本当に親密になるべき相手は?

 

...自分の心。

 

これには

頭を殴られたように衝撃を受けています。

 


 

憎んでいるとき

自分の心を味わいたいなどと思いません。

 

つまりそのとき私は、自分の心と離れていたがっています。

 

 

 

でもジーザスが私の世話をしてくれていると感じたとき、誰かを赦してその人に感謝の気持ちが湧いているとき、私はずっとその思いに浸っていたいと思っています。自分の心の味があまりにも甘くて、ずっとそれに触れていたいのです。

 

これは、私が、自分の心と一つになっていたがっているということではないでしょうか。

 

 

 

 

外で何が起こるにせよ、その結果発生しているのは、単に、自分の中の怒りや恐れや罪悪感です。それは味わいたくないものです。

 

味わいたくないから、一線を引きながら自分の心に対処します。

 

赦しをするにせよ、何かを考えるにせよ、その一線は強力で、近づかずにどうにかしようとして引く一線です。

 

ジーザスはきっといつもそのことを言っています。

 

だから

私と一緒に贖罪の環の中にいよう。その環から出ないでほしい。あなたが引いてしまった一線をもう一度消してほしい。そうすれば、それがすでに存在していないものだということを分からせてあげられると。

 

 

 

そうなると、究極の究極は、外の人々とつながるのではなく、自分の心とつながるということではないでしょうか?自分の心と親密になるということです。自分の心を味わっても怖くなくなるように。外の人々は、いつも、私のためのトリガーになってくれているだけです。私の心のどの部分とも、私が親密になれるように。

 

 

 

そしてこのことに

私はとても安心しました。

 

敵がたった一人になったからです。私が私の心を怖がっています。私が私を苦しめているだけなら、必ずどうにかなります。せいぜいできても、長引かせることができるだけです。

 

もし外のせいでどん底に落とされているのなら、きっとこの旅は難しかったでしょう。だって外をコントロールできない限り、助かることが不可能になってしまうからです。

 

 

 

自分が自分を落としているだけなのだから、落とすのを止めようと思うときが救われるとき。私が一線を引かないことでジーザスは助けることができます。一線を引かずに、そんな自分の心にも親密になりに行こうとするだけです。自分のその心の部分も甘くしたいと。


それは、結果的に、コアの、奥の、中の、中心の自己とつながることになります。

 

100%の確率でジーザスは助けてくれます。味わいたくないものが存在しない心へと、私の心を復活させてくれるのです。