今日、奇跡についての喜びの報告をたくさん受けていながら、私は悲しかった。
「こんな奇跡的な状況になった、こんなすごいことも起こった、ねえ先生、聞いて聞いて」と。
いつも、私なら分かってくれる、一緒に喜んでくれると思って話してくれている。そして私はいつも、自分のことのように嬉しい。でも今日は違った。
深く助けを求め、考え、祈った。
最近、受け取る答えはどれも「今愛しなさい」ということに関するとても短いフレーズだった。そしてずっと感じているのが、愛していないこと自体がつらいのだということ。
彼女たちからの報告は、もちろんこの世のものではないことからの奇跡だ。それなのに、私がなぜ悲しかったのか。
彼女たちは、神とのつながり自体に喜んでいるのではない。奇跡を体験したこと、そしてあり得ない奇跡についてこの世界の結果について喜んでいる。
それが私にとっては、
「それでは、またあなたたちは悲しまなければなくなってしまう。」という悲しみになっていた。
人はまた裏切り、環境は自分の好みではない形が起こり、また同じ悲しみを繰り返さなければならない。人が去ることを悲しみ、自分に共感してくれないことを悲しみ、だから孤独を味わい、再び孤独を埋めようとし、また人や環境を求めなければならなくなってしまう。
延々と繰り返される孤独と不安全の悲しみ。
喜んでいながら、
あなたたちの中には今も孤独と不安がある。
神の愛に喜ばなければ、神の愛に対する心自体に喜べなければ、あなたたちは埋まらない。
私は、彼女たちの孤独と、
孤独からくる今もある渇望に
悲しんでいたのだった。
彼女たちにそれらを伝えようとしていた自分がいるが、ただ攻撃しているだけで何も届いてい気持ちで、彼女たちもちんぷんかんぷんのようだった。
今日はインスピレーションを何も感じることができず、私自身がスピリットとのつながりが消えてしまったような物質感漂う感覚になっていた。
いよいよ深く止まって、考え、祈り始めた。
とにかく、赦しをするだけでは嫌だった。最近あるとても大きなテーマ、愛するということをしたかった。
I am calling you out of the world.
I love you now.
心をつくし、魂をつくし、力をつくして
隣人を愛しなさい。
これらは最近私が受け取った言葉。
聖書では「主である神を愛しなさい」とあるが、スピリットは「隣人を愛しなさい」と言った。しかも、心をつくして力をつくしてと。
私が愛して、私が彼女たちを神の愛で埋めてあげられたらいいけれど...
けれど、私にはどう思うことが最高に愛することなのか分からないし、神の愛ほどのものを与えることなどできないと思った。
私に今できる精一杯として、やはり祈ることになる。
そうして祈りはこうなった。
彼女たちに神の愛の喜びを分かるようにさせてあげてください。本当に神の愛で包まれたと分からせてあげてください。神とのつながりのみが孤独を埋めるということを、分からせてあげてください。本当に孤独でなくなるよう。あなたならできます。やってください。
そして思った。
ああ、私は友が本当に幸せになるよう友のために祈ったのか。これが友のために祈るということか?と。
これを祈るということは、彼女たちが本当に幸せになって、私を必要としなくなることでもあった。その悲しさが無いとは言わないが、それよりも、彼女たちが幸せになることを勝たせることができた。
そして今私が幸せになった。
愛そうとすることは自分が満たされることだ。
私自身、本当に神の愛でしか孤独が埋まらない、幸せにはならないということにも確信が生まれた。他のものはいらないと思えた。
インスピレーションも戻ってきた。
私の人生についての安心も深まった。
彼女たちは、もしかしたら私から去るかもしれない。そのとき味わう悲しみがあるかもしれないが、それはエゴから来るもの。もうその悲しみはいらないとも思える。
友を愛そうとすることで、まだ人が恋しい、人にいて欲しいと思う私の孤独感が神で埋まることになる。人間とのつながりはいらない、神の愛を通してのつながりだけでいいのだと深く思うことにもなる。
同時に、人間の彼女たちは、私にこれを教えてくれた人間ではない美しい存在だということも今は見える。
