数か月ぶりに息子が私の仕事場にやってきた。

 

私からは、彼はずっと怒りと苦しみの闇の中にいるように見えていた。もう何か月も話していない。でも部屋に入ってきながら「幸せでたまらない」と言った。

 

フランシスのワークショップの間も、彼はひどい状態だったと言う。あらゆる人がただ奇跡講座に逃げているだけのように見え、非難の思いでいっぱいだったと。彼は自分に対していつもそれを感じていて、コースに頼ることは「自分ではできないしょうもないヤツ」ということになる。

 

とはいえ、彼のジーザスといる時間の長さは 常になので、私は、彼の方向も深さも理解できないと感じることが多い。

 

でも今回は、勉強することと実践することについての、ほんのわずかなギャップについて、私よりも彼の方が違和感を感じ、自分にも厳しいのだと感じた。

 

というのも、最近ずっと、God's Not Deadの4本の映画について、デイビッドが1本1本もっと深くもっと深くと深めていく中で、その微妙なギャップが大問題であることに気づき始めていたから。デイビッドは気づくのが難しい、ほんの一瞬にも足らないギャップについてなんとか解説しようとしていて、この4本をセットにして進めてくれていなかったら私は言わんとしていることのコアがつかめなかったと思う。

 

神学と実行のほんのほんのわずかなギャップ。

勉強することや知識と、実行や事実とのギャップ。

 

Authenticではない、偽物の一瞬の大きさ。

 

 

 

彼は、ワークショップが終わって、家で夜考えたと。

たとえば誰かを殺してしまった時、殺してしまったという罪悪感があることで自分はいい人間だと思うことが可能になっているというトリックを見つけた。意味分かる?

 

だから、どんなに誰かを責める思いが生じていても、重いっきり責めて、好きなだけ責めたままにしておこうと決めた。

 

そして数分後、目を開けて、自分の腕や脚を見た。いつもなら、この細くて白い腕が憎く、みすぼらしいと感じていたが、とても完璧だ、美しいと見えた。

 

自分の心が完璧で美しく、何を見ても完璧で美しと見え、自分の心を見ていると思えると言った。

 

冷凍食品をレンジでチンして食べようとしたら、まだ凍っていて、いつもならもう一度チンするけれど、もういいやと思ってそのまま食べた。それは完璧でおいしく、ニヤニヤしないことができないほどに嬉しく食べた。

 

最近の家族への投影はひどく、憎たらしくて仕方なかった。でも今は、それでも、美しい自分の心を見たいという愛のどうしようもない欲求が勝ってしまうから、憎たらし思いがありつつも、そう見ようとしてしまう。止められない。

 

だから俺は、昨日からずっと幸せでたまらないんだ。

それが言いたくて来た。

 

 

 

 

私は頭では分かるけれど体感は分からず、ただそっかと言い、無言の静かな時間が流れて、彼は出て行った。

 

 

 

彼が部屋に入ってくる直前まで、私は祈っていた。

 

ワークショップでたくさん上がってきた無価値感と、それに対するたまらないケアとありがたさ。その一方で、さらにさらに無価値さは上がってきて、「さあ、ではこれを安心して任せていられるよう」などと思っていた。

 

でも息子の乱入は祈りの答えだと思い

考え始めることに。

 

ただギャップを許可してるんだと。

 

デイビッドはいつも言う。無価値感はとてもとても根深いものだと。だからまたさらに深くこれが上がっていてもしょうがないことだ、良いことだなどと思っていた。

 

そりゃそうだ。無価値感がなければ、そう、すぐにでも神のところへ行くほどのことだろう。

 

そして言葉からすれば、それは正しい。

そして言葉の上では、私がとった選択は間違っていないように見える。

 

でもギャップについて考えれば違う。

もっと深いことができる。

 

 

 

もちろん任せはするし、スピリットにしか癒すことはできない。

 

けれども、任せ方の問題が見える。

 

何日も何時間もかけるつもりで、いつか無くなるだろうなんて、好きなだけ痛みや苦しみを好み、美味しがって過ごすのと、「ただ見る」のとは全く違う。

 

彼がまったく自分を咎めずに好きなだけ非難できたのは、ギャップのないその選択をしたからだ。

 

いっそのこと、ひどい自分になってやれと。

 

 

こう書いていて思うのは、

ひどい自分になってやれと思うということは、自分はひどくないと知っているということだ。「スピリット!」と祈るよりも深く、声をかけなくても事実として今いるということだ。

 

私は昔から思っていた。

「スピリット」とか「ジーザス」と声をかけるとかえって遠のいてしまうと。

今まで一緒にいたのに、「呼びかける」という「正しい言葉」を実行することで、今いなかったかのようにふるまうことにかるからだ。

 

それと同じように、スピリットはだから、思いっきりひどいことを思っても大丈夫だと言う。どんなにひどいことを思っても、本当にそうはなれないから。

 

デイビッドが「闇は上がって来なければならない」と言っているのは、その闇を自分だと思うためではない。自分ではないと知るために、体感して証明するということ。お勉強を使わずに、言葉を使わずに、今すぐ。その証明をしてくれるのがスピリットであり、真の自己であり、ジーザスであり。

 

けれどすでに信頼があれば、わざわざジーザスを探して呼びかける必要もない。私の場合は、その必要があるという考えが、ジーザスを遠ざける。

 

いるのは当たり前のことだから。

 

私たちが美しいのも、当たり前のことだから。


そして今、彼のような幸せ感はないが、

自由と、ものすごい自分の強さを感じる。