私たちがどれほど高貴で高尚でふさわしいか、どれほどの存在かについての体験。

 

ガイダンスがあって、集まりを開いた。集まりが開かれるまでのことと、当日のこと。

 

 

1月末にガイダンスがあった。星学塾に通う人たちで集まるというもの。その少し前に、みんながそれぞれに他の生徒さんにもに会ってみたいと言い始めたのも素敵だ。これまで何度か、集まりを開く試みたことはあったけれど、開催されたことはなかった。今考えると、その時は、私もみんなも準備ができていなかったのかなと思う。私はガイダンスに従って進めていくことに決めた。

 

まず、みんなに送る案内文面を書くことになった。このおかげで集まる目的の焦点が定まった。「ノーピーポープリージング、ノープライベートソートの本格的な実践まではいかず、それに近くてもっとゆるく柔らかい場でありながら、一般的な人間関係では失礼にあたるようなことができる場。気を使わず正直でいられる場を設ける。」という設定だ。

 

私は、「参加者が私以外に2名以上いたら開催する」ということや、テーマは「自由」、ルールは「自分の自由にこの場を利用する。他の人の自由も尊重する。」などを書いた。とても画期的なルールだと思った。

 

集まる目的の方向性を説明するためにこんな内容も添えた。

 

〇たとえば...

・人の話を聞きたい方は聞いていればいい

・話したい方は話せばいい

・「正直でいたい」を実行してみたい方は、実行してみればいい

(だから、ムっとした顔で座っていることも まったくOKです)

・誰かに質問したい方はすればいい

・あいずちを打ちたい方は打てばいいし、打ちたくなければ打たなければいい

 

〇また「気を使う」ということも極力なくしたいので

・自分の昼食や食べるものは自分で用意してきてください。

・何を食べても、何を飲んでもかまいません。

・みんなのために何かを買ってくる必要はありません。

・でももし、誰かに何か食べさせてあげたかったら、もちろん喜んでそうしてください。

・誰かが用意してくれたものを、食べても食べなくても構いません。

 

文面はスラスラと出来上がった。

 

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別の日、日程について祈り、

2月23日と決まった。

 

内心は「祝日でせっかくの休みなのに、来る人なんているのか?」と思っていた。もちろん、結果的にそんなことはなかった。

 

後で聞いた話だけれど、何人かは「やった、祝日だ、行ける!と思った」「ちょうどその日なんにも予定入れてなくてよかった!」という感じで、その他の人は「これは行った方がいいやつか?いや、どうだろう?行くべきか行かぬべきか分からない。自分の様子を見よう。きっとどうすればいいか分かる。」という感じだったそう。

 

それを聞いて思ったのは、誰も「予定が空いたら行くし、埋まったら行かないし」などという選択の仕方をしていないことのすごさ。コースを持っていなくて、コース混じり占いしか学んでいない人が多い中で、みんな分かってる。私は、コースをやっている人でさえ、これが分かっていない人は多い様子をたくさん見ている。だから、本当にすごいと思う。

 

私は初めてデイビッドのリトリートに参加する際に、強烈な体験をして、未来の日程の決め方を学んだ。未来は今なのだ。

 

 

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また数日後の別の日、「さて、誰にこの案内を送るか?」となった。

 

全員を呼んで、たくさん来てしまったら多すぎるので、全員は呼べない。誰を呼べばいいか分からない、とても私には選べない、ということが分かった。というのも、コースを熱心にやっている人、なかなか熱心にはできないという人、最近コースを買ったばかりの人、占いだけの人、みんな様々だ。ただ、全員の共通点がすごい。誰もが普通の占いの使い方をしている人ではないということ、地上のゴールではなく「上」のゴールに向かっている人ということ、みんな奇跡を体験しているということ、そしてまだまだ「上」にいく気マンマンで、ミッションミッションと楽しんでいるということが共通点だ。

 

