ヨハネの福音書9章とともに
またイエスは道の途中で、
生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、
両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、
わたしは世の光です。」
私はこの世界に生まれた、
生まれつきの盲人。
見えない目であらゆるものを見て
見ていると思っている。
けれど私が「今」、「どんなものを」
この肉の目で見ているとしても、
それはすべて、
「今」私が神のわざを見て、
ああ本当だったと思うため。
人生においての数々の強烈な境遇はただ
神のわざを見るため。
だったら、数々の強烈な出来事が多いほど
神のわざを見る機会が多いということ。
強烈なほど、
かえって大きなわざに感じるということ。
だったら、
強烈に感じるほど
愛されていると感じるということ。
だったら、何を見ても
それしか見る理由はない。
赦せてないとか、
取り消せてないとかではない。
神のわざを見るために
喜ばしく見るものでしかない。
・・・🙏
10 そこで、彼らは言った。
「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、 泥を作って、私の目に塗り、『シロアム(訳して言えば、使わされた者)の池に行って 洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
ジーザスはただ、泥という方便を使って、「自らの意志で」池に行って洗いに行くという行動を付加しただけだ。
盲目の者は自分で洗おうと思って洗った。
これらの行動自体には何の意味もなく
その意志のみに意味がある。
盲目の者はただ、ジーザスを信頼して、ジーザスの言うとおりにした。
「ただ」そうすることができた
盲目の者ということだ。
信頼。
水で洗うというなんと美しい象徴。
そして、本当に、
「ただ泥を洗うだけで見えるようになる」
という比喩で教えてくれている。
私たちの罪悪感や恐れは
「ただ」洗うだけなのだ。
分析も攻略も考えることもいらない。
力を使って手放すのではなく、
ただ「まぶたに水を流れさせるだけのこと」だ。
そして、何を見ても、
水で洗い流されてしまうような
泥でしかない。
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるというこです。」とです。
ただ一つのことだけを知っていれば良い。
それへの信頼以上にパワフルなものはない。
それは
「彼は、盲目であったのに
今は見えるようにすることができる存在である」
ということ。
31 神は、 罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
罪悪感にまみれるのではなく、
幸せな学習者でいることの中で
神はみこころをなす。
そして本当は、私は、
そうしていて言うことを聞いてくれている、
ということを覚えているはずで、わかっている。
39 そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。
それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
罪という概念から救うためにジーザスはいる。
光をまだ見えていない私に
光が見えるようになるために。
偶像が見えていると思っている私に
偶像を見えなくするようになるために。
40 パリサイ 人 の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、
あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、あなたがたは今、
『私たちは目が見える』と言っています。
あなたがたの罪は残るのです。」
偶像を見て、
それを判断できないようであれば
私は本当に幸せなのだ。
けれど今は、偶像が見えると言っている。
そこに意味があると言っている。
だから罪が残っていると言い張っている。
* * * * * * *
今日のこの聖書は、何をしようとしてくれているのか、何をしなければならないのかをはっきりと見せてくれています。
私が今流している涙と共に、
神のわざを見るためのこの盲目を
これまでよりも好きになるような気がします。
ただ目が洗い流されながら
あらゆるものを見ることができますように。
そしてたくさんの神のわざを
見るようにさせてください。
😭😇🕊🕊🕊♥♥♥
