授業で、みんなが奇跡を体験し、光に近づきたいという思いをどんどん成長させ、私にたくさん感謝してくれて、助けを求めてくれて、私も奇跡を体験し、一緒に涙し...

 

この時間が私にとって何よりも一番大好きな時でした。でも今は、それも色あせています。

 

私は自覚していました。その中に、自分が役立つことへの喜びや、そこに自分の方が進んでいると思っているプライドなど、個人の「私」がひっそりと絡みついていることを。ガイダンスを聞きながら進める中でさえ、みんなをスピリットとして見ようとしていてさえ、みんなが驚いてくれる中でさえ、自分のプライドも喜んでいることを。

 

だから薄まった罪悪感を感じ続けなければならなかったのでしょう。そして今は、もうその苦しさに耐えきれないようです。

 

だからこそ、それはもういいやと思い、そのようにするほど、さらに人や物への興味も薄れ、まるで自分が非道な人になってしまったかのような気分でもあります。

 

 

 

それでも今は、新しい希望を感じています。もう、授業自体が楽しみなのではないようです。楽しみなのは体験することです。独りでも、誰かといても、どんな場であろうと。一層深い沈黙に進むことです。自分の中の神の子と一致することです。今はそれがうまくできずにいますが、おそらくそうしないと、私は辛いだろうと思います。

 

そして実際に、私がそうできるようになるほど、周囲は賑やかになり神の愛の喜びに活気だつようです。私に高尚な目的を持った人が近づいてくるようです。子供たちは私の近くに居たがるようになるようです。これはまるで自分が、周囲とは逆行して進んでいるような気分です。本当にパラドックス。

 

 

 

 

今示されているガイドは「岩」と、自分が静かに目を閉じながら浸っている美しい姿です。岩も、その姿も同じことを表しています。「岩」というのは、エゴが受け取る意味なのでしょう。動かず、誰かに気に留めてもらおうとせず、誰かに気づいてもらうことなく、独り孤立して、深い全体と一緒にただいる、というような意味です。香水を放つ不動の岩。ここが進む方向だと分かった時は、自分が世界に忘れられる道だと恐れましたが、今は、美しいと感じ、強く憧れもします。

 

そして、岩も美しい姿もどちらの様子も深く鮮明に浮かんでいて、その心の中がどんな感じなのかのニュアンスも感じられるのに、実際にやろうとするとできません。だからそれは、さしあたっての目指すところです。

 

 

 

そうしていて、ある瞑想プログラムに強く導かれました。私にとっては、沈黙への招待状のようです。また、コテコテのコースの道ではないその道にも、ジーザスがたくさん登場しています。だからいっそうジーザスがどれほどの存在なのかに深く感銘を受け、上手な多くの角度があることに脱帽しています。私が昔知ったことを持ち出され、それをより具体的に利用しようとしていることにも、とても興奮しています。ここに、コースが示してくれることの中で私がいちばん苦手だった部分をサポートしてくれる期待があるからです。そしてなによりも、ジーザスがどんな存在なのか、神がどんな存在なのかについての昔あったなつかしくも新鮮な感覚が、いちばん嬉しいことです。はじめて、神とはこんな存在なんだと、世の中とは真逆の情報を知った時の、あの湧き立つような神のすごさの喜び。

 

 

 

これら、このように過去が今つながっていくことは、私たちがこれまで一度も、無駄なことも間違ったこともしたことがないという証明でもあります。証拠はいくつあっても、私たちをいっそう強くしてくれます。神の意志以外のことができたなどということはあり得ない、そしてこれからもできないという証拠であり、間違っていないという証拠です。痛み苦しみさえも、間違いでも失敗でもない。これが従う勇気を持たせてくれます。

 

今ある苦痛も、痛みも、悲しみも、すべてがそれがあったがゆえに神の見方をしようとすることができる素晴らしいプレゼントです。神がキレイに洗ってくれている最中です。洗い終わるまで、神の中にいる。私たちが持っているべきは、神に対する安心した信頼であり、神から目をそらさずにいようという救いを求める目であり、痛みや悲しみ自体が痛みや悲しみを救うという治療法への信頼です。そこが、今できる神の子と一致している静かな場なのだとしたら、やはり、そうでありたい。

 

 

 

このプロセスに、岩であることがどれだ美しいかを示してくれるものがたくさんあったこと、私の恐れを憧れに変えてくれたことに感謝します。多くの方たちが、今いるところはいるべき場所ではないと示してくれたことに感謝します。🙏