このようなコンセプトで集まる集まりに呼ぶ人...。この中の誰を選べばいいか分からないほど素晴らしい人しか ここにいないことに、私は初めて気づいた。実はここで とんでもないことがここに起こっていたのかと、とても驚いた。

 

私は占いの授業では神という言葉などを使わない。だから占いを使って自分たちがどこに向かって進んでいるのかを説明したり、占いの使い方を説明する時は、「上」とか「光」などという言葉を使う。神やジーザスという名でさえニックネームだ。何を信じていても信じたくなくても、差し示すものが同じなら何の関係もないという体験をたくさんさせてもらっている。

 

それで、私には到底選べないと分かり、だから祈った。メモに名前を挙げはじめ、最終的に、声をかける人とかけない人に分けられた。いちばん驚いたのは、名前を書いている時に、もう卒業して一年ほど会ってないある人の名前が何度も浮かび、何度再リストしても思い浮かび、リストに入ったことだった。

 

そして送った。すると数分たたずに2名から参加するとの返事がきた。そしてあっという間に開催決定した。最終的に、7名に送って6名が来た。私は2人来ればいい方だなどと思っていたので、「教室にみんな座れるか?多すぎないか?」などと後から心配が来ることになった。

 

そして2月23日の祝日、みんなが来ることになった。

 

 

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それからの当日までの日々も、私にはとても学びが多いものだった。

 

店の外の植物エリアを刈り込んで手入れする日...

 

店の周りのごみを片付けたり、散らかりをきれいにする日...

 

花壇に花を植える日... 

 

トイレのカバーとマットを買い替えて、いい匂いをもっと追加する日...

 

これらを突然、一つ一つやることになったのだけれど、これが集まりの日のためなのかどうか、この時ははあまりよく分かっていなかった。

 

そして集まりの2日前に、お茶を入れられるセットを用意するというガイドがあった。お茶セットを置くラックをキレイにピカピカに磨き、「電気ポットが上の棚にあったよね」と言う声からポットを引っ張り出して来て、もうすでにキレイなポットをまた磨いた。

 

毎月会っているみんなが来るだけなのに、もてなすような、とても特別なことをしていた。

 

 

 

 

でも本当に素敵だった。移動式ラックをとことんまでキレイに磨いている際の自分の気持ちによって、あることに気づいた。

 

この一連の、綺麗にするプロセスには、ただただこの一つの意味しかなかった。

 

「この人たちには、綺麗なもの、美しいものしかふさわしくない!ふさわしいものを用意しよう。ふさわしいものじゃないと似合わない。とことん綺麗にしなきゃ😍💖」

 

 

これが、ジーザスがみんなをどう見ているかの思いそのものだった。

 

私はみんなを、高貴に、高尚に見ていて、敬意があって、心から、汚いものが似合わないと思っていた。キレイじゃないと、美しくないと、ピカピカじゃないとふさわしくないからと、ふさわしいものを用意している。

 

私が良く見られたいからやっているのではなく、みんなを気分良くさせたいからやっているのでもなく、ただ、ちょっとでも汚いものはふさわしくないからやっていた。この気持ちがピーポープリージングではないことがとてもよく分かった。

 

「私はこれから、どれほど素晴らしい人たちを迎えようとしているか!」

というワクワクした気持ちでいっぱいだった。

 

そしてしばらくするとその矛先が自分に向いた。

 

「ああ、ジーザスはここまで、私を高貴に、高尚に見ているんだ」

 

 

 

 

ポットもラックもトイレも、本当はどうでもいい。ただそういう物質的な綺麗さというシンボルを使って、どれだけ高尚なものしか私たちにふさわしくないか、最高級の愛しかふさわしくないかを教えてくれた。愛が何かなど分からないにしても、卑小な考えがどれだけふさわしくないか、どれだけ不釣り合いかなら思うことができる。

 

結局、集まる日の前日に、植えた花🌸は凍って枯れた。当日はお茶を飲む人も飲まない人もいたけれど、それらはまったくどうでもよかった。枯れた花も、ピカピカのお茶セットも、その気持ちを表すために十分存在していた。

