静けさ、落ち着きと言っているけれど、それは退屈でも暇でもなく、とても活気がある。「どーゆーこと?なんて言ってんの?なに?本当はどうなの?」とずっと聞いていて興味津々だ。
God Not Deadの4本が終わりに近づいて静かになってくると、ずっと前から持ってたヨガナンダに手が伸びた。自分の中で何かが爆発して急に輝いたようだった。コース流ではない東洋流がとても懐かしく、すぐに神とジーザスが近くもなり、神とジーザスの存在自体の大きさが大きくなった。そのルートで、昔はできなかったことが、今度はできる気もした。幻想という現実に対する見方や態度は非常にケイティと似ていて、ケイティの延長線上にあるのは明らかだった。
ある日、彼の残したプログラムに参加することを押されて申し込んだ。私はとても腰が重いので、こういう時にはしつこつてすごいパッションと震えが起きるようだ。怖くて嬉しいクリスマスプレゼントだと思った。またここで英語が利用できるとはとも思った。もし英語が全くダメだったら、100%選択肢にならない選択だ。上手。
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このルートのアプローチは、地から天を見るルートだ。コースは天から地を見るルートといえると思う。コースは、正解が先に提示され、高度な正解が直接、地に向かって語る。この幻想は不正解というところがスタートなくらいだ。そして直接、正解に向かって真上に飛ぶ。だからこそ、早くもある。ただ、あるところでつまづいていて、一向に手放せないまま進めないと感じることもある。不正解が丸見えなのに手放したくないからだ。
一方、東洋のアプローチは、人間的な状態から段階を経て天に向かって進む。だから愛という言葉自体、コースほど頻繁には出てこない。説明できないことを書かずに、認識できそうなちょっと先のゴールをきちんと見せ、形態的な方法も示す。その中で最終ゴールになるとこの地上でどんな風になるかを見せられる範囲で見せ、本ゴールのことも知らせる。ここが夢の世界であることも伝えながら。つまり、地上で表せる魔法のような実際の出来事を通して、愛と不死を表現する。奇跡という感じではなく、事実のように見ることができる。とても美しい。瞑想のポーズのまま、「では」と言って肉体を離れるのも本当に美しい。もちろん、復活して現れる。そしてさらにもちろん、ジーザスはここでも、誰よりも尊敬できる兄としてセンターに立っている。聖書の言葉も頻繁に現れる。
これがスタートして思ったことは、これが、自分の中の神の子性をまず実現しようとしているということだ。そこに関して、直球でアプローチする。そして神の子である私として、父に触れる。聖霊を介するというニュアンスというよりは、自分の中の神の子と聖霊が一致しているかのよう。コースもこのアプローチも全く同じなのだが、実際に実践すると小さな角度の違いを大きな違いと感じる。私にとってこれはとても画期的で、コースでつまづいていた壁を越えられるのではないかという期待がある。コースの読み方も変わった。より、コースが実際に今ジーザスが話しているようにも、一言一言がすごいことを言っているようにも思う。
ここまでは前置きだな。
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こうしていて、神の子との一致ということに力を注いでいて考えはじめたこと。
毎日毎日
ジーザスはどんな気持ちか?
ということを考えるのが止まらない。
それは
ジーザスも神の子だからだ!
そしてある日思った。
2000年前、ジーザスがこの地上にいたストーリーでは、ジーザスが苦しそうに見えるシーンもある。誰かに怒ったように強く言葉を投げるシーンもある。
けれど、実はジーザスは、お父さんに愛されて、愛されて仕方ないほどで、幸せで、幸せでたまらなかった。
どこにもミッションなどなく
安心して歩いている。
こんなにも大きくて優しいお父さんが
いつもいつも一緒にいるのだから。
自我を超えたジーザスは、何を話すときも、どんな行動をする時も、どんな辛い目に合うときも、100%ガイドしてもらっていて、それどころか、嬉しく幼子でいるのだ。
どこが幸せではなかったというのか?
どこが苦しかったというのか?
どこに試練などあったというのか?
ジーザスはどんな気持ちだった???
幸せで 幸せで 幸せで 幸せで
たまらなかった!
もし、怒ったり苦しそうに見えるのなら、それはそうしろというガイダンスだった。または、そう見えただけだ。
だって、神の幼子だから!
おさない子!
これがどういうことか!
だからつまり、ジーザスが
あの時も、そして今もまさに、
お父さんといてどれだけ幸せかということ。
そしてさらに、そのジーザスがいま私たちと一緒にいるって、ジーザス自身どんな気持ちか?
きっと同じ!
変わらず幸せにしている!
神に愛されてやまないジーザスが、幸せでたまらなく、嬉しくてたまらなくていて、そのジーザスが今ここに、喜んで、私たちのそばにいるのだ。いえ、私よりも私の近くにいる。
お父さんと一緒にいる 幸せな幼子が
今ここに、私たちといる。
ジーザスがじゃなくて
お父さんに愛されてたまらない おさな子が
ここにいて、一緒にこれを味わおうと言う。
私の気持ちが分かれば
私の立場になれば
私とつながれば
私がどれだけ幸せか
君も分かるよ
君もそうだよ
そして
お父さんの気持ちもわかるよ
最近ずっと私は、しつこいくらい何重にも、何回でも、「ジーザスがどれだけ幸せか、どれだけ幸せか」と言いたくている。
そしてこれらの考えはどんどんリアルになり、ジーザスが体験している幸せが、直接伝わってくるようにも思える。
静けさにいれば、そのジーザスと一緒にいられる。そんな存在といるのは楽しいのだ。幸せで、ワクワクして、興味津々で、胸がキラキラする。これはまさに、2000年間、ジーザスがどんな気持ちで歩いていたかなのでは。
そしてそのジーザスといれば、たとえ暗い闇を感じても、ジーザスのこんなにも大きい幸せの方が絶対に勝つと思える。私が離れてしまって、こんな闇は無理だ、赦したくないと思うことがあっても、このジーザスに近づくだけで、気持ちは、赦しが可能だという方向へ傾き、逆転し、驚く答えを得る。それに闇が深いほど、ジーザスがどれだけ強いか、大きいか、優しいかも知る。
しかもそのすべてについて、ジーザスは、
私たちと兄弟だ、同じだ
と言ってる!
とんでもない規模なのに同じだと!
ジーザスに近づくことは
ジーザスがどれほど幸せかを知ること。
そして子になってはじめて
お父さんが分かる。
コースか、今やっているプログラムか、どこかにあった。
「幼子は、天の国でこそ幼子である」
これを見て
「なんてこと!そりゃ当然だ」と思った。
幻想の中にいては、幼子ではいられない。エゴと一体化していて幼子になれないのは、間違ってるわけではなく、ただ、できないことを、できない方法で、成功させようとしていただけだ。ここでは幼子でいられないと知っていれば、選びなおせる。だからジーザスは私のところへ来るようにと言う。
そして、すごすぎてお兄ちゃんなどと言えないほどジーザスは大きい。だからこそ、そのジーザスを兄だと言えることで、どれだけ大きな助けかを知り、どれだけ自分も大きいかを知り、そこへ駆け込むことになる。
子になってはじめて
お父さんが分かる。
子になってはじめて
子としてのジーザスの気持ちもわかる。
静まるのにワクワクするのはおそらくそのせいだ。
こう思えたのは今のプログラムのおかげだ。自分の中の神の子に向かうから。
とても人間くさい感覚と表現。
でも今はこれがいい。
幼子が
クリスマスプレゼントそのもの🎄🎁✨
だから、キリストの再誕生の日💜🤍💜🤍

