今は、10t車のダンプトラックいっぱいの、本や、映画や、機会が、私の上にザザーっとぶちまけられているような気持ちだ。

 

 

ぜんぶが深い“愛の資料”で、どれほど深く、豊富に、受け取る資格があるか表しているよう。God's Not Dead2の言葉を借りれば、「うーん すごくいい。... 聖書を積んだトラックにひかれたみたいな気分だ。あのでっかい重いやつ。分厚いカバーのさ。」。この表現の感じはとてもしっくりくる。

 

とても読み切れず、とても観きれず、それでも全部がすごいもので、そのこと自体がすごくいい。

 

もし、全部を読もうとか、訳そうなどと思ったとしたら、きっとこうは思えないのだろうと思う。”お勉強”に走ってしまうだろう。でも、もうそうはならない。何があったとしても、いちばん容易で、いちばん早いルートを歩めるようになるためのもので、豊富な助けのようなものだ。その豊富さの中から毎回ピックアップすることができ、あらゆる先人たちの言葉やふるまいは、事前に起こることを教えてくれて、対処法や乗り越え方を教えてくれる。

 

奇跡講座以外にも、こんなにすごいものがまだこんなにもあったなんてと、これ自体が私にとっては本当にミラクルだ。奇跡講座ほどのものはゼロではないにしてもそうそうないだろう、と思っていたからだ。ましてや、素晴らしい人たちまでまだまだいた。

 

これらの“愛の資料”に押しつぶされるのは、とても気持ちがいいこと。

 

そして毎日、たくさんの奇跡を体験し、愛の資料たちは道を光らせて分かりやすくさせてくれ、勇気を与えてくれて、実行させてくれて、またさらなる奇跡を体験していくことができる。

 

 

 

 

私は“お勉強”しながら、一行にまごまごするのが大好き。そのまごまごが、たくさん教えてくれるから。だから“資料”が好き。それが理由で、前に祈った時には、「愛を直接体験できる、本でもなんでもいいからください」と言った。そして心身の心癒が示され、その後もポツンポツンと示された。あの時の祈りが、今になって今度は10tトラック級で答えられているような気持ちがしている。つきないというこのニュアンスがとてもよく、またジーザスは私が何が好きで、何を利用できるか分かっているというニュアンスにも安心する。

 

そして、今はまだ“資料”が無くなることは望めないが、いつか、私に資料が必要なくなって、ジーザスの声のみが資料になるようなときは、おそらく10tトラックどころではない愛の重さで押しつぶされる気分なのだろうなと想像することもできる。そして、そのようになぜしないのかのブロックも見えているように思う。自分が愛の世界に対して透明なシールドを張って、その巨大な世界を必死に遠ざけ続けているのが分かる。どうやら私は、それに溶けてしまえばいいのに、こんな大きな愛が入ってきたら私が壊れてしまいそうで、理由もなく恐れているようだ。そしてこれはある意味、そこに愛の世界が存在するとすでに認めている信念が芽生えているからこそだとも見える。ただ受け入れることの難しさを見ていると言えるかもしれない。だってこれを受け入れるということは、エゴの死。まるで、目の前のものが愛だと重々分かっていながら、来ないようにシールドを放射し続けているような気分。

 

今、理性として気づいていることは、そのシールドは作れていないからこそ、すでに大昔から、私の中に愛は侵入しているということ、そしてだから、作ることができたと思っているシールドとシールドの発生源を無視してつながる必要がある、ということです。