 

そして私は実際に、みんなに対して、美しく見ているその気持ちが、当日も今もあり続けている。

 

 

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当日もいろいろあった。私はみんなの話が遠く聞こえ、内容はあまり入ってこなくて、その存在自体を見ているだけで幸せだった。その会を誘導することもなく、何かを教える意図もなく、話し、ただただ、その場を設けた目的を維持するのみだった。

 

全員が初対面の中、ホワイトボードに各々が自分の星を書くことになった。口でしゃべって自己紹介する必要もない。星があれば自分の親よりも、本人よりも、その人のことがわかる。

 

だからみんないきなり、自分の奇跡体験の話をし始める。どうして星学塾に来ることになったのかとか、いちばん驚いた概念とか、現在取り組んでいるミッションとかを話しながら。ホワイトボードに星が書いてあるから、「その星ならではのエゴのトリック」も見え見えで、目の前の人自体が生きた教科書状態にもなる。占いの生きた勉強と真理が見事にコラボする。

 

みんなが、ホワイトボードにある星をちらちら見ながら誰の話も最後まで黙って聞いていて、こういう場が嫌いという人も喜んで話していた。奇跡と驚きは、誰でもみんなしゃべりたい😍 こういう話が通用する人たちと出会えて、「うんうん」と聞いてもらえて、私たちは本当にステキだ。

 

壁もない。もう星を使って暴露されているから、いまさら隠す気にもならない。「私はこの星持ってるから◯◯なんですー」なんて平気で話す。私たちは、全員が星によって特別で、全員がまだ自分の星を「上」に向かって上手に使えないちょっとおバカで、他の人の星をうらやましがる必要がなく、自分だけ欠点が多いなどと思う必要もなく、全員がドッコイドッコイだと分かっている。ところが実は、この中の多くの人が、世間でいえば、すごい仕事、すごい経歴、すごいお家の持ち主たち。頂点を極めて、そこに幸せがなかったと気づいた人たちだ。でも誰も、それを自慢もしなければ、それについて誰かをすごいとも言わず、自分が劣っているとも思わず、ただ正直でありたいと、ちょっと緊張しながら堂々としゃべる。

 

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やはり、いちばん印象的なのは、突然リストに上がった一年ぶりの彼女。彼女は、数か月前から浮上しているテーマがあって、この日にチューニングされて呼ばれたのだろう。私は彼女と会ってはいないものの、つい2か月前、ガイダンスがあって私は彼女の電話した。その時にも浮上と解決があり、その後も続いている深く進行中のテーマだ。ここに到着して、車の中で、ある考えを暴露するよう押されていて、恐れが強烈に上がっていたそう。「もし知り合いがいなかったら話そう、知り合いがいたら話さない」などと考えながら部屋に入って来たそう。残念ながら、知り合いは一人もいなくてがっかりしたとか。

 

私がはじめにちょっとだけ今回のコンセプトを話しながら、「エゴも一つだから...」などと言うと、それがトリガーになったらしい。彼女は「あーん もう行きます!」と叫んで、恥ずかしいことも罪悪感もぜんぶ話し始めた。

 

彼女は私の少し後にコースを手にしていて、こういうのを私と彼女は二人でさんざんやってきたのけれど、彼女は、大勢の前でそうするのは初めてだった。

 

みんなは、このようなものを初めて見ているわけで、いきなり、訳も分からずエクスプレッションセッションを目の当たりにした状態になった。色々な衝撃があったのではないかと想像している。でも、事前に設定しておいたルールが、プロ級の完璧なエクスプレッションセッション空間を保ってくれた。

 

「闇が上がって、暴露して、癒されて」という一連の流れをみんなが目の前で生で見たことで、これからどれだけ理解しやすくなるかと思う。私も、どれだけ説明しやすくなるかと思う。彼女はもちろん癒された。私はただ奇跡が起こっているのを眺めているだけで大丈夫だった。私たち全員へのジーザスからのプレゼントは計り知れない。

