私たちがどれほど大きく、どれほど大きな可能性があり、どれほど大きなものが待っているかについて、私たちはあまりにも低く見積もりすぎているというのが、最近強く感じていることです。

 

 

今、素晴らしいものが来てそれに乗り、そしてまた来て乗りと、自我に入るスキを与えられないほどに忙しいと感じています。カースティンの本にあるように、デイビッドという元気なお兄ちゃんが、喜んで妹のカースティンを先導するのだけれど、カースティンは砂利の上を引きずられて血が出ている...そんな気持ちです。

 

 

私がデイビッドの元へと深くかけこむことになるのも、自分で選んでいるのではなく、明らかに現れるプロンプトと私を押すもので、駆け込まざるを得なくなるせいです。そしてそのせいで何かに参加して、何度画面の前に引きずり出されたか分かりません。

 

リトリートなどでは、自分の祈りや質問などを送るシステムがあって、自分のために自由に書くことができます。それに対して、ファシリテーターの方やデイビッドやフランシスなどが取り上げて、一緒に深めてくれたり答えてくれたりします。一人の祈りは全員の祈りだからです。

 

私は英語がうまく話せるわけではないので、ピックアップされてしまうことは望んでいません。でも、分かるんです。深い祈りや疑問について投稿するとき、「ああ、これは採用されてしまうやつだ」と。だから、私が送ったものが読み上げられはじめると「やっぱり来た」という思いと、心臓がドキドキするのを感じます。世界中から集まった本気の100人以上の人たちの前で画面にアップになるのは恐ろしい。ましてやコメントの後に「何か話したいことはある?」と優しく聞かれるときの大きな安心とドキドキの共存は、何とも言えません。話したいことなどうまく話せずに終わりますが、その様子を聞いて見てくれているみんなの態度は、感謝に満ちていて、感動に満ちていて、私はたいてい泣きながら感謝の言葉を述べることになります。言葉は関係ないことも体験します。今参加しているキリスト・アカデミーでも、はじまりでそれは起こりました。

 

抵抗できずに明るみに出されて、このようなことが起こるたびに、私はいつも「自分では何もしなかった」と思うことになります。

 

 

 

私は今、キリストアカデミーにコミットしています。時差があるので、リアルタイムで取り組むとなると睡眠時間は2、3時間になることが続きます。リビングミラクルズのみんなもガイダンスに従っているので、予定外のボーナスライブも突然発生します。でも大丈夫です。睡眠時間に関する取り組みは、コースに出会う前、もう10年以上前にやりました。もうそれは私には問題にならない。これひとつとっても、どれほど最初からジーザスが取り組ませてくれていたかの証に思えます。

 

そして今、自分がどれほど大きな存在なのかを教えてもらっています。今までにはできなかった赦しの仕方を知り、物事は展開し、素晴らしいものを体験しています。人が去り、現れもし、人がくるっとひっくりかえったりもします。

 

だからこそ思うことになる。

本当に世界は私の意識なのだと。

 

人を変えようとしても変わりません。

でも自分が変わるとすべてが変わります。

その規模も計り知れません。

 

そして浮上してくるのは

私は愛したいのだということ。

 

愛したいから自我を解体したいのです。

 

どこを見ても、誰を見ても愛しているとしたら、どれほど幸せか。

 

愛されるよりも愛する方がずっといい。

 

だからこそ自我を解体し、見破り、超えることがいかに重要かとなる。

 

自我を弱いものだと知るほど、ガイダンスは鮮明になるようです。自分には助けが必要だと知って誰かに頼るほど自我の解体は容易になるようです。そしてどんどん世界が違った意味にも見えてくる。

 

愛したいから、ガイダンスを聞きたいから、自我を解体する。

 

 

 

その自我の解体プロセスが、このように抗しがたく起こってくれるのだとしたら、実はどれほど容易でどれほど自然な道でしょう。そしてどれほど大規模でしょう。

 

私の場合は、誰の元へ助けを求めにいくか、どこへ助けを求めに行くかに深く落ちたとき、それはいつもデイビッドです。日本にいる先導してくれる方たちや仲間を検索し、迷い、検討しはじめても、たくさんのしるしが訪れてデイビッドを差します。あまりにも明らかなので、いつも、やっぱりデイビッドなのかと思わされることになります。

 

考えてみれば、デイビッドすら私が検索して見つけた存在ではありませんでした。私のこれまでの人生で、仕事にしろ、学ぶものにしろ、なにひとつ、自分で見つけて決めたものはありません。好きでやったことなど一つもない。やらされて、行かされた。唯一、自分が好きでやったこと、絶対に譲りたくないものとしてこれを私にやらせてくれと周りに懇願してきたことは、この道のことだけです。そして唯一、自分の力で見つけて手にしたのは、「心身の神癒」と「奇跡講座」だけです。奇跡講座を見つけたときでさえ、どんなに検索しても、私のPCには、たった1ページの、奇跡講座が存在する欠片しか現れませんでした。奇跡講座のどんな評判も聞くこともなく、どんなものかも分からないまま、ただ「やばいものの気がする」だけで手にしました。その2つ以外のことは、人にしろ場所にしろ本にしろ、全部現れました。だって私は友達すらいなかった。友達といたくもなかった。

 

 

そして今もまた、砂利の上を休む間もなく引きずられるさらに強烈な道にいます。いろんなものが怖くなくなり、失うこと無くなることもだんだん怖いものではなくなり、それを気にかけるということ自体が思い浮かぶのも減っています。たとえ気がかりに思ってしまっても、たいてい生徒さんがや相談に来てくれる方が、奇跡が起こって大丈夫だった証拠を与えてくれます。教えたり相談にのっているのに、結局はその出来事がいかに奇跡かを一緒に解明していて、絶対的な安心と絶対に明らかな道へと力強く向かわせてくれます。この一緒に真剣に問題の中に入って、一緒に体験して、理論的にかつ真理からずれることなく、しっかり思考を使いながら納得しながら進むというプロセスは、私にとってとても大事です。"疑えない"ということが貴重だからです。そして、まるで一緒に「絶対に大丈夫だよ」と存在に言ってもらったかのようになります。こうして素早く、また安心して自分を預ける道に戻ることになります。

 

何を振り返っても、自分からは何も見つけることができていない。

 

何事も、ただ現れて、心から真剣になって、やると腹をくくって、最後まで降りない、ということをやるだけです。

 

 

 

 

困難と思える出来事、それが自分に今にも襲い掛かって未来が闇になりそうに思っても、またそれがどんなに大きく見えても、それが自分に触れずに消えるというのは驚くべきことです。消えるだけではなくそれが優しい愛に変わるというのは、もっと驚くべきことです。

 

そして困難が大きかった分、ここでもまた自分の大きさ、本物の方の自分の大きさを感じることにもなります。ジーザスという存在の巨大さと強さを感じることになります。

 

誰が共に歩いてくれているのか?

 

だから私たちはどこまでも大きく、どこまでもパワフルです。

 

神の愛はワイルドです。

 

その自分の大きさ、自分の可能性の大きさを、今は、会う人会う人に話したがっている自分がいます。その大きさを伝えたくて、授業では「私たちはそんなもんじゃない」となんとかして伝えようとしている自分がいます。そのためにジーザスが、占いでも、聖書の話でも何でも使って、口に言葉を置いてくれるのも、私の手に図を書かせてくれるのも感じます。私以外の他の人などいないのだけれど、それでもそうすることは、私にとってとてもとても大切なことです。これを愛の延長というのかどうかはわかりませんが、相手に本当にとどいて光ったとき、何かが成功したと感じるのです。私たちは大きい。