リトリート。いつものように、これは何だろうと思うようなものがある。何かをゲットしようと前向きになっている自分や、みんなと比べて自分はまだまだだと思う自分、みんなは本当に美しいな、でも自分はと思う自分......


後ろに下がろうとしてもなかなか下がれず、自分に優しくはできず、いつにまでたっても、自分にただ味わわせたり、自分を助けさせたりしてあげられない。それでも、頼み、信頼し直したり、今必要なことが起こっていると思い直したり。


そして初日の最後の最後、やっとこれさえも自分ではどうにもできないと諦め始めることができ、違った聞き方ができるようになってくる。


そこへフランセスが話してくれた。

「依存の質問に対して、与えるんだとデイビッドが言ったことが素敵だなと思って、思い出した」という映画の話。


「自分のことを誰も助けてくれない。だから君もここにいなくていい。」とある人が言うと、もう一人がこう言う。


I’m not here for you!  

I’m here for me! 

I need this! 

I need to help!  

I need to extend!


これで涙が吹き出して私は大丈夫になった。

助けてもらう準備ができたような気持ちだった。


私も、そこにいる全員も、このためにここにいる......ここにいる全員が間違いなくそう思っている......私は自分が助かる必要があるからここにいる......とにかくいる必要がある......助けが必要だから......助けが必要だから与え方を学んでいて......そうすることが与えていて......


そしてセカンドセッションでは、ずいぶん諦めながらの泣いたり笑ったりで、もう分からないから任せたという気持ちだった。歌もエピソードもどれも本当に素敵で、みんな本当に素敵だった。最後にはいつの間にか手叩きをしていた。





「癒すことを教えてもらうなら

 あなたは癒されるだろう」


またこれが起こったかもしれないなと思うことになる。


この癒すことと癒やされることの関係。


目の前のものを見る心の態度。


目の前の人たちには、救われるよう救おうとしないということに力を注いで、自分のことは、救われるようにするところに置いておいてあげる。


私のために聖霊を呼び込んであげて、聖霊を忘れないでいてあげる。


過ぎた後で見れば、これをしていたなと思う。





それでまた、何が違うのだろう?と思った。

日本にも先導するような立ち位置にいる人たちがいるけれど、私にとっては、何かが大きく違う。これにいつも、どこが違うのだろう?と思っていた。


それで、今日はセッションの後、ある日本の方のYoutubeを見てみた。前に感じたのと同じで、やはり何かが違う。そこへ行こうとは思わないな、と思うことになる。



しばらく考え、静かにしていると、

こんな考えが浮かんだ。


聖書の言葉で、だいたいこんな感じの内容。

「私は病人のところへいく」


これは、健康な人には私は必要ない。病人にこそ私は必要なのだというジーザスの言葉。





どういうことかと思い、しばらく考えた。


そして、わかったような気がする。



デイビッドのコミュニティの人たちや、そこへ来る人たちは、病人なんだと。自分が病人で、だから助けが必要だと分かっている人たちなんだと。だから、ものすごく目線が水平で、謙虚で、自分には分からないということが分かっていて、それでいて自分を卑小さの中に置いてはいけないという方向を向いている。自分が助かる必要があると思っている。助けようとしていない。デイビッドやフランセスでさえもちろんそうだと思う。実際にいつもそう言うし、そうしている。相当に低くて、そして結果、いちばん高く見える。


でも、私がYouTubeで見た人にはこれが見えなかった。病人に見えなかった。どこか... なにか... 病人さがない。やはり、ジーザスの言う心の病人の美しさに寄っていきたくなる。病人は本当に素敵。


今回、自分が降参できなかったのは、プライドのせいだと思う。自分がやるべきだと思っている範囲だったと思う。聞いたことを自分に当てはめて、考えて、どれこれを赦してと、いつの間にか自分で自分をより良く癒さなきゃとやっていたのだろう。私が医者になって。



ジーザスは、病人のところへこそ行く。


そんな高いところへはジーザスは入れない。


その方法が、ただ、あくせくして、気づいて、戦って、諦めて、最後の最後の短い話でブーン。みんなでブーン。

本当にありがとう。。。。。