Lesson20:I am determined to see.

私は、見ると固く決意している。やはり直訳は好き。

 

「自分は今は見ていない」ということをほのめかすレッスン。自然と、見えるはずのものを見たい、見えるものとはどんなものなのか?などの強い思いが湧く。


また、「見ていない」をどのようにやればいいのかと少し困っていると、2日前にもらった『戦場を超えたところ』の1ページのことを思い出した。『戦場の上の静かな球体(領域)からは、征服の無意味さが極めて明らかである。』これが“やり方”のヒント。ピッタリだ。やってみるとちょっと何か分かった気がした。

 

一方で、「見えるものを見たい」という気持ちはどんどん強くなった。

 

 

 

本当にすごい。すごいというのは、きっと誰もが何度言っても言い足りないくらいだろう。しばらくの間、見ようとも思わなかったYoutubeに手が伸びて、お勧めにあったものすごく久しぶりのThomas Keatingの動画を再生する。

 

“神ではないものとは、私たちが神だろうと思う者、または誰かが考える者です。”

 

“(神の)無限という素晴らしい性質とともに、神の無限小の側面があります。

 

“神を表現したり、イメージで考えたりする必要はないのです。”

 

たった冒頭5分ほどでもう胸はときめき、絶対にここで何か答えて得くれるとも思うことになる。もう期待で胸がいっぱいだし、すでに感動している。

 

そしてさらに数分後トマスは言った。

 

“今朝は、この神の素晴らしい性格を少し取り上げ、神をもう少し理解できないか、楽しみたいと思います。神を理解することによってではなく、その愉快な存在にうっとりさせられることによって。”

 


神の素晴らしい性格を取り上げて、楽しんで、神にうっとりすることによって理解する!

 

とんでもなく、なんて素敵な授業か。


 

 

 

神の無限小の側面の話を聞くにつれ、微小な粒子よりも微細なほどの神でありつつ、それが至るところのすべてのすべてであり、また巨大だということに触れ、立っていられないほど感動して泣いた。

 

カップもマウスも机も床もイスも空気も、本当に神でできてる。幻想レベルの認識であるにしても、だからこそより具体的で実際で、本当に触れている神で、私は今どうみても、どこに目を向けても見ていると思った。意味を見ているというか、なんというか、うまく言えないが、とにかくとてもしっかりと実際に神を見ているという事実感があった。そしてとても量子赦し的。

 

トマスは、幻想があるかのような方向から、無い方向へと導く。幻想を否定するばかりではなく、幻想を受け入れてから別な側面を知らせ、幻想が無い方向へと導いてくれたりする。神のユニークさと遊び心を織り交ぜながら。


幻想の否定ばかりをして、幻想が見えること自体に罪悪感を抱くという、私にとって難しい壁が緩む素晴らしいきっかけの一つになるだろう。


そしてそれこそが、どれほど神が優しいかだ。手放すべきおもちゃを、一回それで遊んでいいと言う。私よりも、神の方が、本当にずっと優しい。私は私にとってもイジワル。だから、優しい存在に教えてもらわないと、私はきっと幸せになれない。


この旅は、本当は、とても優しいだけの旅なのでは?


最近よくそう思う。