 

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他にもいろいろあった後、ほとんどみんなが帰り、私を含めて3人が残った。面白いことに、その彼女と、もう一人のコースにとても熱心な人と、私の3人が残った。

 

その、リストに追加された彼女は、昨日まで咳が止まらないほど出ていて、今日も風邪で辛いし咳が出るからと言って、ずっとマスクをしていた。

 

私は

「ところで、なんでマスクしてるん?」

とふざけて茶化した。

 

彼女は「だって咳が...」

 

私は「来てから一回も咳してないけど」(ニヤ)

 

もう一人の子「そうそう。一回もしてない!」

 

彼女「うわっ。しかも、ちょっと体辛いけど、ちょっとだ。楽しい!帰りたくない!」

 

私たちは3人で大笑いして、肉体の症状の嘘っぱちも目にした。

 

本当に、肉体の症状は心によるものなのだなと思うことになる。

 

私は、私がどんな気持ちでお茶セットを用意したか、どういう意味かあったかを話した。すると、自分たちがどれだけジーザスに、ふさわしく、大切に扱われているかに涙していた。

 

そして集まりは終わった。

 

 

 

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翌日、彼女からラインが来て、検査したらインフルエンザだったとあった。「みんなに移していないかという赦しをしながらも、熱は平熱で、なんともなく、なんじゃこりゃ!だ」と、爆笑マークがついている。最後は彼女もマスクをとって、私の隣りでベラベラ喋っていた。それを聞いて私は一瞬「私も移るか?」という考えがよぎり、次に「ああ、まあ、そんなのどっちでもいい」と思い、結果的には私もまったくなんともない。

 

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私は今回はっきりと、その日、誰が来るかはジーザスが決めたと言える。だから、その日、誰がどんな思いを抱いていたとしても、完璧だと思うことができる。もしかすると、この道が予想以上にヤバいものだと初めて知った人がいるかもしれないし、何が起きているのか意味が分からない人もいるかもしれない。それでも、こんなに完璧だと安心できるのは、自分が従ったと思えるからで、ジーザスが何かをしていると思えているからだ。

 

そして、ジーザスに教えてもらった通りに、私がみんなを本当に素晴らしい存在だと思えていることで、そもそも私がジーザスが認めるようなそんな素晴らしい人たちの仲間に入れてもらえているということ、さらには私もジーザスにそう見てもらっていることに確信があるからだ。

 

「与えるものと受け取るものは同じ」

 

ジーザスが素晴らしいと思う人を素晴らしいと思わせてもらうのは、とても強力で、自然で当たり前で簡単なようだ。

 

 

 

こんな風にに従えたら何の不安も恐れもなく、何もしていなくても最高のことをしていると思えるのだから、これがいつでもできていたらどれだけ素晴らしいのだろうと思う。

 

 

 

確かにコースはすごい。でも、コースをやっていなくてもすごい。みんなを見ていると、コースを真面目にできないから遅いなんて思えず、また、呼びかけを聞いてそこに現れることができる。それでも、誰かひとりだけでも経路となる神の教師がいることで、広く大きく変化するのを一度に多くの人が目の当たりにすることができ、双方にとって最高になる。だから、コースをやっているかやっていないかの境というのはない。大事なのは、真実を知りたいかどうかだけだ。真実を知りたい人に、本物を知りたい人に、呼びかけが聞こえる。

 

日本語では「真理」などというカッコいい名前がついているけれど、英語では、真理は単に「Truth」だ。つまり「ただの真実」を私たちは知ろうとしているというだけのこと。宗教でもスピリチュアリティでも何でもない。当たり前で、当然で、究極に自然なことを知ろうとしているだけのことだ。不自然でふさわしくないことを捨てていくだけのことだ。いちばんシンプルで、そのシンプルさが信じられない私たちがいる。