今日もスピ系で宗教色入ってる記事なので、


苦手な人はスルーしてください。
さて、
私は高校~大学と7年間、
東本願寺系浄土真宗の厳しい女子校に通ってました。
(今の私の金髪豚野郎的な自由奔放さは、
厳しい戒律に長い期間抑圧された反動です)
面接の時、
「何故この学校を志望したのですか?」
と聞かれ、
「どんな悪いことをした人でも、
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行ける!
という教えの学校だからです」
当時親に「お前は本当に俺の子か?」
とボロカス言われ続け、
「あー生まれてきてごめんなさい」
「はいはい、
どうせ私は生きてるだけで罪人」
と自分を責めまくっていた、
今にも死にそうな中3の私はクソ生意気に答えました。
それは、
担任や進路指導の先生に、
「お前の成績では到底無理!
絶対に落ちる」
と言われたのを振り切って受験し、
「やっぱりな」
と数学のテストで盛大にやらかした私だからこその、
苦し紛れの免罪符でもありました。
(結果下から2番目でちゃっかり合格し、
高校卒業時では中の上、大学卒業時は上位でした)
今でも親鸞さんが合格させてくれたと思っています。
「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」
本当の親鸞上人の教えは、
「自分を善人だと信じて疑わない偽善者だって極楽往生できるのだから、
自分は罪人であり地獄行きだと自覚している者は極楽往生間違いなし」
が正しい意味です。
親鸞上人は自らも妻を娶り、
肉を食らい、
生臭坊主と言われながらも、
その存在自体が人々の救いになっていました。
現在、
親鸞と似た生き方をしているのが女流作家の瀬戸内寂聴さんで、
私は一時期出家したくて、
瀬戸内寂聴さんの本を読み漁っていた時もあり、
彼女もまた不倫~自らの乳飲み子を捨て、
年下の教え子と駆け落ちした過去があり、
それを悔いて50過ぎにして仏門に入ったものの、
再び男性と関係を持ち、
「どいつもこいつもたいした男じゃなかった」
「なんで私はいつもこうなっちゃうのだろう」
と自分を責めていました。
(同じくダメ女の私が思うに寂聴さんは、
ダメ男を放っておけなかっただけではなかったのかなぁ)
自らの手記で赤裸々に恋愛経験を語り、
齢100歳を目前にした現在もなお、
「好きな食べ物は肉!」
と食らいながら、
人々の悩み相談を聞いては、
「だってしょうがないじゃないの、
神や仏じゃないのよ、
人間だもの」
とケラケラ笑い飛ばしながら生きてる人です。
(色恋に狂い鐘をつくのを忘れて切り捨てられた弟子)😢
人間が生まれてすぐは何も知らない無垢な赤ちゃんで、
その状態を「真我」と言います。
「真我」は本来の人間の状態で、
善も悪もない、
まっさらで何でも口に入れてしまう状態です。
親から「ダメ」と言われ、
常識を刷り込まれ、
教師からさらにダメ出しされ、
いくつものフィルターをかけられて、
洗脳されてできたものを「自我」エゴと呼びます。
「自我」は自分と他人にダメ出しをした状態です。
「自我」はジャッジしまくり、
コントロールしまくります。
そうしないと自分がなくなるからです。
今までの教えや自分が学んだこと、
積み上げてきた過去の全てが「自我」を作っています。
本当の自分は生まれたての「真我」しかないのに、
それを認めたら「個」としての自分がなくなる恐怖に人は苛まれます。
本当は「個」としての自分のほうが偽物で、
「真我」しかないのに。
年を取れば全て記憶からなくなっていきます。
忘れるということは生まれたての赤ちゃんの状態に戻り、
「真我」に近づくということです。
それは実はとても幸せなことで、
人間が本当に幸せになるには、
善も悪もない状態に戻ることです。
そんなことをしたら大変なことになる!
