自分にダメ出ししてる人は、
人にもダメ出しする。

「こんな自分は嫌だ」
「こんな自分は認めたくない」

そんな自分を発見し、
排除しようとすればするほど、
嫌いな人や苦手な人が増える。

結局のところ、
自分の嫌いなところや苦手なところも、
まるごと認めて愛するしか、
他者を認め愛することはできない。

それができなければ、
いくら人を「 救う」とか「導く」とか、
綺麗事を言っても、
ただのジャッジマンで終わる。

自分の主義主張だけが正しい、
他者は認めないという、
ジャッジマンとしての人生は、
自分の本来の人生を生きてない。

まず、
こうある「べき」、
こうあら「ねば」、
という「確固たる自分」なんてない。
それは常識の枠内の概念に過ぎない。

自分の「年齢」「性別」「肩書き」「経歴」
全ての固定概念を横に置いて、
自分の制限を外して、
「無」となって、
自分や他者と向き合うしかない。

人はそれをイエスマンと言うだろう。
だがジャッジは人を救わないが、
イエスは人を救う。

神の子イエスは全ての罪を背負って十字架にかけられた。
だから全ての人間に罪などはない。
イエスの死を無駄にしてはいけない。

「無」は何もないが、
全ての可能性を生み出す、
人生の選択肢は無限に拡がる。



あるひとりの侍が、
偉い僧に教えを請いにやってきた。

僧は日が暮れて、
暗くなってからもう一度来るように言った。

侍は立派で強そうな鎧をつけていた。
僧はただの袈裟を着ていた。

夜の闇の中で僧は言った。

「この暗闇の中で、見た目なんて意味はない。
同じただの人間だ。あなたと私に一体どんな違いがあるのかね?」

目に入る情報を遮断して、
同じ人間という認識で向き合えば、
僧でも侍でも、
「優」「劣」なんてない。

偉そうに見せる為の立派な鎧を脱いで、
自らのブロックや制限を外してこそ、
本当の魂同士の交流ができる。


このカードの元であったであろう禅問答がある。

とある男が偉い僧に教えを請いに訪ねてきた。

門の前で「名前」や「肩書き」「経歴」を言ったが、
何度訪ねても、

「拙者、どこそこの某」
と語るや否や、
「帰れ!」と門前払いを食らう。

ある日男はひらめいて、
拾った木切れで門を「カーン、カーン」と打ち付けて音を鳴らした。

すると奥から「入れ」と声がして、
やっと面会できた。

この話でもわかるように、
「名前」「肩書き」「経歴」を振りかざすものに、
相手の心の扉を開く者は居ない。

それは他者と自分との境界線となり、
いずれ巨大な障壁となって立ちはだかるだろう。

ただの表面だけの上っ面の会話に、
何の意味もない。
壁と話しているのと同じだ。

壁は全てを跳ね返す。
本来の魂同士でぶつからなければ、
時間の無駄である。



僧や侍という、
「肩書き」「経歴」に意味はない。

若いとか年寄りとか、
善人とか悪人とか、
人間とか動物とか、

全てただの概念であり、
同じ魂だとすると、

偉人も盗人も子供も犬も、
全てが人生の師匠であり、
学びの教師である。

結局のところ、
これを腑に落とすことしか、
真実にはたどり着けない。

本当の自分を知らないままで、
自分の「本音」もわからず、

「真我」とは真逆の、
常識という固定概念に振り回された、
偽りの人生を終える。

実際、
人間の根本欲求なんてものは、
「食う」「寝る」「遊ぶ」だけで、

およそ生産性のない、 
とるにたらない、
つまらない、
役に立たないもののはずなんだ。

ここから外れれば外れるほど、
みんな生きるのがしんどくなって死にたくなる。

頭で考えたもの、
理屈をこね繰り返したもの、
複雑なものは全て、
後付けの偽りの自分だ。

真実はもっとシンプルなものだ。
ハートで感じたもの、
簡単なものしか真実ではない。

偉そうに見えるもの、
凄そうに見えるもの、
それこそがクソだ。

子供の頃は、
単純に「快」か「不快」だけだった。
あべこべなんだ、みんな。

こんなゆるいCMが流れていた頃、
日本はバブルだったんだよ。

夢寝見/井上陽水

CM「くうねるあそぶ」「皆さん、お元気ですか?」編



みんなに「デクノボウ」と呼ばれ、

「ソウイウモノ」に私はなりたい。



心の鎧を脱いで、

全てのブロックを外して、

腹を割って、

壁をぶち壊して、

魂レベルで話したいな✨

(私がダメ女だから、安心してダメなとこ見せられるでしょ?)


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