
許されない救われないわけはないのだ。
キリストや仏陀に成り代わって、
人間を裁ける者がどこに存在するのか?
そんなやつが居たらただの思い上がりだ。
キリストか?仏陀以上の存在か?
全ては必要悪だ。
許せることも許せないことも、
必要だから起こっている。
私達は皆、
「神の子」迷える子羊であり、
生け贄の羊(スケープゴート)でもある。
私達は存在するかどうかもわからない夢の中の住人で、
それぞれどんな夢を見ようが勝手だ。
あの世は、
カラカラと回るただの無人映写機なのかもしれない。
この世は、
その映像を映す為のただのスクリーンなのかもしれない。
頭に浮かぶこと、
行動すること、
全てはシナリオ通りだ。
自分が思い込まされた正義に従って、
「これは善」「これは悪」
と勝手に分類していっただけだ。
誰かの「善」は、
誰かの「悪」だ。
自分は良いことをしたつもりでも、
それは誰かにとっての悪行なのかもしれない。
善人=悪人だ。
誰かが自信満々で説いている善を、
疑ってかかるがいい。
正しい道、間違った道なんて何もない。
この世界は全部嘘だ、
でっちあげだ。
私達が何かに気づくための舞台装置だ。
どれもこれも絵に描いたような背景だ。
登場人物はみんな自分だ。
好きな自分と嫌いな自分、それだけだ。
考えたって、
考えなくたって結果は同じなんだ。
人生なんてサイコロで決めてもいい、
コインで決めてもいい。
誰を殺そうが愛そうが、
本人の自由だ。
誰かに対する、
殺意も愛情も、
必要なことは起こるし、
必要でないことは起こらない。
喜びも悲しみも、
怒りも苦しみも、
起こるべくして起こっている。
ひょっとしたら、
自分が恐れおののいている「悪」は、
最大の「善」かもしれない。
自分のどうしても避けたい「不幸」は、
最大の「喜び」かもしれない。
「恥」は「誇り」に、
「勝者」は「敗者」に、
「汚い」は「綺麗」に変わるかもしれない。
人は皆、
幸せになる権利がある。
生きるとは安住の地を求めることではなく、
自分に相応しい死に場所を探すことなのかもしれない。
殺されることだって、
他人から見れば最大の不幸だが、
自分にとっての最大の幸せかもしれない。
この世界では後ろ指を指され、
一緒にもなれない恋人達には、
「死」は喜びでしかないだろう。
だが、
何度生まれ変わっても、
また同じ人と出会い、
性懲りもなく同じことを繰り返すのだ。
そして、
何万回何千回と同じトラップにはまり、
こう呟くに違いない。
「ああ、またやってしまった」
それは、果たして失敗だろうか?
全部誰かに仕組まれているだろう?
その誰かって誰だ?
そいつが本体だろ?
偽物の私達がどう生きようが勝手じゃないか。
みんな正しく間違っている。
そこには罪も罰もない。
https://youtu.be/UvZiDf5WILU
9/1(火)出演します↓
http://www.279556.net/





