どこかしら、コース学習者に呼びかけるようなニュアンスが漂う集まりやセッションはたくさんある。多くの人たちが各々集まったり、クラスを開いたり。このブログのタイトルも「奇跡講座の日記」としてあった。これらについての違和感は今とても大きい。
長く取り組んで、やっと受け入れることができたのは、すべての一瞬一瞬が特別だということ。“特別”と言ってしまうと、コースを知っている人たちは「それは間違いだ」と言うかもしれない。でも、そういうことではなく、特別に素晴らしくらしくない一瞬などないということ。どの一瞬も、新しいとびっきりの特別な素晴らしい一瞬で、どの状況も、新しいとびっきりの特別な素晴らしい一瞬だということ。
全部が素晴らしい特別だということ。
リビングミラクルズのコミュニティとのことと、毎日会う家族とのシチュエーションは、まったく同じく、特別に、素晴らしいということ。家族との一瞬一瞬をリトリートの最中と同じくらい素晴らしいと思うのは、本当に難しかった。あのリトリートのとんでもない味わいがここで起こる可能性を持つことすら、最初は難しかった。でも今は、以前よりずっと大丈夫。どれも素晴らしい。だからこそ、コース学習者と一緒にいようが、スピリチュアルなんて気にもかけていない友達といようが、何が違うのかと思う。もちろん、誰とも一緒にいなくても素晴らしい。スピリチュアルの話題が出なくても素晴らしい。すべて素晴らしい状況で、すべてに愛が溢れる可能性がある。逆に、差があることは本当におかしなこと。
そしてコースについてもそう。確かに、本当に、奇跡講座は素晴らしい。でも聖書も本当に素晴らしい。クリスチャンだったことは一度もないけれど、聖書は私の闇を何年もかけて表に出し、昔とは違う意味に聞こえるようになっていった。読むといつも一瞬で涙が出る。理系好きだから量子物理学の世界の話も大好きで、数学の話も好き。すごく分かりやすく頭の中で驚くほど整理がつく。占いももちろん、論理的で個々のエゴの動き方についてとことん納得がいく。ムージの話にもどれだけ教えてもらっているか分からないし、ヨガナンダを見れば神の広大さを一番リアルに感じることができる。ダンスを観察したりうまくなる方法を考えたりすれば、神がどこからどんな風に踊ってほしいか、何をさせたいかの発見がたくさんある。
どうしてそのどれかを、いちばん良いとピックアップできる?ジーザスはぜんぶ使ってくれて、すべてが特別に素晴らしい。
生きている状況にしてもそう。私にとって、家族という当たり前の状況や、洗濯したり歯磨きをしたりする毎日のルーティーンを特別に素晴らしいと思うのには、とても時間がかかった。リトリートに出ている時も、歯磨きしている時も同じだと思わなければならないようなことに取り組む中で、たくさん手放さなければならなかった。もちろん、今もまだたくさん残っていると思う。でも、きっとたくさん変わっただろう。だから違和感が今こんなに募っているかなと思う。
こんな1年をすごして、今は、昔からあった違和感「コースをやっている人」「コースを勧める」「コースの集まり」など、「コースを...」というニュアンスが全面にただよいながら集まろうとすることに、違和感が大きくなっている。だからといって、そこへ行かないというのではない。それがガイダンスならどこでも行きたいと思う。ただ自分からは、コースを前面には出せないように思う。私はコースを学習したいのではなくて神を学習したいのだから。そして、誰もがそうであるはず。特別な一つの形だけをピックアップして、その形にスポットライトが当たっているなら道に迷う。そしてデイビッドが与えてくれている様々なものも、実はコースを提供しているのではないともますます思う。彼らはコースを勧めてなんかいない。もちろんコースは素晴らしいよとは言う。でもデイビッドたちが勧めているのは、本当に神だけ。コースは前面には出ていない。
私は、コース学習者を人生に呼び込みたいのとは違う。コース学習者の助けになりたいのとも違う。聖なる出会いとなるような出会いを、どれも同じように大事にしたい。そして誰のことも、自分の元にとどめておきたいなどと思わないような一瞬の人、放浪者でありたい。次に会う約束もなく、次に会う期待もいらず、その時の愛を持って解決と終了が訪れるような...。もし再び会う機会を期待するなら、まだ愛のみで包みきれてない、終わっていないということだから。
そしてコースはコースなのではなく、ジーザスの言葉。そう大事にすることにも安心する。
言葉が道である。
私が道である。
言葉が地図である。
