ふふ。これまでここに書いたものが、ミニmeへの酔いしれに見える。悲劇のヒロイン感が満載。その中の体験自体にはそうは思わないのだけれど、文章自体は奥歯が浮くよう。「ごくろうさん」という感じだ。


珍しくいくつか他の方のブログを見て、それについても同じように思った。苦しんでいようと喜んでいようと。同じように、読んでいるこっちが恥ずかしくなってしまう。壁ドンをしてカッコつけ過ぎている俳優を見ている気分になる。


出来事にも人々の会話にもそう感じる。痛がっている人のこともそう見える。そして自分の話し声にも。自分が話していてさえ「おお しゃべってるねー」と見える。


自分の胸の痛みもそう。痛い、苦しい、赦しをしようなど言いながら、喜んで苦しんでいるみたいだ。



これら全体を表現するなら

ダサいの一言になる。



そして、その奥も体験した。その部分で、私はまったく何も思っていない。そして他の誰かも同じで、まったくそんなことを言っていないどころか、とてもキレイ。その部分どうしのみで、私たちはつながっているのだと思った。表面は関係がない。表面が怒っていても、実はまったく怒っていない。そして、それでいると、頑張って怒ろうとしても怒れない。自分の選択で、そこを見ることもなることもできる。



“ニュートンの運動の法則は、マーヤの法則である。「あらゆる作用は、これに対抗する等量の反作用を伴う。ニ物体間に力が働くときは、必ず、方向が反対で、強さの等しい力が作用し合う。...一つの力が単独で存在することはありえない。そこには必ず、反対方向に働く等しい強さの一対の力がある。」”


電気、原子、この現象界のすべては二極。ここで痛みを感じているなら、ここに等量の反発対象が存在している。原因の場でも、等量で必死に愛の力に対抗している。どれだけ愛を遠ざけようとしているかということ。そうでなければ、結果の場である現象界で痛みを感じる理由がない。


原因の場での取り組み。


表面の茶番の酔いしれは、単純につきあっても仕方がない。そうではなく、実は等量の反対のものがある証拠だと見ればいい。つまり、酔いしれる分、光に行きたくないと泣いているということ。つまり、それだけ光があることを自覚しているということ。もしそうでなかったら、わざわざあんな演技をしてまで、酔いしれようとしないのだから。



「願う」すら酔いしれ。


もし一元を「願う」のなら

祈りたくないと言っているようなもの。



今一元であろうとすること。


原因の場で。


その一瞬一瞬が祈り。


単純に、やるかやらないか💙