と恐怖で自我は叫びます。
そして、
悪人を見て、
「あいつと自分は違う!認めたくない!」
と騒ぎ始めます。
「ああ、自分の中にもあの人は存在するのだなぁ」
と抑圧された自我を認めて、
「あいつ」と「自分」が同じ人間で、
あれも「自我」エゴだと見抜けば、
もとの「真我」に戻ります。
人と自分との「差」を取るのが「悟り」です。
けして神仏の力を得て、
特別な人間になることではない。
「自分だけ特別」は新たな差を生み出し、
さらに分離し続け孤立します。
あのお偉方も凡人も凶悪な犯罪者も、
人間である限り、
どいつもこいつも大差ない。
ダメな自分を認め、
ダメな他人を許し、
ダメなまま生きるしか真の魂の平和はない。
「こんなことありえない」
「やらかしてはいけない」
そう自分を厳しく律してる間は、
苦しみは続き、
他人のこともジャッジするでしょう。
「絶対にダメだ」
「絶対にそうなってはならない」
は「絶対にそうなる」
「そうなる」可能性があるから、
「絶対にダメだ」と必死で否定する。
「やってもやらなくてもいい」
「ああ、またやっちまったなぁ」
「しょうがない」
と緩やかな許可を出して笑い飛ばせば、
全てが丸く収まります。
「こんな自分は認めたくない」
「認めたら恐ろしくて死んでしまう」
目を反らし蓋をしまくり、
腐敗臭を放ちまくり、
なかったことにしたり、
スルーしたりすればするほど、
「認めろ」と襲いかかってくる、
それが自分の本音で本来の自分の姿です。
私はもう「それ」があることを認めてしまった。
「それ」が私を突き動かしてる諸悪の根元で、
「それ」すらも愛することでしか、
「本当の自分を生きる」にはならないと、
だからもう偽りの建前だけの自分には戻れない。
「こんなことは考えちゃダメだ、
とても口に出せない。
でも本当は…」
に続く言葉が答えです。
本当は…何?
何がしたいの?
全ての自分の制限を外し、
頭でこねくりまわした理屈を外し、
魂ハートにしたがってください。
「こんな自分は知らない」
「絶対にあり得ない」
「そんなバカな」
常識の枠を外れた、
とんでもないところに本当の答えがあります。
絶対にそれだけは死んでも認めたくない、
そいつが本当の自分です。
まずは全て書き出してみるといい、
何の制限もなく自分の欲望が叶うとして、
その見たくないと自分の奥底に封印した欲望の数々を…
さらに「こうなってはダメだ」と禁止してることに、
「そうなってもいい」
と全ての自分に丸をつけた時、
ふと見たテレビの中の犯罪者の顔は自分ではなかったか?
今自分が必死に守っている、
「偽りの自分」をひっぺ剥がしていき、
最後の砦の1枚を手放したら一体何が残る?
「これが自分」と言い切れるものなんて、
何ひとつ残らないだろう。
「何もない」は「全部ある」
「自分の中にもそれがある」
「私もあなたも地獄行き」
そう腑に落ちた瞬間、
この醜い世界が極楽浄土に変わります。
今まで散々やらかしてきて、
バチも当たらず、
好き放題食い散らかして、
チャラチャラ自由に笑いながら、
のうのうと生きてる私が言うんだから間違いない(笑)
私はもう常識のない「人でなし」でいい。
河童やカエルやその他大勢でいい。
ご立派な人間様になんか、
ましてや神や仏になんかなりたくもない。
ただのその辺の石ころでいい。
石ころが何をしようが、
誰にも気にも止められないだろう。
だって、
ただの石ころなんだから。
「実は私、アホなんです」
と1人が言えば、
「実は私も…」
とみんなが言い出すだろう。
「自分だけはアホじゃない、
お前と一緒にするな」
と石ころぶつけてくる奴もいるが、
そいつもただの石ころで、
自分が石ころだと認めたくないだけだろう。
石ころが石ころに石ころぶつけて何がおもろいねん?
私はすでにただの石ころなので痛くも痒くもない(笑)
あんたも私もアホでええねん!
あー今日もやらかした!

あほちゃいまんねん、ぱーでんねんw
でも、
その同じ口で、
あの「恋愛」は良くても、
その「恋愛」はダメと言う。
私からすれば、
綺麗も汚いも、
全部同じ「愛」じゃないか。
あーあ、やるせない。
世の中にはこんなにも素晴らしい恋愛ソングが溢れているのに、
早く来世になればいいのに、
そうすればまた恋愛できる。
恋愛できない人生に何の未練もございません。







